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「灰色の魔女」が、教えてくれたこと

昭和の終わりに子供時代を過ごした僕にとって、 「ライトノベル」という言葉は、後から追いかけて知った言葉だった。

覚えているのは、 書店の片隅にできた小さな棚の前で、

なんとなく不思議な感覚を覚えたことだ。

あの言葉が生まれたのは、 だいたい1990年代の初め。

平成が始まったばかりの、 あの頃。

当時の僕は、 まだ中学生になるかならないかくらいの子供だった。

それから、 もう30年以上が経つ。

かつては一部の愛好家だけのものだった棚が、 今では国境を越えて、

巨大なジャンルに育っている。

その原点として、 今も語り継がれる一冊がある。

水野良先生の、 『ロードス島戦記』。

これを「懐かしいヒット作」で片付けてしまうのは、 なんだかもったいない気がする。

今日は少し長くなるけれど、 当時の記憶を辿りながら、

このタイトルについて書いてみようと思う。


サイコロから生まれた物語

この作品の成り立ちを知ったとき、 ちょっと不思議な気持ちになった。

今の若い人にとっては、 「名作ファンタジー小説」という印象が強いと思う。

でも、最初の一歩は、 小説じゃなかった。

始まりは、 テーブルトークRPG。

紙と鉛筆とサイコロを持ち寄って、 対話しながらその場で物語を紡いでいく遊び。

そのプレイの記録を文章にした「リプレイ」という連載が、 パソコンゲーム雑誌『コンプティーク』で始まった。

1986年のことだから、 僕はまだ小学生だった。

もちろんそんな雑誌の存在は、 当時の僕は知らない。

ここに、ちょっと面白いねじれがある。

最新のデジタルゲームを追いかけていたはずの雑誌の中で、 一番アナログな「サイコロを振る冒険」が、連載されていたということだ。

それでも、いや、だからこそ、 読者の心を掴んでいったんだと思う。

人間って、 意外と現金なもので。

完璧に用意された答えより、 誰かがその場で悩んで、

偶然生まれたドラマの方に、 心が動いてしまうことがある。

あの独特な熱量が、 のちに「ライトノベルの教科書」と呼ばれる小説へと、

形を変えていった。


中学生だった僕の本棚は、少しだけ貧しかった

当時の中高生が、 なぜあれほど夢中になったのか。

その背景には、 「本棚の飢え」があったように思う。

1988年、 小説版の第一巻が出た年。

僕はまだ、 小学校の高学年くらいだった。

「日常から抜け出したい」と思ったとき、 手に取れる小説の選択肢は、

今ほど豊かじゃなかった。

海外の翻訳SFや本格ファンタジーは、 文字も小さいし、文体も硬い。

読書に慣れていない小学生や中学生には、 正直ちょっとハードルが高かった。

かといって、 児童文学ではもう物足りない年頃だった。

ちょうどそのあたりで、 出渕裕先生の美しいイラストを纏って、

『ロードス島戦記 灰色の魔女』が現れた。

閉め切った部屋に、 外の光が差し込んできたような感覚。

表紙のエルフの少女に、 射抜かれた同級生も何人かいた気がする。

でも、本当に夢中になった理由は、 見た目の華やかさだけじゃなかった気がする。

もっと深いところに、 「善悪の割り切れなさ」があった。

中学に上がった僕は、 少しずつそれに気づき始めていた。


灰色の魔女が、教えてくれたこと

主人公パーンの前に立ちはだかる、 “灰色の魔女”カーラ。

彼女は、 分かりやすい悪役じゃない。

むしろ願っているのは、 ロードス島の「永続的な安定」だった。

光が強すぎれば、 影も濃くなる。

どちらかの勢力が強くなりすぎたら、 世界を揺るがす悲劇が起きる。

だったら、天秤が傾きそうなときに、 自分の手で小さな戦いを起こして、

双方の力を削いでおく方がいい。

そのためなら、 冷酷な手段も厭わない。

白でもない、黒でもない。

すべてを曖昧に包み込む、 灰色の思想。

勧善懲悪の物語に少しずつ退屈し始めていた、 あの頃の僕にとって、

このカーラという存在は、 あまりにもリアルで、

どこかロマンチックにも映った。

中学生というのは、 大人の世界の欺瞞に気づき始める時期でもある。

考えてみれば、 僕らが生きているこの世界も、

白と黒で綺麗に分けられるほど、 単純じゃない。

誰もが自分なりの正義を抱えていて、 それが時々、誰かを傷つける刃になる。

みんな、 灰色の中を手探りで歩いている。

あのファンタジーは、 僕らがやがて放り込まれることになる、

「答えのない社会」の縮図だったのかもしれない。


高校1年の春、映像になったロードス島

『ロードス島戦記』がすごかったのは、 物語が文庫本の中だけで、

完結しなかったことだと思う。

まるで意思を持った生き物みたいに、 形を変えながら広がっていった。

1991年、 OVAが放送された年。

僕は、ちょうど高校に上がったばかりの頃だった。

当時のクリエイターたちが集結して作った映像は、 僕らの頭の中にあったロードス島を、そのまま映像に焼き付けてくれた。

VHSが擦り切れるまで巻き戻した記憶が、 今でも残っている。

山田章博先生のコミカライズ、 数々のゲームへの展開。

そして2000年、 僕がすっかり社会人になっていた頃には、

ドリームキャストで『邪神降臨』が発売されて、

「ロードスを知らない世代」まで、 ハック&スラッシュの沼に引きずり込んでいった。

今でこそ「メディアミックス」は当たり前の言葉になったけど、 その土台をつくったのは、

間違いなくこの作品だったんじゃないだろうか。

小説を読まない人はアニメから入って、 アニメを見ない人はゲームから救い上げられる。

そうやって、 分厚いファン層ができていった。


今も、ちゃんと現役でいてくれる

驚くのは、 この物語の鼓動が、

今もちゃんと続いていることだ。

これは、 懐かしむだけのノスタルジーじゃない。

2019年には、 舞台を100年後に移した新シリーズ、

『ロードス島戦記 誓約の宝冠』が刊行された。

僕もすっかりいい大人になっていたけれど、 書店で見つけたときは、

思わず手が伸びた。

かつてパーンと旅をした、 ハイエルフの少女、ディードリット。

彼女の視点を通じて、 再びロードスの歴史が動き出したときの感覚は、

今でも忘れられない。

ゲームの世界でも、 新しい風が吹いている。

2D探索アクション、 『ディードリット・イン・ワンダーラビリンス』。

ドット絵で描かれた彼女が、 再び縦横無尽に駆け回る姿を見て、

なんだか嬉しくなった。

30年以上経っても、 現役のコンテンツとして輝き続けている理由は、

きっとシンプルなんだと思う。

「まだ見ぬ場所への冒険心」と、 「正解のない世界で、どう自分の足で立つか」という問い。

これはたぶん、 時代がどれだけデジタル化しても、

色褪せないものなんだろうな。


あの灰色の世界に、もう一度

かつて、中学や高校の机の下で、 こっそりページをめくっていた僕らのような世代。

そして、これから新しい表紙を通じて、 あの騎士やエルフに出会うことになる人たち。

ロードス島という場所は、 今も僕らの中で、静かに息づいている。

情報のスピードが早すぎて、 すべてを白か黒かで仕分けたくなる今だからこそ。

あの「灰色の世界」に、 もう一度だけ、思いを馳せてみてほしい。

そこにはきっと、 効率と引き換えに忘れかけていた、

不器用で、泥臭くて、 だからこそ美しい何かが、

そのままの形で待っている気がする。

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