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【短編小説】 土曜日の黄色 ― 掃除を終えた部屋に、舞い込んだ鼓動




​ 仕事に追われ、積み上がったタスクをこなすように過ぎていく平日。

 ゆずにとって、土曜日の午前中は、戦場から命からがら逃げ帰ってきた後に手に入れた、唯一の聖域だった。

 ​床拭きを終えて、ベランダのガラスを拭き、ベッドのシーツを取り替えると、溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込む。洗剤の匂いが立ち込める中で、散らかった雑誌を揃え、カラーBOXの埃を拭き取る。
 ようやく「自分の部屋」を取り戻したとき、洗濯機はまだゴトゴトと唸りながら、次のタスク(脱水)へ進もうとしていた。

​「……終わった」

 達成感というよりは、ただひたすらの脱力。
 ゆずはそのまま、掃除したてのフローリングに背中から倒れ込んだ。
 水拭きしたばかりのフローリングは、ひんやりとしていて、薄いシャツ越しに清潔な硬さが伝わってくる。天井を見上げると、視界がゆっくりと回るような感覚。

​ 遠くの交差点から、「カッコー、カッコー」と信号機の音が、ボンヤリと聞こえてくる。

​ 何気なくベランダの方へ視線を移した。

​ そこに、いた。

​ アルミの柵の上に、不自然なほど鮮やかな「黄色」が、ぽつんと置かれている。

​「……え?」

​ ゆずは、床に張り付いたまま、瞬きを忘れた。

 インコだ。

 小ぶりで、丸みを帯びた、ひかりを凝縮したような黄色い羽。

 逃げ出す風でもなく、その生き物は首を数ミリだけ傾け、黒い瞳でゆずをじっと見つめ返している。
​ 洗濯機の規則的な振動が、床を通じてゆずの背中に響く。
 外では変わらず、信号機の音が時を刻んでいる。

