じんせいかきいろの観た映画感想文「ブゴニア」(ネタばれあり〼)
はじめに
5月下旬、地元映画館にて『ブゴニア』を観てきました。
一言で言えば、かなり難解な映画でした。
ただし、難解といっても、単に設定が複雑だから難しいわけではありません。
むしろこの映画が難しいのは、観客に対して「あなたはこの出来事をどう見るのか」と問い続けてくるからです。
製薬会社のCEOであるミシェルが、彼女をアンドロメダ星人だと信じるテディとドンに誘拐される。
あらすじだけ見れば、かなり奇妙な誘拐サスペンスです。
しかし観ているうちに、単純に「陰謀論者が狂っている」とも言い切れなくなってくる。
かといって、テディの行動が正しいとも言えない。
ミシェルは被害者に見える一方で、巨大企業や資本の象徴にも見える。
ドンは言葉少ない従属者のようでいて、物語の大きな転換点を作ってしまう。
つまりこの映画は、答えを一つに絞らせてくれません。
ヨルゴス・ランティモス監督、脚本ウィル・トレイシー、主演エマ・ストーン、ジェシー・プレモンスという布陣で作られた本作は、2003年の韓国映画『地球を守れ!』を原案とするブラックコメディ/スリラー/SF寄りの作品です。
ディープリサーチやパンフレット資料を踏まえても、本作は単純な誘拐劇ではありません。
陰謀論、企業倫理、蜂、治験、資本主義、自然環境、人類滅亡。
さまざまな要素が地下室の中で圧縮され、そこから最後には世界規模の結末へ広がっていく映画でした。
私の中で『ブゴニア』は、ひとつの顔だけを持つ映画ではありませんでした。
奇妙な誘拐サスペンスとしての『ブゴニア』。
蜂と自然からの警告としての『ブゴニア』。
救いの物語にすがる人間を描く『ブゴニア』。
大企業と資本の犠牲としての『ブゴニア』。
どの角度から見ても成立する。
けれど、どれか一つに決めた瞬間、別の顔がこちらを見返してくる。
そこが、この映画の難しさであり、面白さだったと思います。
本予告
あらすじ
人気絶頂のカリスマ経営者として脚光を浴びるミシェル
(エマ・ストーン)が誘拐された。犯人は、陰謀論に心酔するテディ(ジェシー・プレモンス)とドン(エイダン・デルビス)の2人組。ミシェルが地球を侵略しにきた宇宙人だと信じてやまない彼らの要求はただ一つ。「地球から手を引け」彼らの馬鹿げた要望を一蹴するミシェルだが、事態は思わぬ方向へと加速していき——。
1. 奇妙な誘拐サスペンスとしての『ブゴニア』

まず、一番素直な入口として、『ブゴニア』はかなり変なエンタメ映画です。
序盤のテディとドンは、どこかポンコツに見えます。
大真面目にミシェルを誘拐するのですが、その方法はどこかチャチで、洗練された犯罪者には見えません。
彼らはミシェルを宇宙人だと決めつけ、「地球から手を引け」と迫る。
その構図だけを見ると、ポンコツな陰謀論者2人が、大企業CEOを相手に奇妙な誘拐劇を始めたようにも見えます。
だから最初は、少し笑えてしまうのです。
特に象徴的なのが、ミシェルの髪をすべて剃る場面です。
理由は、髪の毛がGPS電波を拾うから。
この時点では、完全に滑稽な行為に見えます。
陰謀論者が自分たちの理屈で、相手の髪を剃っている。
その異様さとチャチさに、観客はどこかで笑ってしまう。
けれど終盤、宇宙船の場面で、それが本当に意味を持っていたことが分かる。
この反転が非常に『ブゴニア』らしいと思いました。
映画は、観客が「馬鹿げている」と笑ったものを、後から真実の側へ引き戻してくる。
だから、この作品では安心して誰かを笑うことができないのです。
宇宙船への転送装置もそうでした。
クライマックス近く、ミシェルとテディは宇宙船に乗り込むため、ミシェルの会社の社長室へ向かいます。
ここで観客は、何か大掛かりな転送装置や、SFらしい秘密設備を想像してしまう。
けれど実際に出てくるのは、クローゼットの中に隠された、ただの電卓のような装置でした。
この落差がすごい。
壮大なSFを期待したら、出てくるのは電卓とクローゼット。
しかし、それが本当に機能してしまう。
『ブゴニア』では、馬鹿げて見えるものほど、後から真実の側へ回収されていくのです。
