二、私のお母さん⑫
外は嫌な感じに蒸し暑かった。年季が入ってというよりはろくろく手入れもしないせいで古びたのれんをくぐって見上げた空は真っ暗に重たくたれ込めていて、夜より先にひと雨来そうな予感がした。
当然のようにまた運転席に収まった堀くんが無言で私が助手席に座るのを待っている。
帰りの車の中では二人とも無言だった。
殺人犯の過去は凄絶なものが多い。情状酌量を考えるかどうかは別として、心理的に負荷がかかっている人間が多すぎるのだ。
万堂哲人の半生も酒のつまみにするには重すぎるし、本人がなかなか肝心なことを言おうとしないのも納得できる。
万堂恵利は哲人に比べて明らかに正直な人間に思えたし、彼女が話した内容は客観的に見て誰のことを庇う内容でもないと思われた。それだけで事実とは認定できないが、少なくとも信憑性の高い真実の一角という感じはする。
どちらにせよ、恵利が哲人の人格形成に重要な影響を与えたことは疑う余地はない。
ぼたぼたと大きな音が頭上に響き渡って、やっぱり雨が降ってきた。
見る間に雨は勢いを増し、土砂降りと言っていいほど叩きつけてきた。
帰りの車窓には赤いヘッドライトがどこまでも続いて、流れ落ちる雨ににじんで煙った。怪物の真っ赤な目玉が無言のまま怒っているように見える。
レイン・キャッツアンドドッグズ。
アメリカの師匠がこんな雨にそう言っていたのを急に思い出した。犬猫降りの雨。いかにもうるさそうで、こんな日にはぴったりくる。
「似てましたね、あの人」
ぽつんと、ついこぼれたように堀くんが言う。雨にかき消されそうな声だった。
「万堂に?」
私はシートに沈み込みながらけだるくそう聞き返す。
「いや被害者ですよ。皆どこか、あの人の面影のある女性ばかりだった」
言われるまで気づかなかった。若干無理をさせたかもしれないが、堀くんに来てもらってよかったと思う。
女のカンの働かない私だけど、こういう男の視点も持ち合わせていないのか。
「髪型は確かに同じね」
鎖骨に届く長い黒髪、毛先がゆるく癖づいているのも共通項だった。
「だいぶスレていたけれど、あの人がスナックのママをする前は、きっと真面目でおとなしい感じの女性だったんでしょうね」
その指摘はたぶん当たっている。かつて深窓の令嬢だった女のイメージが、哲人の深層意識にもこびりついているのだろうか。
「万堂は、あの人のことが好きなんでしょうか」
「エディプスコンプレックス?」
フロイトは専門ではないので教科書程度しか知らない。私はエロスよりももっと直接的な猟奇殺人ばかり追いかけてきたのだ。セックス殺人の犯人たちはフロイトを持ち出すまでもなく性欲過多かまたはルサンチマンにまみれた人生観を持っていた。
「だとしたら、私にはよく分からないわね。私は万堂恵利の話は納得できたけど。女にとって母娘というのはいつだって、戦争の歴史なのよ」
「仲良し親子っていうのも、いますけどね」
そういうパターンもあるとは聞いているものの、実際には見たことがない。アメリカで習った殺人者たちの幼少期もほとんどは虐待や生き別れ、親子の豊かな情愛の中で怪物が育まれたという事例は少なくとも私は知らない。
どこにそんなに溜め込んでいたんだと問いただしたいほどの勢いでザアザアと雨が車の屋根めがけて叩きつける。犬猫どころか虎や狼くらいの勢いはある。
この距離でお互いの声が聞きづらくて、私たちは声を張り上げた。
張り上げてまで言うほどのことだろうか。堀くんは続ける。
「同情には値するんだと思いますよ。でも、どんな不幸な人生だからって、無関係の女性を四人も殺していいことにはならないでしょう!」
「それは、そうね!」
