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共に生きる社会を考える③配慮が増えたのではなく、見過ごされなくなった──今昔の表現の自由を考える

「昔は自由だった」の正体

最近、「配慮しなければならないことが増えたせいで面白いことができなくなった」「コンプライアンスに縛られて息苦しい時代になった」という声を耳にすることがあります。

こうした声はテレビや映画、音楽、教育、スポーツなど様々な分野で聞かれるようになりました。

けれど私は、その意見にはあまり共感できません。
私には、配慮しなければならないことが急に増えたというよりも、これまで見落とされてきた方々の存在を社会がようやく前提として考えるようになっただけのように思えるからです。

女性も、外国人も、セクシャルマイノリティーも、障害者も、病気やトラウマを抱える方々も、昔から存在していました。
新しい属性の存在が現れたわけではありません。

変わったのは、その方々の声が以前より届きやすくなり、「それは傷つく」「それは困る」という思いが社会の中で可視化されるようになったことです。

これまでは、そのような声が「気にしすぎ」「冗談だから」「みんな我慢している」で片付けられてしまうことも少なくありませんでした。
だから私は、社会が急に厳しくなったのではなく、ようやく多様なかたの存在を前提にルールや表現を考え始めたのだと思っています。

もちろん、なんでもハラスメントと決めつけたり、必要以上に萎縮してしまったりすることには課題があります。
けれど、それは配慮そのものが間違っているという話ではありません。
配慮の線引きについて議論することと、配慮を不要と考えることは別の問題です。

また、「昔はもっと自由で面白かった」という意見についても、私は少し異なる見かたをしています。

本当に自由だったのでしょうか?
傷ついていても声を上げにくいかたが多かっただけではないでしょうか?

社会全体が「笑いだから仕方がない」「我慢するしかない」という空気だったからこそ、問題として表面化しなかった可能性もあると思います。

私がここで述べたいのは、表現規制の是非だけではありません。
社会全体で、他者への配慮がどのように考えられるようになったのかという変化そのものです。

面白さは失われたのか?

私はもともと、暴力的な表現や下品な言動を好みません。
以前のテレビ番組を振り返ると、容姿いじりや暴言、威圧的なやり取り、ときには身体的な痛みを笑いに変えるような演出も少なくありませんでした。

もちろん、それを面白いと感じるかたもいたのでしょう。
けれどその一方で、不快に感じながらも声を上げられなかったかたや、見たいと思わなかったかたも確実に存在していたはずです。

だから私は、「コンプライアンスによって面白くなくなった」のではなく、「これまで当たり前とされてきた表現の中に含まれていた問題点が見直されるようになった」と考えています。

そして、その変化は必ずしも悪いことではないと思います。
なぜなら、誰かを傷つけたり、下げたりしなくても、面白いものは存在するからです。

実際に、容姿いじりや暴言に頼らず多くの支持を集めているお笑い芸人さんもたくさんいらっしゃいます。
私自身、お笑いが嫌いなわけではありません。
落語やスタンドアップコメディーなども好きです。

観察眼の鋭さや言葉選びの巧みさ、価値観のズレを描く面白さ、意外な発想、共感や気付きから生まれる笑いなど、人を笑顔にする方法はいくらでもあります。
つまり、面白さそのものが否定されているのではなく、誰かを犠牲にすることで成立する面白さが見直されているだけだと思うのです。

表現だけではない社会の変化

また、こうした考えかたはお笑いや表現だけに限った話ではありません。
教育やスポーツ、職場などでも、以前は当然とされていた指導の中にも特定のかたを傷つけたり、過度な負担を強いたり、結果として排除につながる構造が含まれていたものが見直されるようになっています。

私は、根性や努力を否定しているわけではありません。
むしろ、困難を乗り越える力や努力を続ける力はとても大切だと思っています。
ただ、それと「なんでも根性論で片付けること」は全く別です。

私は比較的優等生として育ったため、もし昭和に生まれていても体罰の対象になることは少なかったかもしれません。
厳しい先生方のことも、好きでした。
それでも、体罰や威圧的な指導が当たり前の環境で生活したいとは思いません。

昭和を経験していないので当時を断定することはできませんが、少なくとも私は、暴力や恐怖によって秩序を保つ社会よりも、対話や理解によって秩序を築こうとする現在の社会のほうが生きやすいと感じています。

配慮はどこまで必要なのか?