さらに、その場面の直後も強烈でした。
テディは万が一を考えて、自らの身体に爆弾を仕込んでいます。
ミシェルに先にクローゼットへ入らされ、カウントダウンが進む中で自爆する。
そして飛び出した頭部がミシェルに直撃し、彼女は気絶してしまう。
ここは、笑っていいのか分からない場面でした。
宇宙船、転送装置、地球滅亡という壮大なスケールの場面で、起きていることは「爆発した頭がぶつかって気絶」です。
スケールは大きいのに、決着の仕方があまりにも肉体的で、あまりにも間抜け。
この悪趣味な落差こそ、『ブゴニア』のユーモアなのかもしれません。
真実に近づいた瞬間ですら、映画は荘厳なSFにはしてくれない。
最後に飛び込んでくるのは、信仰でも真実でもなく、爆発した肉体そのものなのです。
ただし、この映画は決して見やすい娯楽作品ではありません。
『ブゴニア』は、見た目以上に会話劇の比重が大きい映画です。
誘拐、監禁、拷問、宇宙人疑惑という派手な要素はありますが、映画の多くは地下室での会話によって進んでいきます。
しかも、その会話がかなり厄介です。
陰謀論、企業倫理、治験、蜂、宇宙人、人類の滅亡。
難しい言葉や極端な主張が次々に飛び交うため、観ている側はかなり集中力を要求されます。
その意味で、この映画は決して万人向けではないと思います。
「誘拐サスペンス」として分かりやすい展開を期待すると、会話の密度に少し滅入る人もいるかもしれません。
ただし、その分かりにくさ自体が、この映画の狙いでもあるように感じました。
テディの言葉は支離滅裂に聞こえる。
ミシェルの言葉は理性的に聞こえる。
けれど映画が進むにつれて、どちらの言葉を信じればいいのか分からなくなっていく。
つまり、会話の難しさは単なる欠点ではなく、観客を不安定な場所に置くための仕掛けでもあったのだと思います。
2. 蜂と自然からの警告としての『ブゴニア』

次に、この映画は自然からの警告としても読めます。
タイトルの『ブゴニア』は、古代的な生命発生や再生を思わせる言葉です。
また、劇中では蜂が重要なモチーフとして扱われます。
ここで連想したいのが、CCD、いわゆる蜂群崩壊症候群です。
CCDとは、巣の中に女王蜂や幼虫、餌が残されているにもかかわらず、成虫の働き蜂が突然いなくなってしまう現象を指します。原因については単一の要因ではなく、農薬、ダニ、ウイルス、栄養不足、環境ストレスなど、複数の要因が重なって起きる可能性が指摘されています。
近年の蜂の大量死についても、ダニやウイルス、農薬、気候変動、単一作物栽培による栄養源の減少など、複数の要因が絡み合う問題として報じられています。
つまりCCDは、「蜂がいなくなる」という分かりやすい現象でありながら、その背後には人間社会の農業、化学物質、環境変化、流通、飼育のあり方などが複雑に絡んでいる問題でもあります。
『ブゴニア』における蜂も、単なる自然の象徴ではないと思います。
蜂は、花粉を運び、植物の生をつなぐ存在です。
人間の食や農業にも深く関わっている。
けれど、その蜂が消えていくとき、人間社会の見えない歪みが一気に浮かび上がる。
この構図は、映画全体とも重なります。
テディは、自分の母親をめぐる企業被害のような痛みを抱えている。
ミシェルは、製薬会社CEOとして、科学・資本・管理の側に立つ存在です。
そして蜂は、人間の都合で組み上げられた社会や産業の影響を、静かに受け続けている。
だから『ブゴニア』の蜂は、かわいらしい自然のアイコンではありません。
むしろ、人間が世界を管理できると思い込んだ結果、その足元で崩れていく生命の仕組みを象徴しているように見えます。
映画の始まりと、ラストのさらに最後。
そこには、蜂がさまざまな花に止まり、受粉していく映像が置かれています。
この映像だけは、妙に綺麗でした。
人間たちは地下室で疑い合い、傷つけ合い、救済の名のもとに暴力へ進んでいく。
最後には人類そのものが終わっていく。
けれど蜂は、花から花へ移っていく。
そこには、人間の思想も、陰謀論も、企業も、資本も、救済願望も関係ありません。
ただ、生命の循環だけが静かに続いている。
この対比はかなり冷たいです。