「俺、いつも思うんですよ。調べてみると確かに悲惨な体験をしている犯罪者って多くて、ある意味では犠牲者だなと感じることもあります。だけどね、同じくらいのストレスの中でまともな社会人として誰にも迷惑をかけずに一生を終える人の方が圧倒的に多いわけですよね!」
逆境の中でも上を向いて咲く花は多い。多いからこそ、話題にのぼることはない。話に出たところで、偉いのね、でおしまいだ。
逆境に押しつぶされてペチャンコになった花は踏みつけられて終わる。時に目を留める人もあるかもしれないが、黙祷さえも捧げられることもないだろう。
逆境に耐えきれずに山火事を起こした花だけが、俎上にのる。裁判の記録に残りファイリングされて長く語り継がれてゆく。山火事が燃え広がれば広がるほど、人の記憶にも残る。
泣き叫ぶように雨が降る。ワイパーがせわしなく視界を行き来しているけれど、たいした効果もなさそうだ。
「堀さんはどうして、この仕事をしているの?」
前からずっと疑問だった。
私と堀くんはアプローチが違う。私はいつもどこかで、殺人者に共鳴している。私も一歩間違えば、あちら側に立たされていたんじゃないかと思っているのだ。
渋滞の中をのろのろと前進しながら、堀くんは真面目な横顔で静かに答えた。
雨音にまぎれてしまうくらいの声量で。それでもなぜかはっきりと聞こえたけれど、堀くんがそれを望んでいたかは分からない。
「それはやっぱり、許せないからでしょうね。人を殺す人間はそれだけで、卑怯なんですよ。例外なんて、なくていいと思います」
「許せないから研究するの。それは……変わっているわね」
私の声も聞こえても聞こえなくてもいいと思って低く放り投げた。堀くんは雨の流れるフロントガラスを見たまま、もう返事も聞き返しもしなかった。
雨のせいでほとんど何も見えない助手席の窓に目をやる。こんな豪雨も密閉された刑務所では何の影響もないだろう。
あの医療刑務所の一室で今頃、万堂哲人は何をしているだろうか。
※
今日は遅いし雨だからと研究室ではなく自宅マンションの方へ送り届けてくれた堀くんに礼を言って、常夜灯ひとつ点いていない暗闇のドアを開ける。
家に着いた時点でもう積乱雲は抜けていった後だった。
濡れずに済んでよかったと思った、束の間。
「……うっ」
一瞬遅れて胸の悪くなるような臭いが鼻孔を叩いた。
反射的に外に出たくなるが、後ろ手に鍵を掛けて私は電気のスイッチに手を伸ばした。
やりやがったな、これは。
あの女、絶対どこかで漏らしていやがる、と私は確信していた。
シンと静まり返った廊下には何も落ちていなかった。ドスドスと音を立てて真っ直ぐに突き進む。
あの女の部屋か。
「ちょっと、あんた!」
ガチャと乱暴に押し開けた部屋にもこれと言った異常が、なかった。口を開けて干からびた屍のような老女がうとうとしながらどんよりとした目をこちらへ向ける。
「あー? なあに、リッちゃん」
よだれを垂らして寝ぼけた声を上げるが、蛍光灯に照らされた部屋に異臭はしなかった。簡易トイレの蓋もしっかりと閉まっている。
「あんたどっかで粗相したでしょ、どこよ! 言いなさいよ!」
枕元で怒鳴りつけたら、老女は顔を背けて「しらないよぉ」と言った。
「知らないわきゃ、ないだろうが! じゃあなんだってこんなに臭いのよ、おかしいじゃない、言え! 言えったら!」
「ああん、うるさい、うるさあああい!」
甲高い声で叫んでずいぶんと細くなった腕で顔を覆っていやいやをしている。
覚えていないということ? アルツハイマーと違ってレヴィ小体はそこまで記憶が消えることはないと医学書に書いてあった気はするが、寝ぼけているのか、それとも認知症が進行しているのか。
言わないものをいつまでも怒鳴っても揺すっても埒が明かないので、私はとりあえず一度着替えることにして自分の部屋へ向かった。どうせこの後は糞の始末だ、スーツでは何かと勝手が悪い。
「……ちょっと待って」
