才能?文章には関係ないよ。あなたの日常が誰にも真似できない最強のコンテンツに変わる時|書籍化ログ(創作論/エッセイ/生成AI/note)
文章に、特別な才能はいらない。
絵を描く人を見ていると、いつも思う。
「ああ、これはちゃんと才能と技術がいる世界だな」と。
線一本で差が出るし、積み重ねたものがそのまま完成度に出る。
私は、鳥を縦に飛ばすタイプの絵を描いてしまうので、
ちゃんと描ける人のことは、素直にすごいと思うし、
少しだけ遠い世界にも感じる。
それに比べて、文章はずいぶん曖昧だなぁ…と思う。
極端な話、文字さえ打てれば誰でも書けるし、
実際、自分もそんな軽いところから始まった。
だからなのかもしれない。
書籍化してから、
「アイデアはあるけど書かないんだよね」と言いながら、
その理由を「才能の差」で片づける人に出会うことが増え、
そのたびに少しだけ、モヤっとするようになった。
私には、物知りで、文章もうまくて、語彙力も桁違いな友人がいる。
その友人は、私のweb小説が書籍化したとき、すぐに本を買ってくれた。
ものすごくうれしかった。
そして後日、「言葉探し辞典」なる本をプレゼントしてくれた。
たぶん友人的に、私の物語は「語彙」が貧弱だったのだろう。
実際、その通りだと思う。
読む人が読めば「足りない」と感じる部分はたくさんある。
それでも、その文章は「本」になった。
ここnoteの世界にも、少し見回すだけで
「うわ、うまいな」と思う文章を書く人は、本当にたくさんいる。
それでも、本になる作品がどんなものかというと、
意外と、そういう“うまい文章”ばかりではなかったりする。
むしろ、拍子抜けするくらい普通の言葉で、
すっと読めてしまうものの方が多い。
過去に、編集さんからこんなことを言われたことがある。
「文章は、ぶっちゃけこちらで販売ベースまでもっていけるので」
最初聞いたときは、驚いた。
でも今は、その意味がなんとなくわかる気がしている。
多くの人が勘違いしているのは、たぶんここだ。
「アイデアはあるけど書かない」理由を、
“才能の差”にしてしまうこと。
たぶんそれは、「商業ベースの文章」というものを、
少し神聖視しすぎている。
特別な言い回しや、技巧的な表現や、
三点リーダーは二回打つとか、
SNSでよく見る“それっぽい正解”とか、
そういうものが必要なんだと。
でも、実際に見られているのは、そこじゃない。
下手でもいい。
不器用でもいい。
ちゃんと、読者の心に触れているかどうか。
それが、いちばん大事にされている。
うまく書くことよりも、
ちゃんと“触れているかどうか”。
みんな、表面的な「文章のうまさ」に気を取られすぎて、
勝手にハードルを上げて、
書く前にやめてしまっている気がする。
文章は、評価を得るために、
絵のような明確な技術が必要かと言われると、
少なくとも私の感覚では、そうじゃない。
だからこそ、文字の世界は面白い。
私みたいな凡人でも、
友人に言葉探し辞典を贈られるような情けない私でも、
それでも形になる世界。
そんな私だからこそはっきりと言えることがある。
文章の才能って、たぶん
「上か下か」で測るものじゃない。
うまいとか下手とか、そういう尺度じゃなくて、
“観測範囲の違い”が文章なんだと思う。
誰かは、その時の色やにおいに敏感で、
誰かは、その時の視線の先に映る景色を見ていて、
誰かは、その時の人の感情の揺れを拾っている。
それぞれが見えている「景色」が違うから、
見えている「景色」を切り取る文章には
優劣なんて本当は存在しない。
世の中には確かに、天才がいる。
彼らにしか見えない景色は、たしかにある。
それはもう、どうやっても届かない場所で、
だからこそ惹かれるし、憧れもする。
でも同時に、
“凡人にしか見えない景色”も、確実に存在している。
そしてたぶん、こっちの方が数は圧倒的に多い。
この世界の大半は、
