共に生きる社会を考える②当事者が自分を語る言葉は、誰が決めるのか──差別語と自己定義権を考える
なぜ私が違和感を覚えるのか
差別的とされる言葉について考えるとき、私はしばしば違和感を覚えます。
それは、その言葉によって傷つけられてきた方々への配慮が語られる一方で、その言葉を自分自身の表現として使っている当事者の存在が議論の中から抜け落ちているように感じることがあるからです。
もちろん、誰かを傷つける可能性があることや周囲への影響を考えずに使うことが良いとは思いません。
言葉には歴史や背景があり、過去に差別や侮辱のために使われてきた言葉によって傷つけられた方々がいらっしゃることも理解しています。
また、人それぞれに受け取りかたが異なるため、自分は気にならなくても、同じ言葉によって傷つくかたがいらっしゃることも事実です。
そのため、相手や周囲への配慮は必要です。
けれど同時に考えなければならない問題があります。
それは、「当事者が自分自身をどのような言葉で語るか」という問題です。
人には、自分が何者であるかを自ら定義し、自らの言葉で語る権利があります。
誰かが自分自身について語るとき、どの言葉を用いるのかは、各個人の経験や価値観、人生の歴史と深く結びついています。
だからこそ、その言葉が周囲に与える影響と、そのかたが自分をどう定義したいのかという問題は、区別して考える必要があるのではないでしょうか?
混同されやすい3つの論点
この問題を考えるときには、少なくとも3つの論点を分けて考える必要があると思います。
1つ目は、当事者が自分自身をどのような言葉で定義し、語るのかという自己定義権と自己記述権の問題です。
2つ目は、その言葉が周囲にどのような影響を与えるのかという社会的影響の問題です。
3つ目は、その社会的影響を理由として、社会がどこまで当事者の自己表現に介入して良いのかという介入の正当性の問題です。
議論が混線しやすいのは、この3つが別の論点であるにもかかわらず1つの話として扱われることが多いからです。
たとえば、その言葉で傷つくかたがいるという指摘は、2つ目の社会的影響に関する議論です。
けれど、その指摘だけで直ちに「だから当事者自身もその言葉を使うべきではない」という結論を導くことはできません。
なぜなら、その結論を導くためには3つ目の「どこまで介入が正当化されるのか」という議論を経なければならないからです。
私は、まさにこの部分がしばしば省略されているように感じます。
この3つは互いに関係していますが、同じものではありません。
だからこそ、それぞれを切り分けて考える必要があると思うのです。
私は、「自分は平気だからなにを言ってもいい」と言いたいわけではありません。
話している相手やその場にいる方々、そのご家族や知人がその言葉によって傷つけられた経験を持っているかもしれません。
嫌な記憶を思い出したり、不快な思いをする可能性もあります。
そのような可能性を考えずに、自分は平気だからと好き勝手に使うことが良いとは思いません。
もしそうした言葉を使うのであれば、自分がその言葉をどのような意味で使っているのか、なぜその言葉を選んでいるのかを説明する責任もあると思います。
ただ、言葉の歴史や影響を理解し、誰かを傷つける可能性も認識し、文脈や意図を説明した上で自分自身の実感に最も近い言葉として選んだ言葉まで外部が一律に否定し、選択そのものを認めないことについては、疑問を感じます。
ハーフか、ダブルか
例えば、「ハーフ」という言葉があります。
近年では、「半分しかないように聞こえる」「不完全さを連想させる」といった理由から、「ダブル」という表現が使われることがあります。
その考えかたは理解できますし、ダブルという言葉を好むかたが使うことに問題はないと思います。
けれど当事者の中には、「ハーフが最も自然だ」「子どもの頃からそう呼ばれてきた」「自分自身もそう認識している」「他の表現のほうが違和感がある」と感じる方々もいらっしゃいます。
そうした方々に対して、「ハーフという言葉は不適切だから使うべきではない」「ダブルと表現しなければならない」と求めることは、本当に当事者のためなのでしょうか?