もちろん、ここでも「配慮すればするほど良い」と考えているわけではありません。
大切なのは、「どこまで配慮を求めるべきか」を考えることだと思っています。

私はその判断基準の1つとして、「公共性」と「避けることが難しい場であるかどうか」を重視しています。
たとえば、学校や職場、公共性の高いイベントなどは、自分の意思だけで簡単に避けられるものではありません。

テレビやラジオも同様です。
テレビはなんとなくつけていることもありますし、見たい番組の前に別の番組が流れていたり、家族が見ている番組を自然と目にしたり耳にしたりすることもあります。
つまり、自分が選んでいなくても接触する可能性があります。
だからこそ、公共性が高く、多くのかたが偶然触れる可能性のある媒体ほど、一定の配慮が求められるのだと思います。

一方で、映画や舞台のように自ら作品を選び、お金や時間をかけて鑑賞するものについては、より挑戦的な表現が認められてよいとも考えています。

SNSについても同様です。
TikTokのように受動的にコンテンツが流れてくるサービスと、YouTubeのように自分でクリックしなければ視聴できないサービスとでは、偶然接触する可能性が大きく異なります。
また、オンラインコミュニティーでは住み分けも可能ですし、センシティブな内容であれば事前に注意喚起を行うことで、見たくないかたが避けることもできます。

私が問題だと考える不快とそれぞれの責任

ここで誤解してほしくないのは、私が言う不快は単なる好き嫌いではないということです。
私が問題だと考えているのは、特定の属性のかたを下げたり、攻撃したり、排除することで成立している表現です。

一方で、差別問題や社会問題について議論することは、それとは全く別です。
差別について語ることは差別ではありませんし、社会問題を取り上げることは攻撃ではありません。

そうした議論を見聞きして嫌な気持ちになるかたもいらっしゃるでしょう。
けれど、それは私がここで問題としている属性への攻撃とは性質が異なります。

また、過去の経験によってトラウマ反応が生じる場合もあります。
それも重要な問題ですが、トラウマへの配慮と、特定の属性を攻撃することへの配慮は分けて考える必要があります。

さらに、受け手が作品を誤解したり、本来意図されていない意味を読み取ったりすることまで、制作者がすべての責任を負うべきだとも私は考えていません。

制作者には責任があります。
特定の属性を攻撃しないこと。
構造的に誰かを下げる表現を避けること。
必要に応じて事前アナウンスや注意喚起を十分に行うこと。
そうした責任はあると思います。

一方で、受け手にも責任があります。
内容を確認すること。
視聴するかどうかを判断すること。
苦手な作品を避けること。
自分自身の認知や誤解を整理すること。
これらまでをすべて制作者側の責任としてしまえば、表現は過度に萎縮してしまいます。

配慮と表現の自由は両立できる

私は、配慮と表現の自由は対立するものではないと思っています。
大切なのは、それぞれの責任範囲を整理することです。

制作者が配慮すべき部分と、受け手が自己判断・自己管理すべき部分を区別することで、表現の自由と多様な方々への配慮は両立できます。

だからこそ、「コンプライアンスによって面白いことができなくなった」という言葉にはあまり共感できません。

私には、面白さが失われたのではなく、社会がより多様な方々を前提とするようになったことに伴い、受け入れられる表現の基準が変化しているように見えるのです。

そしてその変化は、誰かを黙らせる社会ではなく、より多くのかたが同じ社会で共に暮らせる社会へ近づくための1つの過程なのではないかと思っています。

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