二、私のお母さん④
私の仕事はいつも、疑問から始まっている。
この人は一体何を考えているんだろう。
ほんの小さな疑問から興味が自然に広がって、研究につながる。
そういう意味でこの男は、万堂哲人は非常にやりやすい仕事相手だと言えた。
疑問や興味が無尽蔵に湧いてくる。
この男、どんなことを考えているのだろう。どうして殺したんだろう。それともまさか、本当に犯人は別にいるのか。まだよく分からない。喉が鳴る……。
「何見てるかと思えば、あいつの経歴ですか」
もう暗記しているでしょそれ、なんて堀くん呆れた声を掛けてくる。どっこいしょ、と言いながら堀くんは対面の席に座り、ずんぐりした身体が半分紙束の山の向こうに消えた。学生たちに提出させたレポートの山だ。いい加減評価をつけてやらないといけないことは、分かっている。
「そうね、そろそろ暗記しちゃうかも」
万堂は実に優秀で器用な人間であるらしい。
「これ見て。小学校の指導要録」
手を伸ばしてヒラつかせたコピーがレポートの山に吸い込まれた。
我が国の教育について憂える意見はよく聞くが、実際こうして犯罪者の過去のデータを取り寄せると驚くことの方が多い。本人さえ忘れているような小学校での生活がまざまざとよみがえるほどに、きめ細かい記述が見つかることも少なくないのだ。
まさか教員の方もこの子どもが将来重大な罪を犯すことなど予見しているはずもないから、どの子どもにも同じくらい丁寧に指導をしてそれを記録に残しているということなんだろう。
幼少期からの生活記録というのは、心理職にとっては宝の山だ。一般の目に触れることはないが、これがあるのとないのとでは、人間理解に大きな差が出てくるものだ。
時々犯罪者の指導要録を見て、はて私の要録には何が書かれていたのだろうと思うことがある。無論、興味本位で取り寄せることなど出来はしないが。
「成績優秀ですね……気持ち悪いくらいに」
堀くんが感心したのか呆れたのか分からないトーンで続ける。レポートの山に阻まれて表情がまったく見えないのだ。
「こんなヤツ、クラスに一人はいましたよね。優等生と言うか、何やらせても卒なくこなす子ども。異常に要領がいいんでしょうね、簡単に言うと」
「勉強がまんべんなくできる子はよくいるけど……万堂はおよそ弱点というものがないみたいね。運動科目も芸術科目も最高点、欠席もないから健康状態も良好だったんでしょうね」
「その上あのツラとか、完璧じゃないっすか」
そう完璧。まさに模範児童といったところだ。
ギギッと堀くんの椅子が鳴る。のけぞって、代わり映えのしない天井でも見つめているのか。私は堀くんが白目を剥いているのを想像した。
「私は美術がダメだったわね。絵が全然描けなくて、普通に描いてるつもりなのに前衛芸術みたいになっちゃうのよ。なんなのかしらね、あれ。今でも不思議なんだけど」
「芸術が爆発ってやつですね! 俺は運動がダメだったなあ。逆上がりとか、何度やっても上がらないんですよね。一週間居残りさせられましたけど、無理だったんで最後は教師が諦めましたよ」
あはは、と紙束の山が声を上げて笑ったように見える。
「誰にだって何かしら一つは苦手科目があるものよね。それが、普通。でも万堂は違った。普通じゃないのよ」
「でも出来すぎるからって普通は犯罪者には、なりませんよね」
「で、これ見て。中学の要録」
「どれどれ」
またレポートの向こうにコピーが消えていった。
「え? これ本当に万堂の記録ですか?」
ガタンと音を立てて立ち上がってようやく見えた堀くんの目玉が眼鏡越しにまんまるに見開かれている。
「間違いないと思うけどね」
まるで別人のように成績が落ちて、出欠にも乱れが生じている。
「だとすると……中学で何かあったということですか?」
「そう。何かが」
出来すぎるほど出来た模範児童に一体何があったというのか。指導要録からそこまでは読み取れなかった。