人類にとっては滅亡でも、自然にとっては循環の一部なのかもしれない。
人間がどれだけ「人類を救う」と叫んでも、自然はその言葉に耳を貸さない。
蜂はただ花粉を運び、花は次の命へつながっていく。
ラストでミシェルが人類を死なせる場面も印象的でした。
それまで映画は、かなり少人数の密室劇として進んでいました。
テディ、ドン、ミシェル。
ほとんど閉じた空間の中で、限られた人物だけを見せていた。
ところが最後に、映画は一気に世界を広げます。
さまざまな場所で、人々が死んでいく。
それまで画面の外にいた“人類”が、急に具体的な身体を持って画面に現れる。
あの場面は、かなり時間をかけて描かれていました。
もしかすると、制作上もっとも手間がかかっているのは、あの終盤の人類滅亡の場面だったのではないかと思うほどでした。
「人類を救う」という言葉は大きすぎます。
大きすぎるからこそ、その中にいる一人ひとりの顔や生活は見えにくくなる。
けれど映画は最後に、その“人類”を具体的な死として見せる。
そして、その後に残るのが蜂と花の映像です。
人類の物語が終わったあと、映画に残ったのは、蜂が花粉を運ぶ静かな映像でした。
その美しさが、いちばん冷たかったのかもしれません。
3. 救いの物語にすがる人間を描く『ブゴニア』

3つ目は、救いの物語にすがる人間を描く映画としての『ブゴニア』です。
テディは、単なる危険な陰謀論者ではありません。
もちろん、彼の行動は許されない。
誘拐も、拷問も、殺人も、絶対に正当化できません。
けれど、彼の怒りには根があります。
パンフレット資料では、テディの母親は医療用麻薬の治験に参加し、昏睡状態に陥ったとされています。
つまりテディの怒りは、完全な妄想だけから生まれたものではありません。
そこには、母親を失ったような現実の痛みと、企業や社会に対する不信感がある。
さらに皮肉なのは、テディ自身がミシェルの会社の荷物部門で働いていることです。
母親の件で企業に人生を壊されたと感じている。
賠償金も、彼にとって十分なものではなかった。
それでも彼は、その企業の末端で働かざるを得ない。
つまりテディは、憎んでいるシステムの外にいる人間ではありません。
むしろ、そのシステムの内側に取り込まれ、荷物を運ぶ側として生きている。
ここに、この映画のかなり残酷な皮肉があります。
彼は企業を憎んでいる。
けれど、その企業なしでは生活できない。
企業に傷つけられたと感じながら、その企業の物流の一部として働く。
テディは、ミシェルの会社を外側から憎んでいたのではなく、その会社の荷物を運びながら憎んでいた。
この構図はかなり痛いです。
私が観ていて一番しんどかったのは、地下室でテディとミシェルが二度目に向き合う場面でした。
ミシェルは、テディを精神病患者のように扱う。
その瞬間、テディは反射的にミシェルの頬を思い切り叩きます。
もちろん、暴力は許されません。
けれどあの場面は、ただ「テディが怒って殴った」だけには見えませんでした。
おそらくテディは、これまでずっと周囲から馬鹿にされてきた人間なのだと思います。
何を言っても信じてもらえない。
母親の件も、企業への怒りも、自分の中では切実なのに、外側から見れば“おかしな人”として片づけられてしまう。
そんな彼にとって、アンドロメダ星人の陰謀を信じることは、ただの妄想ではなかったのかもしれません。
それは、自分が世界の真実を知っている側に立てる、最後の小さなアイデンティティだった。
だからミシェルに精神病患者扱いされた瞬間、テディはその小さな拠り所すら否定されたように感じたのではないでしょうか。
あの平手打ちは、ミシェルへの怒りであると同時に、自分を馬鹿にしてきた世界全体への反射だったように見えました。
ここが、私には一番しんどかったです。
テディの暴力は間違っています。
けれど、その暴力の奥にある「自分の痛みを誰にも真剣に受け取ってもらえなかった人間の惨めさ」が見えてしまう。
だから単純に嫌悪だけで片づけられない。
ただし、その痛みがあったからといって、テディの行動が正当化されるわけではありません。
怒りには理由がある。
