ひとりの時間に 心を満たす「充電サイクル」
「一人好き」?それとも「人好き」?
1人の時間が好きだ。おそらく放っておくといくらでも1人でいる事が出来てしまうような気がする。けれど同時に誰かと過ごすのも同じ位大切だと感じる。
今年の春先ごろ数人で泊まりがけで出かけた事があった。とても楽しかったのだが、その中の1人が夜、床に就くまでずっと話しかけてくるタイプの人物で正直すこし疲れた。決して騒がしいタイプではなくただ好奇心がおう盛で質問が尽きず、子育てをして過ごす人たちの心中はこんな物かしらと想像した。とても好人物だしそれでもう嫌だ、とはならないが自分はこういう"状況"がだめなのだと思った。暫く交流したら少し1人になり、休みたい。ルンバが掃除を終えてドックに帰っていくように、充電できればまた復活してふたたび交流を楽しむことができる。
睡眠など物理的に休む事のみならず、1人過ごす時は本をよむ、散歩する、といった動きがあるものであっても自分にとってはチャージをしている感覚がある。他にもアートや自然、一部の音楽や舞台を見ることも含まれる。それらの前では皆が対等で、誰にもジャッジされない時間であり内面を回復させるのにとても役立っている。そうして1人で十分に過ごすと人に会いたくなるし、人に礼儀をもってやさしく接することができるので、自分はこのサイクルをぐるぐると回している感覚がある。
「諦め」から生まれた「心の処方箋」
今より若くて何かと悩みがちだったころに、女性学の小倉千加子先生の本を手にとった事があった。そこで「ジェンダーの問題というのは構造的なもので今すぐどうにかなる物ではない為、半ば諦めた方が良い」といった主旨の事が書かれていて暗い気分になりかけたが、その処方せんとして、「社会はすぐには変わらないが、なるべく自分の性別や年齢を忘れられる活動に集中することが幸せな時間が増えるこつ」との事が綴られていて、不思議とその言葉が心に残り、それまで消極的にしていた編みものについても'これをもう少しやってみよう'と思うきっかけとなり、今だにものごとを選ぶ基準の1つになっている。
欧米からはじまった読書介助犬という取り組みは音読が苦手な子どもたちのために犬を相手に読み聞かせをするというものだが、動物たちは間違えてもこちらをジャッジしてこない相手として適役なのだとか。こうした事例をみると動物にふれるというのも自然やアートと同じように内面を回復させる手助けになりそうである。
これら年齢や性別や自分が何者であるかといった事をジャッジしないものの前に身を置く時間を何となく作るようにしていますが皆さんは如何でしょうか。何か満たされないとか淋しいとき、自身の欠乏をうめる目的で人に会ったりSNSで人からそれをうめて貰おうとする前に、少し自分でも自身のことを回復させたり調律をしてそこからまた人と会うとより良い循環がうまれるような気が最近はしています。
