五、見よおそろしい炎を①
あらかじめ署名捺印された宣誓書を渡されて、読み上げるよう言われた。
私は起立したままはっきりとそれを読み上げた。
「わたくし、庵野律子は。良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、また、偽りを述べないことを誓います」
鑑定人として私が証言台に立つことになったのは、尾を引くような残暑がようやく立ち退きはじめ、青い空に強く風が吹く頃合いになってからのことだった。
万堂哲人は本当に、弁護士をつけずに刑事裁判に臨んでいた。
調書によると彼は法学を学んだことはないはずだった。それでもここまで見て来た限り、彼は法律とそれにまつわる用語を充分に理解しているようであった。少なくとも素人目に見て、裁判の進行を妨げるようなことも、また慌てふためいて失笑を買うようなことも、一度もなかった。鑑定人として出廷した他の裁判でのプロの弁護士たちの様子と引き合わせても遜色がない、と言ったら身内びいきと笑われるだろうか。
私はどうしても彼を見届けたくて、ここまで毎回、裁判を傍聴することに成功している。無論仕事は休んで。
傍聴席にはいつも場違いな若い女の子が並んで座っている一角があった。法廷の傍聴に必要ないほどひらひらした服を着て、明るい色のアイシャドウなんか塗って、時には被告人席に向かって小さく手を振る者までが、いた。毎回同じ顔ぶれではなかったようだが、中には全出席の強者もいるかもしれない。
とうとう今日は私の鑑定に関する審議が始まる。
おそらく法廷は初めてのはずの万堂よりも、私の方が緊張しているくらいだ。
「庵野さん。この鑑定書、とっても分厚くて……読むのが大変だったんですが。要点を私なりにまとめてみましたが、確認させてもらっていいですか」
「はいもちろん」
検察はいかにも神経質そうな縁なし眼鏡の男。この人のことも、公判の間じゅうよく見てきた。頭は悪くなさそうだが、融通に欠けるタイプ。真面目で仕事熱心、予定外の事態は好まない。神経症や鬱に罹りやすい男だと思った。
一日に何回手を洗います? 電車のつり革を汚いと感じたことは? 誰か他人を許せないと思ったことはありませんか。
「最も重要な点を抜き出せば、被告は二重人格であって、彼ではない彼が犯罪を行っており、彼にはそれを認知することも止めることも不可能であったと。そんな風に読めてしまったのですが、間違いは?」
「ひとつ、訂正を。二重人格という語は正確ではありません。医学的に彼は解離性同一性障害と診断しました」
「ああ失礼、解離性同一性障害、でしたね。すみません、医学には疎いものでして。一般的な二重人格、多重人格とそれは、どう違うのですか?」
明らかに裁判員を意識した言葉だ。私は一語ずつ明瞭に言葉を継いだ。
「二重人格、というと有名なジキルとハイドの小説やヒッチコックのサイコのように、こう、天使と悪魔が一人の人間の中で入れ替わっているような印象を持たれる方がいるような気がするのですが、少なくとも彼の場合にはその印象はありません」
「と、言うと?」
「ある時突然意識が他人に乗っ取られる感覚、と言うとイメージしやすいのではないでしょうか。彼自身には制御できないはずです。全くの別人が乗り移ったように、彼の意識を押しのけて……眠らせて、とも言えるかもしれません、彼の身体を勝手に使ってしまうということです」
「眠らせて勝手に別人が乗っ取る? 夢遊病みたいですね、それは!」
検察官は大仰に声を上げて見せるけれど、私は冷静に受け答えた。
「解離性同一性障害は精神疾患ですから。それも極めて、やっかいな」
「一般論に戻しますが……解離性同一性障害というのはその、よくある病気でしょうか? 私は親戚、友人、さらには他の事件の被告にも、一度も、聞いたことがないんですが」
「よくある病気とは言えないと思いますが、そこまで稀な疾患でもないのかもしれません。たとえば統合失調症なんかは生涯発病率は〇・八パーセントとも一パーセントとも言われていますが、それに比べたら発病率は低いでしょう。しかし」
ちらりと私は裁判員席に視線を投げる。
ここはよく聞いていてほしいんだけど。
「誤診の問題が、あります。この病は現状、広く認められているとは言い難く、たとえば統合失調症の中にこの患者が含まれているということは、往々にしてあると考えます。統合失調症の方が遥かに、発病率が高いので」
「統合失調症と似ているんですか?」
慎重に私は言葉を重ねる。傍聴席に今日は堀くんが来ていた。堀くんはじっと私に視線を合わせて、膝の上で両手をぎゅっと組み合わせて握りしめていた。
「そうですね。統合失調症患者の中には、身体が乗っ取られるだとか、頭の中で声が聞こえる、したくもないことをさせられる、と言った訴えをする方がよくいます」
「じゃあ被告もそれかもしれない、とは思わなかったんですか?」
「いえ。統合失調症ではなさそうですね。幼少期から、記憶が途切れるという訴えがありました。また、少なくとも一人、別人格がいてその人格は固有の名前を持っています」
「その名前とは」
「テッド、というのだそうです」
「テッド!」
口の端をひしゃげさせて、検察官は繰り返した。鑑定書を読んでいるならとうに承知のはずなのに。
