去り行く数字
駅前のカレー屋が、百五十円値上げしていた。
入口の貼り紙を見た瞬間、佐伯は足を止めた。
チキンカレー、六百八十円。
先週まで五百三十円だった。
百五十円くらいで、と自分でも思った。コンビニで余計なものを買えば、それくらいすぐ消える。けれど、その店のカレーだけは違った。
残業で遅くなった日。何も作る気力がない日。給料日前で財布の中を気にする日。佐伯はここでカレーを食べた。
安いから、というだけではなかった。
安くて、温かくて、いつも同じ味だったからだ。
「いらっしゃい」
店主はいつもの声で言った。
佐伯は券売機の前に立った。新しい値段のボタンだけが、少し白く浮いて見えた。
後ろに人が並んだので、佐伯は慌てて千円札を入れた。

カレーは、いつもと同じ匂いがした。皿も、福神漬けの赤さも、スプーンの軽さも変わらない。
ただ、食べ始めても、どこか落ち着かなかった。
値段が上がったことが悲しいのではない。
この店まで、世の中の側へ行ってしまった気がした。
壁には、貼り紙がもう一枚あった。
「材料費高騰のため、価格を改定しました。申し訳ありません」

申し訳ないのは、たぶん店主ではなかった。
佐伯はカレーを食べ終え、水を飲んだ。
うまかった。
それが、少しだけ困った。
まずくなってくれたら、もう来ない理由にできたのに。
店を出ると、夕方の駅前はいつも通り人で混んでいた。誰もが少しずつ高くなった世界の中を、何食わぬ顔で歩いていた。

佐伯は財布をしまいながら思った。
また来るだろう。
けれど次からは、少しだけ覚悟して暖簾をくぐることになる。
たった百五十円で、日常はこんなに遠くなる。