けれど、その怒りを「宇宙人による人類支配」という物語に接続し、暴力で解決しようとした時点で、彼は決定的に間違えてしまったのだと思います。
さらに残酷なのは、母親の件です。
テディは母親を救いたかった。
しかしミシェルから「治験薬」として教えられたものを信じ、それを母親に投与してしまう。
けれどそれは薬ではなく、不凍液だった。
母を救いたかった男が、母を救えると信じた嘘によって、母を死なせてしまう。
ここに『ブゴニア』の最も痛ましい皮肉があります。
テディは陰謀論に騙されたというより、何度も“救いの物語”にすがった人間だったのかもしれません。
母を救いたい。
世界を救いたい。
人類を救いたい。
しかし、その「救いたい」という願いが、どんどん暴力と破滅へ変わっていく。
これは、現代社会の情報過多ともつながって見えます。
情報が多すぎる。
何が本当か分からない。
企業も、政治も、メディアも、科学も信じられない。
そんな中で、人は一つの分かりやすい物語にすがってしまう。
テディにとって、それがアンドロメダ星人の陰謀だった。
『ブゴニア』は、嘘を信じる人間を笑うだけの映画ではありません。
嘘でもいいから救われたいと思ってしまう人間の弱さを、かなり残酷に描いている映画でもあります。
そして、ここで重要なのがドンです。
ドンは、見れば見るほど分からないキャラクターでした。
両親はどうなったのか。
いつからテディと暮らすようになったのか。
学校には行っていたのか。
どういう人生を送ってきたのか。
映画は、そこをほとんど説明しません。
彼は喋ることも得意ではなく、テディの言いなりになっているようにも見える。
だから最初は、テディに従うだけの人物のように見えてしまいます。
けれど、ドンは完全な受け身の人物ではありません。
電流による拷問からミシェルを助ける。
そして最後には、自分で銃を手に取り、自ら命を絶つ。
彼は多くを語らない。
けれど、物語の決定的な場面で、自分の意思を行動として示している。
ドンは、陰謀論を信じた人というより、陰謀論のそばから逃げられなかった人だったのかもしれません。
そしてドンが消えた瞬間、映画は一気に加速します。
まるで、それが「よーい、スタート」の合図だったかのように。
不謹慎な言い方を承知で書けば、ドンの死は、物語のブレーキが外れる瞬間だったと思います。
その銃声を聞き、養蜂場にテディとミシェルを探しに来ていた保安官が家へ入ってくる。
そこでテディは、保安官を殺してしまう。
ここで、テディは完全に引き返せないところへ行ってしまいます。
彼は人類を救うためにミシェルを捕らえたつもりだった。
けれど、その計画を続けるために、目の前の人間を殺してしまう。
「人類を救う」という大きな物語のために、目の前の一人の命が犠牲になる。
その瞬間、テディの正義は完全に反転してしまうのだと思います。
4. 大企業と資本の犠牲としての『ブゴニア』

4つ目は、大企業や資本の行き過ぎが生んだ、哀れな犠牲の話として見る『ブゴニア』です。
ミシェルは、誘拐された被害者です。
それは間違いありません。
しかし同時に、彼女は製薬会社のCEOでもあります。
つまり彼女は、ただの個人ではなく、企業、資本、合理性、支配の象徴としても描かれている。
テディの母親の件も、ここにつながります。
治験によって母親が昏睡状態に陥ったという背景がある以上、テディの怒りは完全な妄想ではない。
彼は大企業に人生を壊されたと感じている。
そしてその怒りが、ミシェルという一人の人物へ向かっていく。
ただ、ここでも映画は単純ではありません。
ミシェルを企業の悪としてだけ描いているわけでもない。
テディを被害者としてだけ描いているわけでもない。
序盤のトレーニング場面も象徴的でした。
テディとドンは、昔ながらの自重トレーニングをしている。
自分の身体だけを使い、限られた環境の中で鍛えているように見えます。
一方でミシェルは、スパーリングパートナーを相手にした、現代的で管理されたトレーニングをしている。
同じ“身体を鍛える”行為でありながら、そこに見える世界はまったく違います。
テディたちの身体は、社会からこぼれ落ちた人間が、自分の信念だけを頼りに作り上げた身体。
