四、あなたの声に心はひらく②

 面接の中で出てきたペトロフのラ・カンパネッラが、今になって手に入った。海外からの船便で届いたので時間がかかったのだ。
 早速そのCDを掛けながら私は彼の鑑定書を書く。

 はじめて聴いたペトロフの音色は確かに他のピアニストとは違っていた。私も若い頃、クラシックピアノをやっていた。と言っても全く才能のある生徒ではなくて、ひとつもものにはならなかった。いつも発表会映えする曲を練習させられた。ショパンの革命、ドビュッシーの月の光、シューマンのトロイメライ……どれも背伸びをしすぎて、散々な結果に終わったのを思い出す。

 リュシエンヌは音楽学校なんかではなかったし、どちらかというと進学を重視した教育だったように思うが、なぜかほとんどの子がピアノを弾けた。私は弾けるうちにも入らなかった。中学で入学した時にはもうベートーヴェンの月光ソナタをやっている子がいて、驚いたものだ。
 本当に弾けるのかと疑ったら、校内のグランドピアノで披露してくれた。あの学校には生徒が自由に弾いていいピアノが食堂や待ち合わせ室に無造作に置いてあった。無断で触って怒られるのは、礼拝堂のオルガンと、音楽室のグランドピアノだけだった。

 万堂のピアノは独学だと言っていた。私からすると信じられない話だが、稀に専門の勉強をしなくても弾ける人間はいるというからそうなのだろう。
 私はカンパネッラなんて、譜面を見ただけで寒気がしてくる。

 ペトロフのカンパネッラはゾクゾクするような魅力を持っていた。速くて正確なだけでなく、根底に知性のようなものを感じさせる。ラ・カンパネッラは鐘の音。鳴り響く教会の鐘を模したロンドが、甲高く美しいだけでなく、賢いと感じたのは初めてだった。

 単純にペトロフがそういう奏者なのか、それともこれを薦めた人間への評価が反映されたのかは自分にも分からない。
 彼の言う通り、低音が普通のピアニストより明らかに重い。それでいて高音は降り注ぐ光のように一音一音がくっきりと縁取られて、突き刺さる。
 こんな風に弾けたらピアノの練習もさぞかし楽しいだろう。

 私はハッと気がついて、真っ白なままの文書作成画面に目を向ける。
 万堂の鑑定書は一行すらも進んでいなかった。

 一睡もできずに、鑑定書もたった二行しか書けずに、朝になって体調不良で欠勤の旨連絡を入れた。それともう一箇所、急遽連絡を入れて無理を通す。希望は案外すんなりと通すことができた。

 あれ、今日はお一人なんですねと顔なじみになったセンターの職員に言われた。
「鑑定書を書いていて、急にどうしても分からないことが出てしまったので」
 と苦笑した私に、人のいい彼は同情と尊敬の入り混じった視線を向ける。

「大変なお仕事なんでしょうねえ」
「仕事はどんなものでも大変ですよ。あなたも大変だったんじゃありません? 万堂は」
「はは、まいったなあ」
 などと短く刈られた後頭部に手を当てて上機嫌に彼は言う。

「でも明日で移送ですからね。今日来ていただいて、よかったですよ。最後のチャンスってやつです。それに万堂も、来た時には手を焼いたんだけど、すっかり大人しくなった、って皆言ってます。先生のおかげじゃないかって噂になっているんですよ」
「私?」

「ええ。鑑定と言うより、なんか心理療法みたいな感じで落ち着いたのかなあ、って。本当に丁寧に鑑定してくださって。まったくもって万堂は良くなりましたよ。これなら更生するんじゃないかと思うんですけどまあ……」
「だといいですね」
 短くそう答えて、私はじっと彼の目を見つめる。

「あのところで実は、折り入ってお願いがあるのですが……」
「え、なんですか」

 法務センターでの私の評判が良いというのは嘘ではないのだろうと思う。私の無茶な「お願い」は思いのほかすんなりと聞き入れられた。
「大丈夫。今日、ここに来ていることも堀くんは知りませんし、それに……外で控えていていただければ問題ないと思うんです。私と彼の間には一種の信頼関係が出来ていますから、危ないことはないはずです」

「……いやしかし。ほんとに、困った先生だなあ。じゃあ絶対に他言無用でお願いしますね、私も処分されてしまいますから」
 ひょいと肩をすくめた彼に私は深々と頭を下げてから入室した。

「ありがとうございます。このことは、私たちの秘密に」

「分かりました。何かあったら大声を上げてください。すぐ入室しますんで」
 そう言い残して彼は収容棟の方へ足早に遠ざかってゆく。

 私は高鳴る心臓を落ち着かせながら、安っぽいいつものテーブルの上に資料とペンと、それから音楽再生機とを並べて待った。

#創作大賞2025 #ホラー小説部門 #精神鑑定人のアリア

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