「ニックネームか何かですかね? どうも私には日本人の名前に聞こえないんですが!」
「解離性同一性障害の別人格が主となる人格と違った国籍や性別を持っていることは、よくあることなのです。これは海外の報告例ですが、主たる人格者の学歴や経歴からは知るはずもなかった異国語をやすやすと操る患者というのがいました。彼はアメリカ人として生まれ育ったはずなのに別人格になると完璧なイギリス英語を操り、しかも学習しなかったはずのアラビア語の読み書きができた、ということです」
そうだあれはアラビア語でよかったはず。私は付け焼き刃の知識を披露しながら心臓がばくばく言い出して止まらない。論文なんかじゃなく、拾い読みしたのはビリー・ミリガン本だ。あまり詳細を突っ込まれるとマズい。
「よくあるんですか? 二重国籍どころの騒ぎじゃないですね! ではそのテッドさんはアメリカ人、それともイギリス人? もしかしてアメリカ系インド人とかパキスタン人とか、そんな可能性もあったりするんですか」
全然違うところに突っかかってこられて、私はほっと胸をなでおろす。もちろん仕草にも顔にも出さないように、だ。
取り澄まして、自信たっぷりに見えるように。今は好感度や心証を気にしている場合ではない。専門家らしく見えればいい。
私の鑑定書が重視してもらえるように。
「分かりません。だいたい、テッドに名字があるかどうかも私は知りもしません」
「名字が、ないんですか!」
またひどく驚いたように額に横皺を何本も走らせて検察官が言う。こいつもたいがい芝居じみているが、職業病か、それとも人格障害か?
人前でここまでのパフォーマンスができるなら、慣れでなく資質とみた方がいい。演技性人格障害か、それとも境界例の方かも?
「それも解離性人格障害にはよくあることだと思います。名字まであるのは、主人格クラスの人格だけでしょう」
「そもそもなぜ自分で名前だの国籍なんかを決めてしまえるんだか分かりませんが……なんだか不思議な病気ですね。ほんとに、そんな病気があるんですか?」
「それは、ありますよ。医学書にも、DSM……失礼、精神疾患の分類と診断の手引というガイドラインにも記載のあるれっきとした疾患ですね。解離性障害の中に分類され、解離性健忘、解離性遁走、離人症性障害、そして解離性同一性障害があります」
「勉強にはなりますが、裁判員の皆さんが混乱しますから、ペダントリィは控えめにお願いします」
堀くんが何か言いたそうに口を動かしている。
「この鑑定書によりますと。えーとその、テッド? ですか、その別人格がやったことでそれは被告の意志とは無関係だったとのご見解ですが、根拠をわかりやすく簡潔に述べてください。手短に」
「それは幾つかありますが、私が一番注目したのは……あの、性指向の問題です」
「と、言うと?」
「鑑定書にも書きましたが、テッドはゲイだと思います。だけど、万堂哲人氏は異性愛者なんです」
「はあ」
分かったような分からないような顔で検察官が先を促す。
「もしもこの強姦殺人が万堂哲人氏の犯行なのだとしたら……精液が検出できなかったことは不自然だと、思うんです」
「いや、そしたらゲイのテッド? が婦女暴行している方が不自然なんじゃないですか?」
「私はアメリカで数多くのセックス殺人を学んで来ました。性欲が由来のセックス殺人はほとんどの場合、生前であれ死後であれ、被害者との性交が見られます。この事件では擬似的性交として異物が突き立てられてはいますが、性欲が由来の犯行には私には見えません」
「じゃあなんだと思うんですか?」
「女性への純粋な怒りでは? この犯罪にはミソジニー的な色彩を感じます」
「ミソジニー的色彩? 具体的に言うとどういうことですか。裁判員の皆さんや私にも分かるようにお願いします」
「犯人は女嫌いだと言っているんです」
眉を顰めて検察官が口を開いた。
「万堂哲人はゲイでもなければ女嫌いでもないと?」
「はい、そう思います」
言い切った私に検察官は失笑を寄越した。
「そりゃあんたの願望だろう。あんた、万堂に個人的興味があるんじゃないのか」
私が口を開く前に万堂が静かに声を差し込んだ。
「裁判長、異議でお願いします」
「あー……異議を認めます」
「はいはい、撤回しましょう!」
肩をすくめてそう言いながら、検察官は私を睨みつけた。
「ここは専門家と議論をするための場ではありませんでしたね。大事なのは犯罪についてだ。やったのかやってないのか、それだけですよ。最後にひとつ、確認させてください」
同感だ。私は黙って頷く。
「アメリカでなく日本でのことを答えてくださいね。庵野さん、あなたは精神科医としての長く素晴らしいキャリアの中で、他に多重人格……ええと失敬、解離性なんとか障害の患者を見たことがありますか」
「解離性同一性障害」
「そうそれ。被告以外に誰か一人でも、この疾患の患者を実際に、診察したことがありますか、と訊いています」
私はぎゅっと口を閉じてから、なるべくはっきりとこう答えた。か細く聞こえないように。堂々として見えるように。
「ありません」
「以上です、裁判長」
勝ち誇ったような笑みを浮かべて、検察官が身を翻した。
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