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見積書の余白


 見積書には、部屋の匂いがしなかった。

 相沢真紀は、白い紙の上に並んだ数字を見ながら、さっき内見した二階の角部屋を思い出していた。南向きの窓。ベランダの先に見えた細い桜の木。古いが、床はきれいだった。浴室の換気扇が少し大きな音を立てていたことも、むしろ正直でよかった。

 だが、いま目の前にある紙には、その部屋の気配がどこにもなかった。

 仲介手数料。鍵交換費。室内消毒費。安心サポート費。契約事務手数料。書類作成費。除菌抗菌施工費。入居前点検費。退去時クリーニング前払い。火災保険料。保証会社利用料。

 家賃七万二千円の部屋だった。

 初期費用の合計欄には、四十九万八千三百円と印字されていた。


 カウンターの向こうで、担当の黒川がボールペンの先をそろえながら笑った。三十代前半くらいで、紺のジャケットが似合っていた。内見中は親切で、換気扇の音にも「すぐ直してもらえますよ」と言ってくれた。

「皆さん、だいたいこちらでご契約いただいてます」

 真紀はその言葉を聞いて、見積書から顔を上げた。

「だいたい、というのは」

「はい?」

「この中に、外せるものがあるという意味ですか」

 黒川の笑顔が、ほんの少しだけ遅れた。

 真紀は鞄から、自分のペンを取り出した。

「一つずつ確認させてください」



 最初に聞いたのは「安心サポート費」だった。一万九千八百円。

「水回りのトラブルや、鍵の紛失のときなどに対応するサービスです。皆さんに入っていただいています」

「任意ですか、必須ですか」

 黒川は少し笑った。

「実質的には、皆さん入られていますので」

「任意か必須か、どちらですか」

 真紀は声を変えなかった。同じ速さで、同じ温度で、もう一度聞いた。

 黒川は視線を見積書に落とした。

「大家さんの意向もありまして」

「では、大家さんが入居条件として定めているということですね。それを書面に残してください。契約条件として明示されているなら、こちらも確認したいので」

 黒川がペンを持つ手を止めた。

「書面、というのは」

「大家さんが、このサービスへの加入を入居条件にしているという証明です。あるなら出してください。なければ、任意ということになりますね」

 黒川は何も言わなかった。

 真紀は見積書に小さく線を引いた。


 次は「室内消毒費」だった。二万二千円。

「入居前に、専門業者が室内を消毒します」

「どこの業者が、いつ、何を使って、何分くらいかけてやる作業ですか」

 黒川は少し間を置いた。

「詳しくは……簡単な消毒作業になります」

「簡単かどうかではなく、作業内容を聞いています」

「スプレーのようなものを使うと聞いています」

「使用した薬剤名と、施工前後の写真、それと施工証明書は発行されますか」

 黒川は上を向いた。何かを考えるふりをしているように見えた。

「そこまでは、ちょっと」

「では、何をしたか証明できない作業に、二万二千円を払う理由がありません」

 黒川は「そうは言っても」と言いかけて、口を閉じた。

 真紀はまた、静かに線を引いた。



 三つ目は「書類作成費」と「契約事務手数料」だった。前者が一万一千円、後者が一万六千五百円。

「これは何が違いますか」

「書類を作る費用と、契約に関する事務の費用です」

「契約に関する事務の中に、書類作成は含まれませんか」

 今度は間が長かった。

「……ケースによりまして」

「仲介手数料は、仲介業務全般に対する報酬ですよね」

「はい、そうです」

「では、仲介業務に含まれる作業と、別途請求になる作業の境目を教えてください。どこで分かれますか」

 黒川は答えなかった。

 真紀は続けた。

「仲介手数料を払う以上、契約に必要な事務と書類は、その中に含まれていると考えるのが自然です。別途請求するなら、仲介手数料に含まれない業務だという説明が必要です」

 黒川は立ち上がった。

「少々お待ちください」



 戻ってきたのは黒川ではなく、四十代後半くらいの男性だった。胸のバッジに「店長 三枝」とあった。髪がきれいに整えられていて、黒川よりずっと落ち着いた声をしていた。

「お客様、ご不明な点があったとのことで」

「不明ではなく、説明を求めています」

 三枝は微笑んだまま座った。

「弊社の標準プランでして、ご提案している内容になります。他のお客様にも同様に——」

「私は標準プランを借りに来たのではなく、この部屋を借りに来ました」

 三枝の口が、一瞬だけ止まった。

「この部屋を借りるために必要な費用と、御社が提案しているサービスを、分けてください」

「それは——」

「分けられないなら、どれが貸主の条件で、どれが御社の商品か、一つずつ答えてください」

 真紀は見積書を指でたどった。

「鍵交換費。これは貸主の条件ですか、御社の商品ですか」

 三枝は「貸主の条件です」と答えた。

「では書面を出してください。……安心サポート費は」

 三枝は少し考えた。

「こちらは弊社がご案内しているものになります」

「任意ですね」

「……はい」

「除菌抗菌施工費は」

「弊社のサービスです」

「任意ですね」

「……はい」

「書類作成費と契約事務手数料は」

 三枝は黙った。

「仲介手数料に含まれる業務との違いを説明できますか」

「……確認いたします」

「確認、ではなく、説明をお願いしています。御社が請求している費用ですから、説明できるはずです」

 三枝は手元のメモに何かを書いた。それが何かは、真紀には見えなかった。


 しばらくして、三枝が口を開いた。

「お客様のご指摘はわかりました。ただ、弊社としても、このプランでご案内するのが通常でして——」

「通常かどうかは関係ありません」

 真紀はそこで初めて、少しだけ声の温度を変えた。

「私が聞いているのは、それぞれの費用の根拠です。説明できるものには払います。説明できないものには払えません。それだけです」

 三枝は笑顔を保ったまま、次の言葉を探している様子だった。

 やがて彼は言った。

「そこまでおっしゃるなら、この物件は難しいかもしれませんね」

 真紀は三枝を見た。

「難しくしているのは、物件ではなく見積書です」

 三枝は何も言わなかった。

 真紀は立ち上がり、バッグを持った。鞄の中に、赤線だらけの見積書を戻した。

「内見させていただいた部屋は気に入りました。ありがとうございました」

 そう言って、店を出た。




 駅までの道は五分ほどだった。

 五月の夕方で、風がゆるかった。桜はもう終わっていたが、街路樹の葉が濃くなっていた。

 真紀はスマートフォンで、さっきの物件番号を調べた。同じ物件を扱っている他の業者がないか確認するためだ。

 あった。

 駅の反対側に、小さな看板を出している不動産屋があった。


 そこの担当者は若い女性で、見積書を出すのに少し時間がかかった。

 出てきた紙は、先ほどの半分ほどの項目数だった。

 仲介手数料。鍵交換費。火災保険料。保証会社利用料。

 初期費用の合計は、二十二万円だった。

「同じ物件ですよね」

 真紀が確認すると、担当者は「はい、お間違いないです」と答えた。

 真紀はその紙をしばらく見た。

 部屋はひとつだった。南向きの窓も、ベランダの桜の木も、換気扇の音も、全部おなじだった。

 変わったのは、部屋までの道だけだった。

 真紀はペンを取り出した。

「では、こちらでお願いします」



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