正論を、未来を切り開く言葉にするために。
私は、正論が人を傷つけるという感覚をあまり理解できないまま、大人になりました。
表面的に慰めれば一時的に心が軽くなるかもしれませんが、現実は変わらないためすぐに元通りになってしまいます。
だからこそ、状況そのものが改善されれば心を曇らせている要因がなくなるので、心も晴れるはずだと思うからです。
現在はかなり改善されたと思いますが、きっとまだまだ足りていないと思います。
学生時代は言葉足らずや言葉選びが悪く、意図せず他者を傷つけてしまうことが何度もありました。
本記事では、その中でも特に心に残っている出来事を振り返ります。
高校生の頃、グループでパフォーマンスを披露することがありました。
毎年違うメンバーで同じパフォーマンスを披露していたのですが、私が参加した翌年のメンバーからパフォーマンスを見てほしいと依頼されたことがありました。
これは、そのときのお話です。
私は、パフォーマンスに対する正直な感想をなるべく事細かに伝えたのですが、その内容が私と一緒にパフォーマンスしていたメンバーから問題視されました。
私はグループの中でパフォーマンスレベルが高いほうではなく、私と一番交流があった子も自分のパフォーマンスレベルに悩んでいる様子でした。
だからこそ、その子を通して全体に共有してもらいました。
普段からメンバー同士の交流があり、私が参加した年に苦戦していた部分などを翌年のメンバーの多くが知っていました。
自分たちが苦戦していた部分に同じように苦戦していたため、自分たちのときのことを伝えたのです。
乗り越えてほしいという想いから激励のつもりで1つ1つ丁寧に伝えたのですが、意図とは違う形で受け止められ、思わぬ騒動へと発展してしまいました。
私は後日、謝罪と意図の説明をしましたが、どれだけ正しく伝わったのかはわかりません。
指導してくださっていた先生にも、「あなたは努力家で素敵なところがたくさんあるけれど、他人の気持ちも考えられるようになってほしい」と諭され、メンバーからの私に対する視線や空気も鋭く重くのしかかり、心がすり減っていく日々。
まさに四面楚歌です。
「改善したくてパフォーマンスを見てほしいとお願いされたはずなのに、どこが悪かったのだろう?」
「他の子もそれぞれアドバイスをしていたのに、私となにが違うのだろう?」
どれだけ考えても答えが出ることはなく、ほどなくして心が壊れ始めたため、そこから離れました。
それ以降、当時のメンバーと連絡を取ったことは一度もありません。
では、なぜ正論は人を傷つけるのでしょうか?
私は、正論は2種類あると思っています。
1つは、相手を論破したり自分が優位に立つための正論。
これは言葉そのものというより使いかたが攻撃的であるため、刃物のように作用します。
もう1つは、善意から伝えた事実や改善策の正論。
これは受け手が自分の否定や責めとして受け取ることにより、防衛反応として傷つくという形が生まれます。
後者の正論で傷つくときは、正論の内容を自覚しているものの向き合う覚悟がまだ持てないとき、あるいは目をそらしていた事実を突きつけられ、自分でも気づいていなかった甘さが露わになったときだと思います。
もし正論の内容を理解した上で実行できない事情があるのなら、それを伝え、実行のための知恵を求めればよいはずです。
すでに実行しているのなら、そもそも正論を向けられる状況にはなりません。
言葉は情報や気持ちを伝える手段であり、文字は正確な情報伝達や記録をするために生まれました。
人間は共感の生き物であると言われていますが、共感だけではこの世界は成り立ちません。
地域文化や宗教的背景、マナーや常識、価値観などは人それぞれ違います。
建設的な対話によってお互いの背景を正しく伝え合い、理解し合う姿勢がなければ、協力も共存も成立しません。
問題が起きたとき、あるいは問題を想定して備えるとき、冷静な判断が求められます。
だからこそ、正論が届く条件や伝わる形を磨き続けることが、私に課せられたテーマだと感じています。
過去の経験を振り返ると、私は正論を伝えるかどうかに悩むのではなく、正論の伝えかたを学ぶ必要があったのだと思います。
正論は使いかた次第で、鋭利な刃物にも便利な道具にもなります。
相手の状況、心の準備、求めている方向性を見極めた上で、言葉の形を調整することが必要です。
私は、事実や構造を明確に見つめる姿勢は変えていません。
ただ、その視点を他者に共有するときには、相手が受け取りやすい速度と角度に整える工夫をしています。
それこそが、正論を関係を壊す言葉ではなく、未来を切り開く言葉として使う方法なのだと思います。
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