同じような問題は、差別語とされる言葉にも見られます。
差別語と自己定義の問題
たとえば、「びっこ」や「どもり」という言葉は、現在では差別語として扱われることが一般的です。
他者に向けて使うべきではありませんし、公的な場面で慎重になるべき理由も理解できます。
一方で、当事者の中には「その言葉が最も説明しやすい」「長年その表現を使ってきた」「他の表現より実感に近い」と感じるかたもいらっしゃいます。
その方々が、自分自身について語るためにその言葉を使うことまで不適切とされるべきなのでしょうか?
これは、どの言葉が絶対的に正しいのかという問題ではありません。
当事者がどの言葉で自分自身を表現したいのかという問題です。
障害者という言葉をめぐって
同様の問題は、障害に関する言葉にも表れています。
私は、「チャレンジド」という言葉に違和感があります。
「障害があるかたは常に挑戦し続ける存在であるべきだ」という価値観が含まれているように感じるからです。
もちろん、障害者という言葉を好まないかたが別の表現を選ぶことは自由です。
けれど、障害者という言葉で自分自身を表現したいかたにまで別の表現を使うべきだと求められるのであれば、それは自己表現への介入になり得ると思います。
もともと英語圏では、「disabled」という障害を表す言葉に対する否定的なイメージを背景として、様々な代替表現が生まれてきました。
チャレンジドも、その1つです。
言葉が持つ歴史やニュアンスは、言語や文化によって異なります。
だからこそ、「海外ではこうだから」という理由だけで置き換えるのではなく、その言葉を実際に使う当事者がどのように感じているのかを考える必要があるのではないでしょうか?
日本語にはもともと障害という言葉があります。
たしかに、「害」の字を問題視する意見もあります。
だからといって、英語圏の事情や価値観をそのまま日本語に輸入しなければならない理由もないと思うのです。
当事者が言葉の意味を変えることもある
さらに興味深いのは、「過去に差別語とされていた言葉が当事者自身によって再び使われるようになる」例が存在することです。
英語の「queer(クィア)」は、その代表例です。
もともとは侮蔑的な意味合いを持つ言葉でしたが、一部の当事者たちが自ら使うことで意味を変化させ、現在ではアイデンティティーを表す言葉や学術的な概念としても用いられています。
つまり、ある言葉がどのような意味や価値を持つかは社会が一方的に決めるだけではなく、当事者自身によっても変化していくのです。
もちろん、現在でもその言葉を好まない当事者はいます。
けれど、この事例は「差別語だったから当事者も使ってはいけない」という単純な構図では語れないことを示しています。
差別をなくすことと自己定義を尊重すること
私は、差別的な言葉を積極的に使うべきだと言いたいわけではありません。
また、テレビや新聞、学校教育、行政文書のような公共性の高い場面について論じているわけでもありません。
ここで考えたいのは、個人が自分自身について語る場面です。
私は、一律の禁止には違和感を覚えます。
なぜなら、それは差別をなくすことと、当事者の自己表現を制限することを同一視してしまう危険があるからです。
言葉を変えることと差別をなくすことは、必ずしも同じではありません。
新たな言葉やより穏やかな表現を作ることと、その言葉を全員に使わせることも同じではありません。
差別をなくすことや傷つくかたがいる可能性を考えることと、当事者自身が自分を定義する権利を守ることは、どちらも重要です。
「ハーフ」と名乗りたいかたもいれば、「ダブル」と名乗りたいかたもいる。
「障害者」と表現したいかたもいれば、別の言葉を選びたいかたもいる。
大切なのは、社会が定めた唯一の正しい言葉を押し付けることではなく、それぞれの当事者がどのような言葉で自分自身を定義し、表現したいのかを尊重することではないでしょうか?
差別をなくそうとする営みが多様な当事者を尊重するためのものであるならば、その中にはどのような言葉で自分を語るかという違いも含まれるはずです。
当事者のために作られたはずのルールが、当事者自身の語りを否定するものになっていないかを問い直す必要があると思います。
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