ミシェルの身体は、資本と管理によって整えられた身体。
どちらも鍛えている。
けれど、どちらも健全には見えない。
ここに、この映画の皮肉があります。
貧しい側も、富める側も、何かに備えて身体を鍛えている。
しかし、その備えが何に向かっているのかは、映画が進むにつれてどんどん不気味になっていく。
そして、この企業批判の視点をさらに難しくするのが、地下室の奥の部屋です。
中盤、ミシェルに電気ショックを与える場面があります。
表向きには、テディたちの暴走した拷問です。
けれど地下室の奥の部屋には、過去にも似たようなことが行われた痕跡が残っていたように見えます。
そこには謎のバラバラ死体と、ミシェルに関する資料がある。
そしてミシェルは、自分が本当にアンドロメダ星人だったことを思い出す。
この瞬間、映画は観客の見方を一気に反転させます。
それまで観客は、「テディの陰謀論は妄想だ」と思っていた。
しかし、急に「もしかして本当だったのか?」と思わされる。
ただし、それで全てが説明されるわけではありません。
もしミシェルが本当にアンドロメダ星人だったとしても、あのバラバラ死体は何なのか。
誰が“本物”を誘拐し、殺したのか。
なぜミシェルの資料がそこにあったのか。
過去にも電気ショックのような判定や拷問が行われていたのか。
映画はそこを明確には説明しません。
だから、あの部屋は謎を解くための部屋ではなく、観客が握っていた解釈をさらに壊すための部屋だったのだと思います。
『ブゴニア』が怖いのは、陰謀論をただ笑い飛ばす映画ではないところです。
かといって、「陰謀論は本当だった」と単純に肯定する映画でもない。
真実に近づいていたとしても、その過程で人を壊し、殺し、戻れない場所まで進んでしまったなら、それは救済ではなく破滅です。
テディの怖さは、完全に間違っていたことではなく、部分的には正しかったかもしれないことにあるのだと思います。
おわりに
この誘拐を、あなたはどう見るのか
『ブゴニア』は、かなり難しい映画です。
会話劇の比重も大きく、難しい言葉や極端な主張が次々に飛び交う。
陰謀論、企業倫理、治験、蜂、宇宙人、人類の滅亡。
観ている側は、ずっと判断を迫られます。
テディを狂人として見るのか。
ミシェルを被害者として見るのか。
大企業の罪を見るのか。
自然からの警告を見るのか。
それとも、ただ悪趣味なエンタメとして笑うのか。
どの見方を選んでも、映画は簡単に安心させてくれません。
だから私は、この映画に自分の“映画観”や“映画力”を問われているような感覚になりました。
『ブゴニア』は、答えを教えてくれる映画ではありません。
むしろ、観客がどの答えを選びたがるのかを見ている映画なのだと思います。
この誘拐を、あなたはどう見るのか。
奇妙な誘拐サスペンスとして笑うのか。
蜂と自然からの警告として受け取るのか。
救いの物語にすがる人間の悲劇として見るのか。
大企業と資本が生んだ犠牲として見るのか。
その選び方自体が、観客の立ち位置を映してしまう。
ラストで人類の物語が終わったあと、映画に残ったのは、蜂が花粉を運ぶ静かな映像でした。
人間たちは、自分たちこそ世界の中心だと思っていた。
テディも、ミシェルも、それぞれの正しさを信じていた。
けれど最後に残るのは、人間の理屈ではなく、花から花へと続く生命の循環だった。
その美しさは、救いのようにも見えました。
同時に、とても冷たいものにも見えました。
『ブゴニア』は、そんな厄介で、悪趣味で、妙に美しい映画でした。
ただし、分かりやすい娯楽映画を期待すると、かなり戸惑うかもしれません。会話劇の比重も大きく、暴力描写や悪趣味なユーモアもあります。誰にでも勧めやすい作品ではありませんが、観終わった後にあれこれ考えたくなる映画でした。
以下の方々におすすめです。
・ヨルゴス・ランティモス監督作品が好きな方
・一筋縄ではいかないブラックコメディやサスペンスが好きな方
・観終わったあとに解釈を考えたくなる映画が好きな方
・陰謀論、企業倫理、自然環境などのテーマに興味がある方
・後味の悪さも含めて、映画の刺激として楽しめる方
それではまた、次の映画で。
