零距離 届かない魔法使い ギルド編 ep4 だめな弱さ
横から入る日の光が、扉の下まで伸びていた。
町の影が長かった。
空には小さな鳥が飛んでいた。
床を掃く音がした。
ギルドの扉の前に、リナが水をまいた。
雫が日に照らされて落ちた。
ミラが階段を上がった。
片手に、布で包んだパンを持っていた。
ギルド長は机に肘をついて、帳面を見ていた。
ミラは布に包んだパンを、机の端に置いた。
「食べてください」
「いらん」
「昨日もそう言いました」
ギルド長は帳面を見たまま黙っていた。
やがて、パンを取った。
ひと口かじる。
「うまいな」
「ええ」
ミラは帳面を一枚めくった。
階下で、椅子を引く音がした。
すぐにもう一つ鳴った。
扉が開き、靴音が入り、誰かが朝飯の残りを紙に包んでいた。
リナの声が受付の前で上がった。
「順番にお願いします」
長卓には、もう何人かの冒険者が座っていた。
誰かが卓に木のジョッキを置いた。
「おい、朝から飲むな」
「今日は休みだ」
「じゃあ、朝から来るな」
「行くところがねぇ」
「おかわいそうに」
誰かが笑った。
「俺も飲むか」
片目の男が言った。
「お前は休みじゃないだろ」
「魔物にやられたら、飲めなくなる」
誰かがまた笑った。
誰かが胸元のナイフを一度見て、仕舞った。
階上でギルド長が指笛を鳴らした。
横にはミラも立っていた。
片目の男が木のジョッキを持ったまま上を見た。
誰かがパンを咥えたまま止まった。
受付台でリナが顔を上げた。
ミラが、小さな袋を渡す。
ギルド長はその袋を掲げた。
「魔物寄せを使った馬鹿がいる」
誰かが低く舌打ちした。
誰かが言った。
「森の西でゴブリン増えてる」
「東はオークだ」
ギルド長が手首を払った。
「ミレイ」
受付台の後ろで、ミレイが帳面を開いた。
指が紙の上を走った。
「森の西、浅いところでゴブリン三群。東でオーク四群。北、群れは確認されていません」
「足跡は」
「西、大型二つ。東は一つです」
リナが手を上げた。
「なんだ、リナ、言ってみろ」
「西の道、通れないかもしれません」
「理由は」
「朝、パン屋さんが言ってました。昨日から納品が来ないって」
暁のリーダーが腕を組んだ。
「囲まれたか」
「あそこは谷もある」
「誰か、堕天使の連中見てねぇか」
壁際の男が言った。
リナが帳面をめくった。
「昨日、北へ出ています。まだ戻ってません」
片目の男が木のジョッキを置いた。
「あの若手か?」
暁のリーダーが地図を見た。
「北の道は分かれて、西へ行ってる」
休みの男が木のジョッキを空けた。
「俺が見てくる」
「お前、休みだろ」
「休みだからだ」
片目の男が椅子を引いた。
「俺も行くしかねぇな」
ギルド長が手すりを叩いた。
「西を優先する。東は近づくな。北へ出た若手を見た奴は、すぐ連れて戻れ」
リナは書類箱を開いていた。
「リナ、地図だ」
「あります」
「配れ」
「はい」
事務方の男が言った。
「魔石ある?複写ができない」
受付台の後ろで、ミレイが顔を上げずに答えた。
「引き出し、二番目の奥です」
ギルドの扉が開いた。
「ねぇ、美味しい焼き菓子が売ってたから買って、きたよ……何かあったの?」
近くの男が言った。
「いいから座れ」
「焼き菓子は?」
「食うな」
ギルド長が咳払いをした。
「森には一人で入るな」
誰かが靴紐を締め直した。
紐が擦れる音が鳴った。
「リナから地図もらっていけ」
ギルド長は手を二度打った。
「動け」
奥の机で、事務方が紙束を抱えて立った。
「地図、複製できてます!」
紙がカウンターに置かれた。
長卓の椅子が、続けて床を鳴らした。
冒険者たちが手を伸ばした。
一枚取る。
折る。
胸当ての隙間に差す。
腰袋にねじ込む。
リナが言った。
「赤い印が確認地点です」
「多すぎるだろ」
「だから配ってます」
「橋は?」
「古い方は落ちてます」
ギルド長は階上の手すりに寄りかかって言った。
「蒼月、オットーはどうした」
蒼月の女が振り向いた。
「腕折って治療院です」
「魔物か」
「橋です」
ギルド長は少し黙った。