その「凡人」でできているから。
だからなのかもしれない。
多くの人に届く「何か」をちゃんとわかっているのは、
同じ地面に立っている側の人間だったりする。
これ、きれいごとみたいに聞こえるかもしれないけど、
実際に書いていて、何度も感じてきたことでもある。
賢い人が、賢い文章を書けるのは当たり前。
でも、その文章が届く範囲は、
意外と広くなかったりする。
たとえば、こんな感じ。
「春霖の朝霧けぶる山脈のすそ野からぬるりと湧き上がる
春の原型のような温もりが、草木の芯をそっと目覚めさせる」
「春の雨上がりでしっとりした朝もやの山のふもとから、
ゆっくりあたたかい空気がのぼってきて、
草や木が少しずつ春を感じはじめている」
どちらが好きかは人それぞれだと思うけど、
読んでいて景色が浮かびやすいのは、
たぶん後者の方。
賢い文章と、伝わる文章は、少しだけ違う。
それなのに、
商業ベースに乗るためには「賢い文章」が必要だと思って、
そこで止まってしまう人は多い気がする。
もったいないな、と素直に思う。
そして、ここからは「書くこと」を生業としている人には
とても頭の痛い話になるのだけれど、
今の時代、「文章を書く力」そのものは、
かなりの部分までAIに代替されるようになった。
構成も、言い回しも、
ある程度までは、誰でも“それっぽく”作れてしまう。
だから、「書く力」そのものは、
もう特別な武器ではなくなってきている。
これは、書くことを仕事にしている側からすると、
ちょっと複雑な気持ちにもなる。
でも同時に、
すごくシンプルになったな、とも思う。
これから先は、たぶん——
「どんな景色を持っているか」
そこが、そのまま価値になると思うから。
どれだけ解像度高く、
自分の見ているものを、そのままの形で手渡せるか。
たぶん、それだけ。
こういうことを言うと、まず
「何を書けばいいかわからない」と、つまずく人が大量に発生する。
でもこれ、言い換えると、
“自分の見ているものに、価値があると思えていない”
だけなんだと思う。
本当はみんな何かしら見ている。
ちょっと引っかかったこととか、
なんとなく飲み込んだ違和感とか、
言葉にしなかっただけの気持ちとか。
ただ、それを
「こんなの大したことない」
「みんな我慢してるし」
って、なかったことにしてしまう。
でも、それがいちばんもったいない。
何度も言うけど、
世の中の大半は「凡人」でできている。
だからこそ、
その“何でもない感覚”に共感する人も、ちゃんといる。
特別じゃないからこそ拾えるものがあって、
特別じゃないからこそ言葉にできることがある。
それはきっと、誰かにとっての
「これ、自分のことだ」になる。
だから、文章に特別な才能はいらない。
必要なのは、
自分の見ている景色を雑に扱わないこと。
自分の気持ちを、なかったことにしないこと。
見たこと、感じたこと、引っかかったこと。
そういうものを、そのまま外に出していくこと。
うまく書こうとしなくていい。
今はそこを助けてくれるものもたくさんある。
それよりも大事なのは、
その文章がちゃんと「あなたの見てきたもの」になっているかどうか。
ただそれだけ。
これからの文字は、
たぶんそれがいちばん強い。
当たり前すぎて見過ごしてきた感情や、
みんなが黙っているから飲み込んできた違和感や、
お弁当の出来不出来とか、
洗濯物の生乾きの匂いみたいな、どうでもいい日常。
そういう「何でもない解像度」が、
いちばん深いところで人の心を揺らす。
私は、そう思っている。
だからこそ——
「こんなこと書いても意味ないかも」と思って、
置いてきてしまったものを、
ここで、少しずつ拾っていけたらいいなと思う。
この場所で、そういう景色が読めたら、
たぶん、すごく面白い。
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