『一生の宝物』
■ サイン色紙
1989年の夏休みが近づいたある日。
いつものように授業に退屈していた僕の耳に宣伝カーの声が聞こえた。
それは、スポーツ平和党を立ち上げ、参議院議員選挙に出馬しているアントニオ猪木がm隣り町のスーパー前に広場にやってくる、というアナウンスだった。
当時のぼくは、両親の離婚から続くごたごたのなかで、楽しいことなんて、ほとんどなかった。そんなぼくの唯一の楽しみがプロレスを見ることだった。
プロレスを見て、プロレスラーがやられてもやられても立ち上がる姿に勇気付けられて、ぎりぎりのところで不登校になることも、グレることもなく、中学校に通っていた、という状態だった。
当時のアントニオ猪木は、1988年に藤波辰巳と対戦したIWGPヘビー級選手権を終え、選手としては、終わりを迎えようとしていたときだった。それでも、やはりアントニオ猪木の存在は大きかった。
当時、地元には新日本プロレスが来ることもなかったので、その姿を生で見たことすらない。
「これは行くしかない」
特に勉強が好きな方でも得意なほうでもなかったぼくは、いつも以上に授業を上の空で聞きつつ、どこで色紙とペンを買って、アントニオ猪木にサインをもらおうか、とそればかりを考えて、放課後を待っていた。
授業が終わると、ぼくは、クラスの友だちに挨拶する時間も惜しんで、走り出した。
住んでいたところは田舎なので、色紙を買える場所は限られている。ぼくは、思い当たる文房具屋に一目散に駆け出して、色紙と油性ペンを買った。
ちょっと遠回りしてしまったので、そのあとはさらに急いで隣り町のスーパーまで休みなく走った。たぶん、体育の授業のときより、早かったと思う。
スーパーにつくと、すでに結構な人だかりができていたが、ほとんどは選挙権を持たない子どもたちだったように思う。普段、週刊プロレスを愛読するくらいのプロレスファンだったぼくは、「そんなにプロレスファンじゃないくせに!」と集まった同世代の子どもたちにこころのなかで悪態をついた。
しばらく待つとワンボックスカーが止まり、アントニオ猪木が現れた。普段、テレビでしか見ていないその姿は、ぼくの目には神々しく見えた。
それほど、プロレスファンではないはずの人たちが、それこそチラシの裏紙みたいなものにサインを求めている。
「そんな失礼なことするなよ!」
と思うぼくをよそに、アントニオ猪木は、みんなに笑顔でサインをし、握手をしていた。
大勢の人が並んでいることもあり、無為に時間が過ぎていく。
「はい、では時間になりましたので、ここまでで、終わりにします」と、進行役をしていた秘書のひとが、宣言する。
僕は思った。
「こんな目の前まで来ているのに。こんなに頑張っても、サイン一つ手に入れられないんだ。ぼくの人生にいいことなんて、なにも起きないんだ」
当時のぼくは、それくらいネガティブな思考に支配されていたのだ。もしかしたら、ちょっと涙目をなっていたかもしれない。

そのとき、秘書のひとが言った。
「じゃあ、そこのキミまでね!」
最前列より、少し下がったところにいたぼくに手招きをしてくれる。
チラシの裏にサインをもらうような子どもたちのなか、ひとりだけサイン色紙をもって、立ち尽くしている少年が目に入ったのだろう。こうして、前の何人かは飛ばして、ぼくが最後にサインをもらうことができたのだった。
もちろん、選挙活動の忙しい中で書かれたサインなので、それほど時間をかけず、さらっと書かれたものだった。それでも、ぼくにとっては、それは間違いなく宝物だった。
そんな宝物を手に入れたことで、生きていればこれからもちょっとくらいいいことがあるかもしれない、と信じることができたような気がする。
もちろん、そのときもらったサイン色紙は、35年以上がたったいまも大切にもっている。
■ 闘魂注入
それから、四半世紀がたったころ。僕は、弁護士となり、福岡で生活をしていた。
行きつけとなった居酒屋の大将は、アントニオ猪木と交流があることで知られていた。居酒屋の看板は、アントニオ猪木が書いたものだし、店内にも猪木グッズがあふれていた。
ある日、夕方の法律相談を終えて、携帯電話を見ると、大将から何度も着信が入っていた。なにかトラブルでも起こったか、と心配して電話を折り返すと「今日、猪木さんが来るから!お前会いたいだろ、すぐに店に来い」と言ってくれた。
緊張のあまり目の前のビールジョッキを一気に飲み干す。
「お強いですね。次は何を飲まれますか?」
「いえ、そんな・・すみません、ありがとうございます・・」
となりから声をかけてくれたのは誰あろう、アントニオ猪木!さんであった。
「焼酎、お注ぎしましょうか?」
名刺交換しただけでも恐縮なのに、なぜかいろいろと気を使ってくれる猪木さん。
猪木さんから、焼酎なんてついでもらったら、罰が当たるというか、すべての運を使い果たして明日、命を落とすのではないか、と本気で思ったくらいであった。
結局、そのあともいろいろと話をさせてもらった。途中で福岡市のエライ人なども現れて、猪木さんの話に真剣に耳を傾けていた。おつきの人たちは、あまりそっちの話は好まないようだったが、気になったので政治の話を聞くと、猪木さんは、それまで以上に気持ちを入れて熱く「スポーツを通じた平和外交」について語ってくれた。
権力におもねったりせず、安易に他国を批判せず、独自の外交で平和をもたらさそうという、25年前の選挙のときからの一貫した姿勢を確認することができて、とてもうれしかった。
ちなみに、この翌年、猪木さんは、ふたたび選挙にでて、参議院議員となり、6年間の任期を無事つとめあげることとなった。
その日の縁もたけなわ、というころになって、もう一つだけ猪木さんにお願いをするべきか、迷っている自分がいた。
いわゆる、闘魂注入、闘魂ビンタである。猪木さんも、いつでもやってくれる、というわけではないらしい。ましてやプライベートの席で頼まれるのは、あまりうれしいことではないかもしれない。下手したら、これまでの楽しい雰囲気をぶち壊してしまうことになるのではないか、とちょっと臆病になっていた。
それでも、ここは一生に一度の機会。ここで頼まなければ、ずっと後悔しつづける気がした。ぼくは、勇気を出して、猪木さんにお願いをした。
「アレをお願いします!」
すると、猪木さんは、意外なほど、あっさりと笑顔で、了解してくれた。笑顔のまま、指を僕の腹にあてて、気を集中させたあと、「パン!」と一発、頬をぶつ音が響き渡る。
このときのことを多くにひとから聞かれる。「あれ、痛かったですか?」それに対し、ぼくはいつも、こう答えている。「幸せすぎて、痛かったかどうかなんて、覚えてません」
実際、それがぼくの本心だった。
幸いこのときの様子をお店の大将が動画で取ってくれていた。この動画は、僕の一生の宝となった。
この日を境に、大げさでなく、人生の流れがいろいろ変わったように感じた。その後、いろいろなスゴいプロレスラーや、有名人とも交流をさせてもらう機会が増えた。いろいろ考えすぎて、後で後悔しても仕方ない、と思えるようになったからだろう。
あとで後悔がないよう、日々を生きるくせがついたように思う。その姿勢は、猪木さんが引退試合で、詠んだあの詩に通じるものだと思うのだ。
「この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せば、その人足が道となり、その人足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ!」