 けれど、窓ガラス一枚を隔てたその黄色いインコと目が合っている間、ゆずの部屋の時間は、凪いだ湖面のようにぴたりと止まってしまった。

​ 眩しい午前の光を背にして、あまりにも静かで、あまりにも美しくて。

 ゆずはただ、息を潜めて、その「黄色」を網膜に焼き付けていた。



​ 床の冷たさに吸い取られていた体温が、胸の奥からじわじわと戻ってくるのを感じた。

 ゆずは、網膜に焼き付いた「黄色」をこぼさないように、ゆっくりと、祈るような動作で上半身を起こした。

​ 掃除を終えたばかりの窓ガラスは、そこにあることを忘れるほど透明に磨き上げられている。

 その「透明な境界線」の向こう側で、インコは相変わらず、小さな哲学者か何かのような深い眼差しでこちらを見ていた。

​ ゆずは息を止めたまま、膝を折り、指先をアルミサッシの鍵へと伸ばす。

 いつもは無機質に「カチリ」と鳴るその金属音が、今は世界を切り裂くほど鋭く思えて怖かった。

​ 自分の指先が、わずかに震えている。

 この鍵を開けて、窓を数センチ滑らせたとき、この「奇跡」は羽ばたいて消えてしまうのか。

 それとも、この部屋の「聖域」の一部になってくれるのか。

​ ゆずは、自分の心臓の音と、洗濯機の脱水が始まった遠い唸りを聞きながら、ゆっくりと銀色のレバーに指をかけた。




 窓を数センチ滑らせると、外の熱を孕んだ空気が、掃除したての部屋の冷気と混ざり合い、カーテンを微かに揺らした。

​ インコは一瞬、羽をキュッとすぼめて身構えた。

「……あ」

 ゆずは反射的に動きを止める。

 行かないで。心の中で呟いた言葉が、喉の奥で熱く震える。

​ けれど、黄色い塊は逃げなかった。

 飛び立つ代わりに、インコは小さく首を傾げ、まるでゆずの心の準備を待っているかのように、再び静かにそこに留まった。

​ 誰かが飼っていた鳥だろうか。

 どこかの窓から、うっかり広い世界へこぼれ落ちてしまった「誰かの日常」の欠片。

 ​ゆずは、自分の鼓動がベランダの床を伝って相手に響いてしまわないかと思うほど、ゆっくりと膝をついて距離を詰めていく。

 伸ばしかけた手の指先が、外光に透けて白く光る。

 あと数十センチ。

​ 掃除機の音が止まった部屋は、今、この小さな生き物の呼吸の音さえ聞こえそうなほど、濃密な静寂に包まれていた。



「あ――」

 逃げた、と思った。空へ帰ってしまったのだと。

​ けれど、風を切る音はゆずの耳元を掠め、部屋の奥へと突き抜けていった。

 呆然と立ち尽くすゆずの視界で、黄色い影が「パタパタバタ!」と激しく空気を叩き、天井近くを旋回する。

​ 自分がたった今、埃ひとつなく磨き上げた空間。

 その無垢な静寂をかき乱すように、インコは自由奔放に飛び回った。

「ちょっと、待って、どうしよう……」

​ どうにかして捕まえなければ。そう焦るゆずの心配を余所に、インコはふっと旋回をやめ、重力に身を任せるように下降した。

​ 降り立ったのは、綺麗に整えられたベッドの上。

 まだ干したての太陽の匂いが残る、真っ白な掛け布団。

​ 柔らかな布が、インコの重みでわずかに沈む。

 インコは羽を一振りして整えると、そこが最初から自分の居場所だったと言わんばかりの平然とした顔で、ゆずを見つめた。

​ 掃除したての部屋のど真ん中に、ぽつんと置かれた鮮やかな黄色。

 それは、ゆずが取り戻した「日常」というキャンバスに、世界が勝手に描き足した、あまりにも身勝手で愛おしい一点の絵の具だった。



 ゆずは、膝をついたままベッドの縁へと這い寄った。

 真っ白な掛け布団の海にぽつんと浮かぶ、鮮やかな黄色の島。近づくにつれ、その小さな胸が呼吸に合わせて、驚くほど速いピッチで上下しているのが見えた。

 「……すごい」

 思わず吐息が漏れた。

 ただの小鳥だ。重さにして、わずか数十グラムの命。なのに、そこから放たれる「生」の圧力は、平日のオフィスを支配していた冷たく乾燥した空気など一瞬で焼き切ってしまうほどに強烈だった。

 ゆずの心臓が、インコの鼓動に呼応するようにドクドクと速度を上げる。

 乾ききっていたはずの血管に、新しい血液が流れ出す感覚。恐怖を通り越した純粋な好奇心と、高揚感が、ゆずの視界を眩しく染め上げた。

 脅かしたくない。けれど、触れたい。

 この圧倒的な生命の「根っこ」に、自分の指先を繋いでみたい。 

 ゆずは祈るような心地で、ゆっくりと右手を伸ばした。

 あと、五センチ。

 インコは逃げなかった。それどころか、黒真珠のような瞳をさらに細め、ゆずの指先をじっと見つめている。その眼差しには、人間を恐れる風でもなく、対等な命として相手を鑑定するような、静かな知性が宿っていた。

 「おいで」

 声に出した瞬間、自分の喉が熱く震えるのがわかった。
 ゆずは人差し指を横に寝かせ、インコの足元へ、そっと差し出す。
 震える指先が、インコが放つ微かな体温の壁を突破した。

 永遠とも思える静寂が部屋を支配した、その直後。
 インコはひょいと、片方の細い足を上げた。柔らかな黄色の羽毛の中から、鱗に覆われた小さな爪が伸び、ゆずの人差し指をしっかりと掴む。

 「――っ!」

 熱い。

 指先から心臓へと、稲妻のような熱が駆け抜けた。
 鳥の、驚くほど高い体温。細い爪が皮膚に食い込む、確かな痛みと刺激。

 インコはそのまま、もう片方の足もゆずの指へと移した。

 ゆずの指の上に、小さな命が「乗った」。



 指の上に、確かな重みが加わった瞬間。
 張り詰めていたゆずの心から、ぷつりと糸が切れる音がした。

​ (ああ……よかった)

​ それは、鳥が逃げなかったことへの安堵と、指先から伝わってくるインコの、驚くほど高くて柔らかな「ぬくもり」。その熱がゆずの皮膚を透かし、冷え切っていた芯の部分までスッと染み込んでいく。

