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第4話|妻のスマホに、僕は「夫」として残っていなかった

娘の絵を見た夜から、僕は妻に話しかけるタイミングを探していた。

けれど、タイミングなんてものは、待っていても来なかった。

朝は子どもたちの支度で慌ただしい。
夜は風呂、歯磨き、寝かしつけで一日が終わる。
妻はいつも通りに動いていた。

僕だけが、いつも通りではなかった。

リビングのテーブルには、まだあの絵が置かれていた。

家の中で笑う妻と子どもたち。
玄関の外に立つ、小さな僕。

見るたびに、胸の奥が少しずつ沈んでいく。

「これ、片づけてもいい?」

妻がその絵を手に取って言った。

「あ……うん」

僕はうなずいた。

本当は聞きたかった。

君は、この絵を見てどう思った?
僕が外に描かれていることに、何か感じた?
それとも、もうそんなことも当たり前になっている?

でも、口にできたのは違う言葉だった。

「明日、保育園って何時に出ればいい?」

妻は絵を棚に置きながら答えた。

「いつも通りで大丈夫」

「そっか」

会話は、それで終わった。

同じ家にいるのに、僕たちは必要なことしか話さない。

冷蔵庫のメモ。
朝食の沈黙。
娘の絵。

それぞれ別の出来事のようで、全部が同じことを言っていた。

僕たちはもう、夫婦の会話をしていない。

その夜、子どもたちが寝たあと、妻はリビングのソファに座っていた。

手にはスマホ。
画面を見ているわけではなく、ただ持っているだけのように見えた。

僕は少し離れた場所に座った。

「少し、話せないかな」

そう言えばよかった。

たったそれだけのことなのに、喉の奥で言葉が止まった。

妻は立ち上がり、スマホをテーブルに置いたままキッチンへ向かった。

その瞬間だった。

テーブルの上で、妻のスマホが小さく震えた。

画面が明るくなる。

見てはいけないと思った。
でも、視線は勝手にそこへ向いた。

通知ではなかった。

僕が少し前に送った、保育園の時間を確認するメッセージだった。

画面には、差出人の名前が表示されていた。

「子どもの父」

一瞬、意味が分からなかった。

僕の名前ではなかった。
昔、妻が呼んでくれていたあだ名でもなかった。
「パパ」でも、「夫」でもなかった。

子どもの父。

それは間違っていない。

僕は確かに、子どもたちの父親だ。

でも、その言葉の中に、妻の相手としての僕はいなかった。

胸の奥が、冷たくなった。

妻がキッチンから戻ってきた。

僕がスマホを見ていたことに気づいたのか、妻は一瞬だけ足を止めた。

「……見た?」

静かな声だった。

責めているわけではない。
隠そうとしているわけでもない。
ただ、確認しているだけの声だった。

僕はうなずいた。

「ごめん。見るつもりじゃなかった」

妻はスマホを伏せた。

それから、少しだけ沈黙した。

「変えたの、いつ?」

僕は聞いてしまった。

妻はすぐには答えなかった。

リビングの時計の音が、やけに大きく聞こえた。

「だいぶ前」

「だいぶ前って、いつ?」

「覚えてない」

そう言って、妻は目を伏せた。

嘘ではないのかもしれない。
本当に覚えていないくらい、自然に変えたのかもしれない。

その方が、きつかった。

「僕は、もうそういう存在なんだね」

言ったあとで、情けない言い方だと思った。

妻は顔を上げなかった。

「そういう意味で登録したんじゃないよ」

「じゃあ、どういう意味?」

妻は唇を結んだ。

少しだけ迷ってから、静かに言った。

「あなたに何かあったとき、子どもたちの父親として連絡が来る人だから」

その説明は、正しいのだと思う。

でも、正しい言葉は、ときどき残酷だ。

「夫」ではなく、
「好きだった人」でもなく、
「話したい人」でもなく、
「子どもの父」。

僕は、妻のスマホの中でさえ、家族の外側に立っていた。

「そんな顔しないで」

妻が言った。

その声は、少しだけ疲れていた。

「私だって、そうしたくてそうなったわけじゃない」

初めて、妻の声が揺れた。

僕はその揺れに気づいたのに、また何も言えなかった。

謝ればよかったのかもしれない。
いつからそう思わせていたのか聞けばよかったのかもしれない。
やり直したい、と言えばよかったのかもしれない。

けれど僕は、ただスマホの黒い画面を見ていた。

そこにはもう、何も映っていなかった。

妻はスマホを手に取り、寝室へ向かった。

扉が閉まる直前、僕はようやく声を出した。

「話したい」

妻の足が止まった。

けれど、振り返らなかった。

「今じゃなくていいなら」

それだけ言って、妻は寝室に入った。

リビングに、僕だけが残された。

テーブルの上には、娘の絵がなくなっていた。

冷蔵庫のメモも、もうない。
朝食の沈黙も、過ぎてしまった。

それでも、何も終わっていなかった。

むしろ僕は、ようやく始まりに立ったのかもしれない。

妻のスマホに残っていた名前は、僕を傷つけるためのものではなかった。

ただ、今の僕たちの距離を、そのまま映していただけだった。


次回予告

「今じゃなくていいなら」

妻が残したその一言を、僕は何度も思い返していた。

話せるかもしれない。
まだ、完全に終わったわけではないのかもしれない。

そう思った夜、僕は妻に短いメッセージを送る。

けれど、そのメッセージに既読がつくことはなかった。

次回
第5話「既読にならない夜」


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

少しでも「この夫婦はまだやり直せるのだろうか」と気になった方は、スキを押していただけると励みになります。

次回は、夫が初めて自分から向き合おうとする夜を描きます。

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