二、私のお母さん⑥

 今日は長い会議があった上、万堂のファイルが付箋まみれになるまで研究室にいたから、また帰宅時間が遅くなってしまった。母は夕食をどうしたろうかと一瞬考えたが、すぐにどうでもいいと思い直した。

 ガチャンと音を立てて玄関の鍵を閉める。
 やはり今日も家の中には悪臭が漂っていた。
 東京拘置所の旧舎とはまた違った種類の、悪臭。人間の汚物と、忍び寄る死の臭いだ、これは。

「リッちゃん、リッちゃん、見てきておくれよお」
 起きていやがるのか。
 口から勝手に舌打ちが鳴る。私はわざとドスドスと音を立ててその部屋のドアを開けた。

「きゃあああ……」
 気の抜けたような悲鳴を上げて、母が顔じゅうの皺を引きつらせてベッドの上で後退った。

「うるさい、黙れ、とっとと寝ろ!」
「こあいよう、こあいよう。リッちゃん、たすけて……女強盗だよお、こあいよう」

 またあっちの世界へ行っている。こうなった母はもう駄目だ。何を言っても話が通じない。
 アルツハイマー型と違ってレヴィ小体型はこれがやっかいなのだ。

 母は今、幻覚を見ている。変な形に固定している両腕で、幻の律子を抱きしめてでもいるのだろう。場合によっては感触や温度まで感じていることもある。母にとって律子は今確かにそこに見えているので、私は律子を騙る偽物ということになる。偽の律子が何を言っても言うことを聞かないし、触ろうものなら半狂乱で糞尿を撒き散らすだけだ。

 だから放っておくことにする。
「いいからもう寝な! 明日、ちゃんと起きなかったらメシはないと思えよ」

「リッちゃあん!」
 うわあん、と子どもみたいな声で幻の律子に助けを求める。幻の律子はさぞや、心優しい娘なんだろうと思う。時折完全にイッちゃった目で幻の赤子にリツコリツコと話しかけているのも見た。

 なんておぞましい。
 この女の脳はとうとう都合のいい娘の幻を生み出すほどに錆びついたのだ。
 幻想の赤子に向けていた顔が見たこともないほど穏やかで満ち足りていたのも、ますます気持ちが悪い。

 生後直後のことは記憶にないが、私の覚えている範囲ではこの女は常に怒り狂っていたのに。いつだって何かに追い立てられて、ガミガミ怒鳴って叫んで目を吊り上げていた。

 この女にも育児なんかは向いていない。育てられた娘本人が言うのだから、これほど確かな評価はないだろう。誰にとっても不幸なことに、そもそも適性がなかったのだ。

 数時間おきに泣くに決まっている乳幼児を相手に優しくあやす余裕があったとは、とてもでないが考えられなかった。
 実際には初めての(そして最後の)子どもに悪戦苦闘したはずなのだ。そんなことはすっかり「なかったことにして」泣きもせず糞も漏らさない幻を抱いてうっとり微笑むボケ老人。

 だったら私は、どうしたらいい?
 お前が育て損なったせいで、結婚も恋愛さえもロクにできなかった娘は、どこに怒りをぶつければいい。

 幼い私から見てもこの女は終始愚かな女だった。
 愚かだったからこそ、この女は手ごろな男を丸め込んで結婚をし、人並みに出産と育児をこなした。自分にも出来るだろうと楽観して。

 私は?
 私はこの女のようにはなるまい、なってはいけないと思い続けて育った。同じ轍を踏むまい。絶対に。

 だから私は結婚すらできなかった。自分でうまく育てられるはずもない子どもなど、最初から望んだこともない。

 中学生の頃、同じ年頃の子どもが殺人事件を起こして逮捕されたニュースを見た。私は傍らでぼんやりテレビを見ていた女に訊いた。

「母さん、よく子どもなんか産めたね。もし自分の子どもが凶悪犯にでもなったらどう責任を取るつもりなの」
 女はクスクス笑ってこう言った。

「バカねえ。そんなことあるわけないし、それに子どもが生まれる前にそんな縁起でもないこと考える親なんか一人もいないんだよ。あんたも妊娠したら、絶対に分かる」

 バカはどっちだ。私はそんな程度の浅知恵でこの世に産み落とされてしまったのか。お前が私にどれだけの苦痛を与えるものかを考えることさえせず、ただ結婚したら子どもは産むものだからと、親戚に子どもはまだかと言われるのが嫌だからと、私が誕生させられたというのか。