でもきっとここに糸口がある。私の精神科医としての蓄積した経験が、クツクツと喉の奥を鳴らした。
堀くんが立ったまま、気味悪そうにあるいは気の毒そうに、私を見下ろし
ていたけど湧き上がる笑いを止める術はなかった。
※
「午後からの面接は初めてじゃないかな、センセ?」
「そうかもね。じゃあ、こんにちは。ということで」
何故か今日は万堂の機嫌がよかった。理由があるのかないのかも、私にはまだ分からない。
万堂は行儀悪く片脚を揺らしながら、身体を斜めに座っている。長い脚を持て余しているとも見えるが、これは警戒か。機嫌の良さとは一致しないボディランゲージ。相変わらずお奇麗な顔面には余裕を浮かべている。
「小さい頃の話を聞かせて」
「小さい頃?」
わずかに万堂の眉がヒクついた。
「あなただって小さい頃くらいあったでしょう。どんな子どもだった? ううん、まずはそうねえ。一番古い記憶を教えて?」
万堂は無表情のまま天窓から差し込む光に視線を転じた。待つ。万堂が口を開いた。
「僕、あんまり昔の記憶がないんで」
「またまた。なんでもいいのよ。なんなら作り話でも、かまわないわ」
「いや、ほんとに。僕には幼少期の記憶はほとんど、ない。いくつかないこともないんだけど、それが本物の記憶だという実感はない。なぜなら、僕の記憶の中に僕自身の姿が入ってしまっているからだ」
明解な説明だった。
「それを、あなたはおかしいと感じるのね?」
万堂はまっすぐに私を見つめ返した。とても嘘を言っているとは思えない眼差し。加えて言えばこの内容の嘘をつく理由も今のところ私には見当もつかない。
「おかしいですよね? 本物の記憶なら僕には僕は見えていないはずなので。鏡に写っているとかならまだしも、幼少期の僕らしき子どもを、見ている誰かの記憶。これは明らかにおかしいでしょう。おそらくこれは僕の記憶ではなくて、写真か何かを見て作ってしまった偽の記憶ではないかと思っている」
「他の人の記憶はないの? お父さんとかお母さんとか」
「そのファイル熟読してくれたら分かると思うんだけど、僕には父親がいないんだよね。父親と思っていた人ならいたけど」
万堂にとって祖父は「父親と思っていた人」に当たるということが、これで分かった。
「いつ彼が父親でないと分かったの?」
「小学生の時にはなんとなく気づいてたね。あの人は姉にしちゃ年が離れていたし、あの人たちは親にしては年寄りすぎる。同級生のいう祖父母という人から僕はお年玉をもらったことがない。当然会ったことも、話で聞いたことも、なかった」
「なるほど」
坦々とこなされた、その説明も的確だった。
「確信を持ったのはいつなのかしら」
「それは中学生になってからですね。相次いで、祖父母が死んだので」
「遺産相続?」
「ザッツライト」
お道化た口調で答えてみせる。口の端が左右不均等に歪んでいた。
とすると、これが成績不振の原因だろうか。
思春期のちょうど「よくない」時期に出生に関する真実が明かされてしまった。実の父母ではなかった養父母たちが相次いで亡くなっているその時に知るには心理的負担が大きかったか。
「それであなたは、どう思った?」
「どうって別に……ああやっぱりな、とくらいしか」
急にナイーヴな少年のように万堂が目を伏せた。この人のまつ毛はやたら、長い。黒いアゲハチョウの吸い口のように繊細で痩せた頬に弱く揺らめく影を落とす。
「それで嫌になってしまった?」
「え? 何が?」
顔を上げた瞳は傷ついたようにキラキラして見えた。
「お母さんが」
「…………」
短い沈黙を差し挟んで、彼は低く答えた。
「それはその前からでしょうね」
「前から? それじゃお母さんより、お祖母さんの方が好きだった?」
一歩踏み込んだ質問に、ハッと強く息を吐き出して万堂が表情を崩した。