 すると、自分でも驚くほど不意に、ゆずの口元が緩んだ。 

 「ふふっ……」

 訳もなく、笑みが溢れた。

 ただ、この小さな命が自分の指を選んでくれた、その一点の事実だけで、胸の奥が温かな毛布で包み込まれたような心地になった。

 仕事への焦燥感も、積み上がった平日の疲弊も、すべてがどうでもいいことのように思えてくる。

​ ゆずは、指の上の「黄色」をこぼさないように、今度は赤ん坊を抱き上げるような慎重さで、その小さな生命を自分の胸元へと引き寄せた。

 「君、どこから来たの?」

 語りかける声は、さっきまでの乾いた独り言とは全く違う、潤んだ響きを帯びていた。

 インコは、ゆずの問いに答えるように、その小さな嘴でゆずの爪を軽く「コン」と叩いた。



​ インコが爪を「コン」と叩いた余韻を胸に、ゆずはゆっくりと立ち上がった。

 指の上のぬくもりを離したくない。けれど、洗濯機は「終わったよ」と無慈悲にピーピーと鳴り続けている。

​「……ちょっと、待っててね」

​ ゆずは、壊れ物を扱うような手つきで、インコを再び真っ白な掛け布団の上へと下ろした。

 指が離れる瞬間、ふっと熱が逃げていくのが寂しくて、ゆずは名残惜しそうに一度指先を握りしめた。

​ 洗濯物のカゴを抱えて移動する間も、ゆずの意識は部屋に残した「黄色」に支配されている。

 カゴに洗濯物を移しながら、何度も首を伸ばして、リビングのベッドの方をチラリと覗き込む。

​(まだ、いる。……よかった)

​ インコは、掛け布団の海の上で、羽を繕ったり、不思議そうに首を傾げたりしている。

 もし今、あの子が急に怖くなって、開いたままの窓から飛び出していってしまったら?

​「……あ」

​ その不安がよぎった瞬間、ゆずは濡れたタオルを握ったまま、ベランダへの窓を、ほんの数センチだけ残して、そっと閉めた。

 完全に閉めてしまうのは、あの子を閉じ込めるようで気が引けた。でも、行かせてしまう勇気もなかった。



 いつもなら無心でこなすはずのルーチンワークが、今はもどかしくて仕方がない。

​ ゆずは、濡れたバスタオルを肩にかけたまま、ポケットからスマホを取り出した。

 画面には『セキセイインコ 迷い鳥 保護』『インコが食べてはいけないもの』といった検索結果がずらりと並んでいる。

​「……アボカドはダメ、チョコレートも、玉ねぎも……」

​ 画面をスクロールする指が止まらない。
 調べれば調べるほど、この数十グラムの命を維持するための「ルール」が、今の自分の生活には一つも備わっていないことに気づかされる。

 画面を見つめるゆずの視界の端で、部屋の中の「黄色」が小さく跳ねたのが見えた。
 慌てて顔を上げると、インコはベッドの上で、ゆずが脱ぎ捨てた靴下を不思議そうに突ついている。

​「こら、それは食べられないよ」

​ スマホの画面には、迷い鳥を掲示板に登録するように促す文字も躍っている。

 どこかに、この子がいなくなって泣いている誰かがいるかもしれない。


​9


 スマホの電源を落とし、スエットのポケットに押し込む。

​ ゆずは最後の一枚を干し終えると、ふっと顔を上げた。
 視線の先には、どこまでも突き抜けるような、雲ひとつない澄んだ空が広がっている。
 大きく深呼吸して、再び部屋に戻る。

 掃除したての、清潔な匂い。

​ ベッドの縁に腰を下ろすと、インコは待っていたと言わんばかりに、トコトコと掛け布団の海を渡ってきた。そして、ゆずの膝の上で小さく羽を整え、再び深い黒い瞳で見上げてくる。

​ 窓の外ではまた、交差点の信号機が「カッコー、カッコー」と、代わり映えのしない日常を刻んでいる。

​ けれど、ゆずの膝には、確かに三十グラムの熱い「命」が乗っている。

​ 明日には、誰かに連絡しなければならないかもしれない。

 この「黄色」は、いつか空の彼方へ消えてしまうのかもしれない。

​ でも、今は、ただこの静寂を味わおう。

​ ゆずは、窓の外の青空を映したような透明な瞳で、自分の膝の上で平然とあくびをする「黄色い奇跡」を、ただ愛おしそうに見つめ続けた。

​ 部屋の中には、洗濯機が止まった後の、深い凪のような時間が流れていた。



あとがき

 忙しない日常の中で、ふと立ち止まった瞬間にだけ見える景色。

 ゆずにとってそれは、ベランダに舞い降りた一羽の黄色いインコという、小さくて強烈な「生」の輝きだったようです。

​掃除を終えたばかりの静かな部屋。そこに描き足された一点の黄色。

そんな、日常に紛れ込んだささやかな奇跡を、どこかで誰かが  思い出してくれたら嬉しいです。



​🎨 土曜日の黄色
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