 低能の子どもに生まれるというのは、自分ではどうしようもない、避けられない苦痛だと思った。
 私も殺してやろうか? お前を、いま、ここで。
 いいえ、足りない。殺したって、足りない。

「リッちゃあん、たすけてえー」
 そこではっと現実に戻されて、私は冷蔵庫のドアでも閉めるみたいな気持ちで母の部屋の戸を閉めた。

 泣きつかれて眠ってしまうまでずっと、幻の娘に助けを求め続けていればいい。

 あんたなんか、大っ嫌い。仕事に行っている間にぽっくり死んでくれたらいいのに。

 せめて気分を入れ替えようと、通りに面した窓を大きく開けた。
 外からぬらりとした排ガス臭い温風が侵入してきて、私の神経をまた逆撫でてくれた。

 翌朝にはやっぱり母は何も覚えていないようで「なんだか頭が痛いから」と起き上がることさえ拒否した。それならそれで構わない。今日はデイサービスも通院もないし、餓死でもなんでもすればいいのだ。

「冷蔵庫の食材は全部管理していますから、勝手に飲み食いしないでくださいね。あんたの分は一番手前に置いてありますから」
「分かってるわよ」

 古ぼけた布団から首だけ出して母が仏頂面で答えた。まぶたがパンパンに腫れているのに、本人は気づいているのだろうか。
 気づいたところで、まだらにボケたその頭でどんな理由が思いつくのかは知らない。

「今日も遅くなるかもしれないけど、絶対に余計な面倒、かけないでね。あんたなんか受け入れてくれる老人ホームも見つからないんだからね」
「うるさい子だね、遅刻するんでしょ、とっととお行き」

 老いさらばえて何の役にも立たないくせに、口だけは母親ぶりやがって。
 フンと鼻を鳴らして踵を返した私を、認知症の母親が呼び止める。

「ねえ、律子」
「なによ!」
「その口紅、ちょっと紅すぎやしない?」

 耄碌しているくせになんて目ざとい女だ。私は溜息の代わりに、真新しい口紅をにっこりと吊り上げてみせた。

「よく似合うでしょう。ディオールの、新作」
「紅すぎるよ。律子にはもっと地味な色の方が似合う」「もう寝ているしかすることない誰かさんと違って、私には大事な仕事があるの。あんたよりずっと奇麗で優秀だから。じゃあね!」
「紅すぎるよう」

 恨みがましい声を引きずるように汚物の臭いの染みついた部屋に響かせて、老婆がねっとりまとわりつく視線を投げている。私はディオールの口紅で笑って老婆を部屋に閉じ込めた。

「あれ庵野さん、今日お出かけでもあるんですか」
「ないけど? なんでまたそんなこと」
 目を瞬いている堀くんに手短にそう答える。

「じゃあ何かいいことでもありました? なんか雰囲気明るいですね、今日は」
「やだな。それじゃいつもは陰気だって言ってるようなもんじゃないの」

「ち、違いますよ、そういう意味ではないです、断じて。断じて!」
 慌てて堀くんが顔の前で丸く柔らかそうな手のひらを振ってみせた。ついでに顎のあたりに余った肉がふるふると揺れている。

「分かってるわよ。さ、今日も仕事をしましょう!」
 そろそろ長い休みがやって来る。学生たちは旅行や里帰りの予定を立てて皆足元が浮き立っている。

 じりじりと夏が盛る。
 まだ午前中だと言うのに外はけたたましい暑さが荒れ狂っていた。雲もいつの間にか高さが出てきて、あれが夕方になると何故か雨を降らせてくるので油断もならない。

 今年に入って何度か東京でもゲリラ豪雨が発生していて、そのうち二度ほど私は濡れ鼠になっているのだ。

 予測が難しいから、なんて言うけど怠慢だと思う。そんなこと言ったら犯罪だって突発的に起きるんだから、予測は遥かに難しいはずだ。それなのに市民は早く捕まえろ間違えずに捕まえてとっとと処刑せよと、まくし立ててくるんじゃないの。

 早く殺せというくせに、冤罪だったら手のひらを返して非難してくる。
 迅速にかつ絶対に適切に、人の心を腑分けしろと。
 なんという無茶振り。

 でも。
 華やかさとは無縁の、この仕事が私は好きだ。防犯のためネックレスひとつ付けられないのでせめてもの抵抗として誕生石のルビーをあしらった小ぶりの指輪をつけて、そろそろ通い慣れてきた法務センターの面接室へ。

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