たいして部屋数が多いわけでもない我が家。私の部屋のノブに手をかけるのを躊躇した。
べっとりと糞がなすりついている。
「うっそでしょ、ちょっと!」
吐き気をこらえながら、でも一刻も早く現状を知りたい気持ちでドアを開けた。直接は触りたくないから、鞄の中のテッシュを重ねて回したけれど、それでも気分が悪かった。
私の手にもぬるりと糞が塗りたくられたような気がして。
部屋のドアを開けたら、むっと猛烈な悪臭が襲いかかってきた。
リビングから照らされた微光でも惨状が予想できた。私の脳裏に、直接は見たことがない様々な殺人事件の現場写真が蘇ってくる。
「おえええ!」
ゲリラ豪雨の日に疲れ切って帰って来た娘にこの仕打か。
私は電気を付けて汚れていない床を選んで窓へ突き進み、勢いよく窓を開けて大きく息を吸った。
雨で洗われて清浄な夜の風。さっきまでは雨後の熱帯夜だなんて思っていたけれど、じっくりと蒸し上げられた糞尿の臭いよりはよほどマシだ。
聖域だったはずの私の部屋はクローゼットの中身が散乱して、見事に糞まみれにされていた。それも、よそゆきの高級品から狙いすまして。
お気に入りだった青いワンピース、高かったロングコート、アメリカで買ったヴェルサーチのバッグも、みんなみんな。
汚物にまみれて無残な姿になっていた。
「もう、イヤーッ!」
絶叫した。絶対わざとに決まってる。ボケたフリしてあの女、私の服をそれと分かって駄目にしたんだ。嫌がらせだ。それしか、考えられない。
糞の始末は社会性のはじまり。幼子は食うことは教えられなくてもできる。最初のしつけはトイレトレーニングだったはずだ。
人間性への冒涜だ、これは。
どこから片付けていいかも思いつけずに、ひどい臭いの中で顔を上げると、パーキンソンでたいして動けないはずのあの女がリビングからこっちを見ていた。
ニヤニヤしていたらまだ、怒鳴りつけていたかもしれない。
女が真顔で、しゃがみこんだ私を見下ろしていた。
「あんたのためなのよ」
何度も何度も繰り返し、小さい頃から数え切れないくらい浴びせられたその言葉を今また振りかざすのか。
言い返す言葉も見つけられずに、こわばった私の唇がただわなないた。
「あんたがまちがったことをしないように、ただすのが、おかあさんの、やくめ」
ふざけるなと怒鳴りたかった。だけど情けないことに、私の喉はひゅうひゅう無様な息を漏らすだけ。こんな臭い部屋で息なんて吸いたくもないのに。
「あんたの、ためなのよ」
フッと虚ろに笑って、体重なんてないみたいにゆらゆらとパーキンソンの女が音もなく戻って行く。痩せこけて軋む身体がガガンボみたいに見える。
追いかけ回して叩いても、足はすぐもげるくせに風にさらわれてなかなか死なないあの虫みたいに。
「うっ……うっ……」
とうとう嗚咽がこみ上げてきて、私は数年ぶりに涙を流した。泣きながら、この感情が怒りなのか悲しみなのか絶望なのか、判別することもできずに泣いていた。
ろくすっぽ歩くことも出来ないはずのあの女。それでもまだ、母親として君臨しようというのか。そうまでして、私の邪魔をしたいの。なんのために。ねえ、なんでそこまでされなきゃいけないの。
ただ親子として生まれついたというだけの、それだけのことで。
たったそれだけの縁で!
「ああああああああああ!」
眠りに落ちたマンションの吹き抜け、私の咆哮が闇を裂いて突き刺さった。
天にまします我らが父よ。一刻も早くあの女の息の根を、止めてくれ!
レストインザヘル、アーメン! どうか永劫の苦しみを、あの女にも。
神様、今だけは信じるからお願い、あの女を地獄へやってください。
そうでなければこの私が、報われないじゃないですか!
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