「やせるように言っとけ」
ギルド長は隣の卓を見た。
「歪の天、今日は二人か」
「今日は二人です」
「片目と合流してくれ。酔っ払い二人だ」
「しょうがないねぇ」
歪の天の女が笑った。
ギルド長が頭を掻いた。
そのまま歪の二人は受付台に立った。
「歪の天さんは、合流ですね。書いておきます」
リナのペンが走った。
リナが顔を上げると、歪の二人は扉の前だった。
「いってらっしゃい!」
リナの声がいつもより大きかった。
扉が開いた。
ニルが先に入った。
ガルドは遅れて入った。
床板が軋んで鳴った。
「地図もらっとけ」
「西は気をつけろ」
暁のリーダーがガルドに地図を渡した。
ガルドは地図を見た。
上下をひっくり返した。
外から差し込む光で紙が白くなった。
ニルが横から指を置いた。
「西は、こっち」
「知ってる」
ガルドが収納袋に地図を突っ込んだ。
そのまま受付台に立った。
「おはようございます」
リナが帳面を見た。
「ニルの依頼はあるのか」
リナは帳面を見ながら答えた。
「今日の薬草は、森の入り口辺りですね」
「そうか」
「奥は気をつけてくださいね」
「魔物か?」
大剣の留め具が鳴った。
「大きい足跡もあります」
「ちょうどいい」
ガルドは肩紐を引いた。
ニルが依頼票をガルドに向けた。
「採取」
「分かってる」
そう言うとガルドは扉へ歩き出した。
ニルはリナに頭を下げた。
帽子をおさえて後を追った。
「いってらっしゃい」
リナが首を傾げて、口元を上げた。
壁際の男が言った。
「サルカは?」
靴紐を結んでいた男の手が止まった。
「さわるな、おっかねぇ」
壁際の男が笑った。
町の門に、帽子のじいさんがいた。
じいさんが手を上げた。
ニルが頭を下げた。
ガルドは前を向いていた。
ニルが少し遅れた。
ガルドは止まらなかった。
森は緑の匂いが濃かった。
草が倒れていた。
ガルドは歩き続けた。
「ガルド」
ガルドが止まった。
「薬草はこの辺り」
ニルがしゃがんで草を分けた。
いくつかの薬草を抜いていた。
ガルドは木々の間の奥を見ていた。
「ニル!」
ガルドが声を張った。
ニルは薬草を収納袋に入れた。
「あそこ、赤くねぇか」
「赤い」
「戻る?」
ガルドは一歩踏み出して止まった。
「いや、戻らない」
「そう」
ガルドは枝を避けて歩いた。
「熊だな」
「うん」
ニルの足が止まった。
「戻る?」
ガルドが振り向いて言った。
「やれる」
「そう」
ガルドが大木の陰に体を寄せた。
「ニル、動くな」
ガルドが横に手を出した。
ニルはその手を見た。
「パーティ」
帽子のつばに指が残った。
深く被り直した。
「任せろ。俺がやる」
ガルドが大剣の柄を握った。
木の陰から走り出した。
レッドベアが振り返った。
爪が下から入った。
ガルドは大剣を立てた。
刃が爪を受けた。
「重てぇ」
靴底が土を削った。
腕が跳ねた。
大剣の切っ先が上を向いた。
「ガルド!」
ニルが走った。
「来るな!」
ガルドは柄を握り直した。
レッドベアの前足が地面を叩いた。
ガルドは左へ回った。
腰を入れて、大剣を横へ振った。
爪が来た。
鉄が鳴った。
大剣が弾かれた。
腕ごと上に跳ね上がった。
爪が、胸元に入った。
革鎧が裂けた。
三本の線が、胸を走った。
ガルドの息が止まった。
体が斜め後ろへ飛んだ。
背中が地面を打った。
肺から空気が抜けた。
レッドベアが一歩出た。
ニルが大木の根元に触れた。
「ゼロ」
ニルの声が、森から消えた。
横の大木が、根元からずれた。
葉が鳴った。
幹が倒れた。
レッドベアの前に、木が落ちた。
土が跳ね、枝が折れた。
ニルはガルドのそばに膝をついた。
「立てる?」
ガルドは口を開けた。
声が出なかった。
ニルはガルドの腕を取った。
ニルの指が革鎧に触れた。
「ゼロ」
「重さを止めた」
ニルはガルドの腕を肩に回した。
レッドベアが大木を押した。
幹が軋んだ。
ニルは走った。
森の入り口で、ニルは止まった。
ガルドは片膝をついた。
胸から血が落ちた。
ニルの息が荒かった。
「止める」
ニルは裂けた革鎧に手を入れた。
