「表現規制問題」その意外な本質と真の敵について
※このnoteは「フェミ」批判ではない、表現規制への賛成でもない
表現の自由云々はもう何年も幾度となく議論され続けたテーマである。
にもかかわらずジェンダーに関連した炎上においても人種問題においても
ネットで何か騒動が起きるたびに。
「ポリコレが」
「フェミニストが」
「チー牛が」
「ネトウヨが」
と言った言論ばかりであり、もほとんどテンプレ化している。
論者のとんどが「ポリコレ」とはいかなるものであるか説明ができない。
私はこうした議論にほとんど意味を感じないし、こういった言論による何らの社会変革も期待していない。
ポリコレとは何か
Political Correctnessとはアメリカの大学を中心にインディアンをネイティブアメリカンに言い換えることなどから始まった、
特定の人種や性的指向などの属性に対して不快感を与えないための配慮である。
これはコンプライアンスと呼ばれるものに類似する性質を持つ。
コンプライアンスは「法令遵守」と訳されるが、その意味は字句の通り「法律」に従うというわけではなく、
「社会規範」などと言う曖昧かつ流動的な概念に従う意味も含まれている。
広告表現の適正化もコンプライアンスであるし、
社内のマナーの徹底、ハラスメントの防止と言ったこともコンプライアンスに該当する。
つまるところ、コンプライアンスとは他者に対する配慮や品行方正なイメージの維持、綺麗な社会への渇望といった理念がその根底にあるものであると言える。
これはおよそポリティカル・コレクトネスの掲げるものと一致している。
さらに本質的なところまで踏み込むとそうした理念の蔓延には
「不快・不安・リスクを社会から消したい」(以下これを公共の漂白と呼ぶ)現代社会特有の病理があると言えるのではないだろうか。
それは岡田斗司夫の提唱するホワイト化社会とおよそ同じことであると考えられる。
評論家の岡田斗司夫氏は、私たちの社会が「ホワイト化社会」になったと分析している。これは、誰もが健康で清潔、正しい行いを求められる社会といった意味だ。
例えば、昔の芸能人は不倫をしてもほとんど非難されなかった。むしろ、それを許されているのが芸能人だと思われていたふしもある。しかし現代では、どんな立場の人にも厳しい道徳性が求められるようになった。
世界は激変した
公共の漂白について、「THE IDOL M@STER」シリーズを例に具体例を示そう。
かつては「アイドルマスター シャイニーカラーズ」(2018年)まではキャラクターの胸を触る機能、通称パイタッチが存在した
(ただし過去の作品と比べて抑制された表現になったと言われている)
それどころか「アイドルマスター シンデレラガールズ」の最盛期には
「ニコニコ動画」において「U149」のキャラクターが登場する動画に
「誰から生まれてこようかな」や「孕め」などの気持ち悪いコメントが付くことが日常茶飯事であった。
しかし比較的最近の作品である「学園アイドルマスター」ではそのような文化はほとんど見られなくなってしまった。
もっと昔の例を出そう、1970~2000年代頃の話である。
(筆者自身がその時代を見たわけではないので誤った情報が含まれる可能性に留意すること)
実写の特撮作品のヒロインのパンチラが放送されていたし、
「まいっちんぐマチコ先生」のような性加害描写を含むものが地上波で放送されていた。
そういった傾向はいわゆるオタク文化に分類されるものだけではない、
親世代が若かった頃は路上喫煙や未成年飲酒は当たり前に行われていた、
バラエティ番組では女性芸能人の身体いじり、「ブス」「デブ」「オカマ」弄りが横行していたし、
THE TIMERSのTVの生放送でのFM東京罵倒ソングなどもあった。
さらにそれは受け入れられていたようだ。
いまはいかに問題を起こさないかが重視されがちだが、当時のテレビ、特にフジテレビは、そうではなかったように思う。いかに“事件”を起こすか。それが正義だったに違いない。事実、水口もプロデューサーに放送の可否を確認したそうだが、「いいんじゃない?」という答えだったという。
「スタジオの誰もが悪いことをしているという認識がなくて、瞬間を捉えろ的なジャーナリズムじゃないけど、形式とは違うところの面白さを撮り逃すなみたいな空気はありました」(水口)
向こう見ずな時代の勢いがそこには確かにあった。
真の敵は「公共の漂白」である。
先に述べたような例からも分かる通り、近年では公共の漂白が進んでいる。
しかし、真の敵がなんであるのかについてわかっていない者も多い。
いわゆる萌え絵を叩いている層とそれを叩く層をよく観察してみて欲しい、「フェミニズム」を掲げている人はそこまで多数派だろうか?
誰もが、ジェンダーバイアスの助長を危惧して萌え絵広告を批判しているだろうか?
否、「不快に思う人がいるから」「異常である」と言った主張も多い、また「女性の権利」のような主張をするものであっても必ずしもフェミニストを名乗ってもいなければ、思想・学問・運動としてのフェミニズムについて学んでいるとは限らない。
にもかかわらず、萌え絵を叩く層はその多くが「フェミ」や「リベラル」と呼称される。
そして興味深いのは、表面的には対立しているように見える立場同士が、結果的に不快を公共空間から排除する「公共の漂白」に加担してしまうことが少なくない点である。
エロ広告や萌え絵を叩くのも、「170cm以下の男には人権がない」という発言を叩くのも「公共の漂白」への加担行為であると言える。
「公共の漂白」に対抗するにはネットでの「男叩き」も「女叩き」も当然その程度は肯定されなければならない。
にもかかわらず「男叩きもひどい」「ジェンダー系はどちらも過激だ」と言った言説が多い、
エロイラストを垂れ流す自由を守りたいのであれば「クソオス」という文字列がTLに流れてくる程度は当然許容しなければならない。
男女の対立だけではない、普段「ポリコレ」や「リベラル」を否定しているはずの保守が「アサシンクリードシャドウズ」を叩いたことは記憶に新しいだろう。
それも「公共の漂白」への加担行為である、諸外国をヘイトする自由を守りたいのであれば、鳥居を破壊する程度の表現は当然許容されなければならない。
故に「フェミ」でも「リベラル」でも「保守」でもなく、
「不快をゼロにしたい社会設計そのもの」に対する反抗が必要である。
「公共の漂白」に対抗するには
今でもパイタッチがあるゲームはあるが、それはDMMのソシャゲ等であり大手IP、マス向け、スマホゲームの主流からは消えている。
オタク=キモオタの時代は過去のものとなり、
オタクの主流派はキャラクターのおっぱいを触るのではなくほっぺをつねるようになった、
次はどうなるのか、頭をなでる事しかできなくなるのか?
反体制・暴力的・性的な歌詞を歌うRock'n Rollerはもはや過去の存在である。
電話回線がパンクするほどの人気を誇ったバンドが「体がなきゃ誰がお前を」なんて歌詞や「尻軽な10代の少女を揶揄した歌詞」の曲を歌った時代は過去のものとなり、現代の大人気バンドはコロンブスのMV一つ自由に作れない、
オタクですら、「もっと!孕ませ!炎のおっぱい超エロ♡アプリ学園!」の広告を擁護しなくなった。
公共の漂白は文化のジャンルを超えて浸透している。
そしてこれは法規制の成果でもない。
ただ「公共向けとして無難な振る舞い」だけが選別された結果である。
すなわち再び我々が勝利するには、
我々が好む過激なものを称賛し伝え広め、
そして何よりもし創作の才があるのならば作ることである。
