二、私のお母さん⑨

「今日は出張することになったから」
 無理かなと諦めかけていた人物とのアポが取れたので、急遽予定を変更して会うことになったと伝えると、堀くんもついてくると言ってくれた。

「無理しなくていいのよ。今日すぐの出発だから、私一人でも」
「万堂がらみですよね、それ。俺も興味あるんで、行きます」
「連絡がついたのよ、ついさっき。彼の母親と」

 ひゅんと息を呑む音だけが聞こえた。私だってきっと会ってもらえないと思っていたから気持ちが分かる。

「そんなの絶対行くに、決まってるじゃないですか。黙って行かれたら俺、ちょっと恨んでたかもしれない」
 堀くんは黒縁の眼鏡の奥からじとりと私を睨みつけて口を尖らせた。

「そういえば堀さんのお母さんってどんな人?」  
 万堂の母親が経営しているスナックへと向かう車窓を眺めていたら、ふとそんな話もしたことがなかったなと気がついて口を開いた。

 立ち並ぶ街路樹もこの季節だけは勢いづいていて、元気そうだ。そろそろ行政の金で刈り込まないと信号に葉がかかるんじゃないのか。
「ええなんですか、急に」

 困ったようにあるいは若干嬉しそうに、堀くんがハンドルから左手を外して軽く頭を掻いた。
「俺んとこは、その、なんていうか普通です。ごくごく平均的な普通のカーチャンですよ」

「あなたも心理職なら分かるでしょ。普通とか一般とか、そんな家は日本中どこにもないわ。皆それぞれ何か問題があるもの。それが、普通よ」

 人間の心理的発達に母親がもしくはその不在が、多大な影響を及ぼすことは分かっている。何ひとつ問題のない完璧な母親も教育も存在しない。子どもが完璧でなく普通でないように、母親もまた完璧でもなければ普通なんてことは、あり得ないのだ。

「まいったな、もう」
 万堂の実家は東京の郊外にあった。急な出張が決まっても、すぐに動ける距離だったのがありがたい。

 その分、車窓が代わり映えもしないというか、どこかで見たことがありそうな住宅ばかりが続いて面白みにはかけているが。

「うちはどちらかと言えば、放任主義だと思います。忙しい母親だった上、俺、三人きょうだいの真ん中で」
「上はお姉さんかしら?」
 堀くんは赤信号で停まると、チラリとこっちを見て苦笑いをした。

「ですね。三つ年上の姉ちゃんと、ひとつ下の妹と。二人ともうるさいんで、俺は完全に気圧されて育ちましたね」
「三つ上のお姉さんが権力者だった?」

「それに加えて、妹がしっかりというかチャッカリした性格で、二人が完全に結託していたので。俺はなんていうか、ミソッカスみたいな感じになっちゃってましたね」

 あはは、と軽く笑って発進する。近くにJRの駅があるせいか、こんな時間でも交通量が多く私たちはちょくちょく信号機で足止めを食らった。
 チェーン展開しているラーメン屋とカフェと弁当屋が三軒仲良く並んでいる。道路の反対側には白いスーツの有名なお爺さんが笑顔でチキンの筒を抱えていた。もちろん像が、の話だ。人じゃない。

「これだから男は、って言われるパターンね」
「あっ、それ、ほんとよく言われましたね。それ言われちゃうと返す言葉も、ないんですよねえ」

「お父さんは大人しくて影が薄いタイプかしら」
「典型的ですよねぇ!」
 ははは、と朗らかに堀くんは声を上げた。一家の家計を支えているはずなのに影響力も頭頂部も薄い小太りのくたびれたオジサンを想像してしまった。

 うちといい、堀くんのところといい、どうして日本人男性というのはこうも家庭で存在感すら持てないのか。ほんの数十年前まで家長だなんて威張っていたとは信じがたい。いやきっとそれすらも幻想だ。あのソクラテスだってクサンチッペには頭が上がらなかったではないか。現代女性の立場から言わせてもらえば、彼女は悪妻なんかではない。どちらかというと、ソクラテスの方が偉大なるプー太郎だったのだ。そりゃ誰だって水くらいぶっかけたくもなるわ。

「でもきょうだい仲も、親子の関係も悪くはなかった?」
 堀くんはあっさりとそれに同意した。
「今でも姉ちゃんや妹と連絡取り合いますし、母親に至ってはしょっちゅうダンボールに小包なんか送ってくるんですよ。要らないって、言ってるんですが」

「いい家庭ね」
「……すみません」
 本当に済まなそうに頭を下げて、堀くんは気の毒そうな目を向けてきた。

「あっ、ほら信号。ちゃんと前見て運転してちょうだい」
「ああ、すみません……」
ブレーキを踏んで、ふうと息をつくと堀くんはハンカチをポケットから出して額に押し当てた。

「だけどそんな風だから、俺には『彼ら』のバックボーンが本当には理解できないでいる気がします」
 それは私に対するフォローなのか本音なのか、いまひとつ判断がつかなかった。

「俺には万堂の家庭は全然イメージがつきません。年は同じだけど、共有できるものが少ないと思います。彼だって俺に色々訊かれたところで、答えたくもないでしょう」

「だから話しやすいように、私が作り話をしたとは考えないのね」
「……とても嘘には聞こえませんでしたよ」
 引きずるような声で堀くんは静かにアスファルトの上を進む。

 まだ外はうんざりするほど暑いけれど、太陽が斜めに傾いで照らしている。この速度でしか進めなくても、スナックの開店前には充分間に合うだろう。

 最近は日が長くて、夕方がいつなのかよく分からないくらいだ。六時七時まで表は明るい。それに比例するように、東京の夜の気温は右肩上がりだ。あの蒸し器の中に入れられたみたいなまとわりつく夜風。じめっとして、息苦しい。

「どんな人かしらね、彼のお母さんは」
「さあ」

 それだけ言って堀くんは黙った。私と同じ先入観を持たせたくないから敢えて話さなかったけれど、おそらく万堂は私のようには母親を憎んではいないはずだ。口ではどう言っていようと、心理的事実がそれを語っている。

 ピアノは万堂と母親をつなぐ臍帯のようなもので、万堂は明らかにピアノを愛している。本当に母親を憎んでいるというなら、ピアノも大嫌いなはずなのだ。

 私が母親を憎むあまり、リュシエンヌやそれに続く長い階段、必修だったフランス語まで毛嫌いするように、ピアノやクラシック音楽など聴きたくないという方が自然な心理だと私は思った。
 ピアノは好きなのだ。そこに、愛着が見てとれる。

 それに。
 万堂哲人にはクラシックピアノがよく似合う。

 私は黙ったまま流れる住宅街の街灯になんとなく目を移す。まだ明かりのつかない街灯は、きっちり等間隔に並んで黙々と続く。その下を一定速度で通過していくと、変な圧迫感があるなと感じた。

 同じものがどこまでも出ては消え消えては出てくる。機械的で気味の悪い街並み。かといって一本一本違う形の街灯が並んでいたら、余計に気持ち悪いのだろうけれど。

 ふと、万堂がピアノを弾いているところを見てみたいと思った。彼の指が錆びついて、鐘の音を模したパッセージを鳴らせなくなってしまう前に。

#創作大賞2025 #ホラー小説部門 #精神鑑定人のアリア

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