ニルの指が、開いた肉に触れた。
ガルドが歯を食いしばった。
「っ……!」
「動かないで」
「ゼロ」
音が消えた。
ニルの手の下で、血の流れが止まった。
ガルドは地面を掴んだ。
爪に土が入った。
ニルが手を離した。
「止めた」
ガルドは胸を見た。
裂け目はそのままだった。
ニルの手は赤かった。
ローブの袖も赤くなっていた。
ガルドは立とうとした。
膝が折れた。
ニルが腕を出した。
「治ったんじゃねぇのか」
「止めただけ」
「痛えぞ」
「血は戻らない」
ガルドは息を吐いた。
「どうすりゃいい」
「痛いまま歩く」
ガルドは顔を上げた。
「……そうか」
ニルは肩を出した。
「肩、貸す」
ガルドは少しだけ黙った。
「少しだ」
「うん」
靴底で枝が鳴った。
「行けたはずだった」
ガルドの膝がまた折れた。
町の門に、帽子のじいさんはいなかった。
門の影が長かった。
ギルドの扉が開いた。
ガルドの肩が扉に当たった。
扉が鈍く鳴った。
ニルが横から支えていた。
長い影が床に落ちた。
ガルドが一歩踏み出した。
ニルの腕が沈んだ。
革鎧の金具が床を打った。
ガルドは、床にうつ伏せに倒れた。
革鎧の血が床に染みた。
近くの卓にいた男が立った。
「おい」
もう一人が椅子を蹴った。
「死んでるじゃねぇか」
「死んでない」
ニルが言った。
男たちがガルドを支えた。
ガルドは近くの椅子に座らされた。
椅子が鳴った。
ガルドは胸を押さえた。
「水」
誰かが言った。
「布だろ」
別の男が奥へ走った。
足音が重なった。
倒れた椅子を、若い冒険者が壁際へ寄せた。
床の血を見て、手を止めた。
「見てんな。どけ」
皿を持ったままの女が、厨房の方へ振り返った。
椅子が鳴った。
「サルカは?」
「いねぇ」
リナが受付から身を乗り出した。
声を張った。
「ガルドさん、負傷です!」
奥で椅子が引かれた。
ミレイが立ち上がった。
机の上のペンが転がった。
床に落ちた。
上で足音が鳴った。
上の手すりに、ギルド長が出た。
「傷は」
ニルが顔を上げた。
「止めた」
「止めた?」
「起きてることを」
「相手は」
「レッドベア」
「お前は」
「戦ってない」
ギルド長はガルドを見た。
「……あの馬鹿」
舌打ちが落ちた。
「医務室だ。寝かせろ」
ガルドは立とうとした。
「歩ける」
大剣が床を叩いた。
留め具が鈍く鳴った。
誰かの手が肩を押さえた。
「誰か、手を貸せ」
ガルドは歯を食いしばった。
低く唸った。
ミレイは立ったままだった。
肩が小さく震えていた。
足が一歩前に出ていた。
リナが横から、その肩を抱いた。
リナの指も震えていた。
ガルドは男たちに支えられて、医務室へ連れて行かれた。
ミレイはガルドを見ていた。
まばたきが止まっていた。
バルトじいが受付台に寄りかかった。
ミレイを見た。
「死にはせん」
ミレイが頷いた。
リナの震える指が、ミレイの肩に残っていた。
バルトじいは医務室の方を見た。
「死にはせん」
受付台を握るバルトじいの指先が白くなっていた。
濡れた布を持った女が、ニルの手を拭いていた。
「動くなよ」
「動いてない」
「手の血は落ちたね」
「落ちた」
「ずいぶん冷たい手だ」
「魔法使ったから」
床の血は、まだ残っていた。
誰かが水桶を置いた。
その時、扉が開いた。
サルカが戻ってきた。
床を見て足を止めた。
ニルを見た。
そのまま歩いた。
「血、かい?」
「ガルド」
「ニルは」
「大丈夫」
「生きてるのかい?」
「寝てる」
「そうかい」
サルカはニルを抱き寄せた。
一瞬だった。
すぐに離した。
「ひでぇ格好だな、ニル」
背後で誰かが言った。
「誰か、きれいにしてやれ」
サルカは階段を上がっていった。
靴音が、いつもより大きかった。
ギルド長は机に寄りかかっていた。
サルカが横に並んだ。
「一人で突っ込んだらしい」
「バカだねぇ」
「ええ」
ミラが陶杯をサルカに渡した。
サルカが一口飲んだ。
「やるかい」
「治せるのか?」
「世界を間違えさせるだけさ」
サルカは階段を降りた。
「リナ、医務室に人を近づけるんじゃないよ」