「そういう言い方だと誤解を生みそうだな。そもそも僕はあの女が嫌いなので、祖父も祖母もそれよりはるかにマシだというだけの話。好きか嫌いと訊かれたら、誰のことも全然好きではないでしょう」
「へえ。奇遇ね。私もだわ」
本心からそう相槌を打ったら、万堂と堀くんが同じ目をしてこちらを向いた。私はぷっと軽く吹いて天井を見上げた。見慣れた私の研究室のより新しくて開放感のある真白い天井。
「ねえ、万堂くん」
「なに」
「あなた人を好きになったことある? 女でも男でも、とにかく自分以外の誰かを」
「ないね」
と彼は即答した。私は自分でもはっきりと分かるほどいい気持ちで微笑んだ。
「それは結構。私たち、理解し合えるかもしれない。無論あなたが協力してくれたら、だけどね」
万堂は無表情にスキャンするみたいな目で私の顔をじろじろと見つめた。もともとこの人はひどく無遠慮な視線を持っているけれど、今まででいちばん長い時間、私の顔を見つめ続けた。
そして。
たっぷりした空白の後で万堂が答えた。
「ナメたこと言ってんじゃねえぞ、精神科医ふぜいが」
どこから出しているんだと思うほど低く押し殺した声で、ギラついた目玉が燃えているように見えた。
「僕は誰にも理解されないし、理解しない。よく覚えておけ」
蛇のように真っ赤な舌がチロチロと覗く。でもここで怯むわけにはいかなかった。ここでナメさせたら、終わってしまう。
逆に言えば、今この反応を返したということはこの男は、私が怖いのだ。
過剰防衛。心理的な。
だから踏み込む。相手は繊細な少年なんかではない。この男は卑劣な犯罪者。そして私は。
「ごめんなさいねえ? あなたを理解して分析するのが、私の仕事なのよ。プロフェッショナルとして」
ガンッ、と机を叩く大きな音がしてすぐ目の前に蛇の瞳が圧しつけられた。
「庵野さんっ!」
堀くんの声が聞こえて、法務センターの職員が何か言ってこっちに来ようとするのをまだ辛うじて自由な左手で制した。
「イキってんじゃねえよ、女のくせに」
ハッと吐いた生暖かい息が顔にかかった。意外と不快感はなかった。
「ほんとはビビってんだろ。目ぇカッぴらいてんぞ、あァ?」
「おい万堂! 離れろ!」
堀くんと職員とどちらの声だか聞き分けられなかった。
万堂は私に触れようとはしなかった。身を乗り出して圧を掛けてくるだけだ。そもそも彼には腰紐がつけられていて、滅多なことはできないことになっている。
それでも爛々としたその目だけで、ここまで脅して来られるわけか。
殺人者の、目。
私は見たことがある。確かにこの人は殺しの色の目をしてる。
なんとも言えない、いい色してる。
文字通り釘付けになる。
殺人者の目ってね、意外と濁りのない奇麗なものよ。
近くで見ると呼吸すらおぼつかなくなる。
「あの女たちにしたみたいに、してやろうか、今ここで?」
首筋にまとわりつくように囁く声に、私はようやく言葉を返せた。
「熟女もイケるクチとは、知らなかったわね」
ハン、と鼻で笑って万堂がようやく椅子に座り直した。物理的に開いた距離の分だけ、私の呼吸が楽になる。
「熟女って普通、色気のあるオバサンに言うもんだろ。まあ色気があろうがなかろうが、僕の趣味じゃないけどね」
ほっとしたのが私だけでないのが、はっきりと分かった。部屋の空気が一瞬で安堵に変わる。万堂がくるりと後ろを向いて、堀くんに向かって笑いかけた。
「ねえ、もしかしてまァた引っかかったの? アハハハハ! 僕ってそんなに怖いかなあ? 何度も言っているんだけど! 僕、本当にやってないからね? 東京ロングヘア殺人の犯人は、僕ではありませぇん!」
ギャハハハハ、と場違いな笑い声を上げる万堂を堀くんが眼鏡越しに強く強く、燃え盛るような目を向けていた。
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