サルカは医務室へ歩いた。
リナも受付台を回ってサルカを追った。
リナが医務室の扉を開けた。
「部屋から出てください」
何人かが布を置いて、部屋から出て行った。
リナが扉を閉めた。
「ひどいね」
「すまない」
「血はもう止まってるね」
「ニルだ」
「そうかい。これ噛んでな」
ガルドの口に丸めた布を入れた。
サルカは指を回して、宙に円をかいた。
「そっちじゃないよ」
低い声だった。
ガルドの体が一度跳ねた。
桶の水が、縁に沿ってせり上がって沈んだ。
ギルドの扉が開いた。
戻ってきた冒険者が一歩入って、床を見た。
女が膝をついて、血を拭いていた。
「どーした」
「ガルドが負傷だよ」
冒険者はニルを見た。
ローブの前が赤かった。
袖の先まで血がついていた。
「こりゃ、痛そうだ」
冒険者は壁際に荷物を置いた。
「布、足りてるか」
しばらくして、また扉が開いた。
男が、包みを抱えて入ってきた。
「服、買ってきたぞ」
「あんた気が利くね」
女冒険者が包みを受け取った。
中には、麻のシャツとズボンが入っていた。
「ニル、着替えておいで」
ニルは自分の袖を見た。
「これは」
「着替えるんだよ」
ニルは袖を見た。
「これでいい」
女冒険者が首を振った。
「また子供が泣くよ」
ニルは少し黙った。
「分かった」
女冒険者がリナを見た。
「リナ、ニル頼めるかい」
「はい」
リナは受付から出てきた。
「ニルさん、こちらへ」
ニルは頷いた。
リナについて、奥へ入っていった。
「今日はうまくねぇな」
長卓で男が椅子を引いた。
木のジョッキを卓に置いた。
医務室の方を見た。
「適当に飲んどけ」
向いの男が言った。
奥の扉が開いた。
ニルが出てきた。
シャツの肩は少し余っていた。
ズボンの裾は、ひと折りされていた。
女冒険者が、血のついたローブを持っていた。
「ローブの血がひどいね」
「三番街の洗濯屋の薬液がいいよ」
別の冒険者が言った。
「誰か頼めるかい」
「ついでがある」
長卓の男が手を上げた。
女冒険者はローブを丸めた。
「染みになる前にね」
長卓の男は収納袋にローブを入れた。
扉のそばには水桶がいくつか立て掛けられていた。
サルカが長卓で陶杯を傾けた。
「今日は人が少ないね」
女冒険者がパンを千切って噛んだ。
「いろいろあったからな」
「ところで、ニルはどこにいるんだよ」
サルカが一口飲んだ。
「ニルかい?暁のリーダーが連れて帰ったよ」
「ガルドもあれじゃな」
「大丈夫だろうさ、真面目だからね、あのリーダーは」
奥の医務室の扉の音がした。
サルカは陶杯を卓に置いた。
小さく鳴った。
ガルドが出てきた。
胸の革鎧は外されていた。
包帯が巻かれていた。
服は裂かれ、血に染まっていた。
ギルドの男が横を支えていた。
一歩一歩が重かった。
「待ってくれ」
ガルドが長卓の前で足を止めた。
ガルドはギルドの男の腕を外して立った。
サルカがガルドの目を見た。
「思ったより早かったね」
「すまない」
「ニルは死なせなかったね」
ガルドの膝が折れた。
床が軋んだ。
「治っちゃいないよ」
ガルドは下を向いていた。
「……あぁ」
「進む方を変えただけだからね」
サルカは陶杯に指をかけた。
それから肘をついたまま持ち上げた。
「あんたは弱いね」
サルカが陶杯を揺らした。
「だめな弱さだ」
女冒険者が、サルカの脇をついた。
サルカは一口飲んだ。
ガルドから視線を外した。
上からギルド長の声がした。
「誰か、宿までついてってやれ」
「しょうがねぇなぁ」
暁の男が立った。
ガルドの腕を取った。
「歩ける」
「知ってるよ」
男はガルドの肩を支えた。
「だから、ついてくんだろ」
二人は扉へ向かった。
ガルドの足が、少し遅れた。
ミレイは顔を上げなかった。
帳面の上で、ペン先が浮いていた。
落ちたインクが、紙に滲んでいた。
バルトじいが、受付台に寄りかかったまま見ていた。
「重そうじゃな」
「聞こえてんぞ、じじい」
暁の男が言った。
「わしは持てん」
「頼んでねぇよ」
バルトじいは笑った。
口元しか上がっていなかった。
扉が閉まった音が沈んだ。
