四、あなたの声に心はひらく④
急いで帰宅して、万堂の面接音声をすべて一から聞き直した。
ギャハハハ! 耳障りな笑い声。よく聴くとこの笑い声の万堂だけ、声のトーンが若干低くて太い。注意していなければ分からない程度に、微妙な差異がある。
「これがテッドだと言うの?」
だとしたらテッドはそうとうに巧妙な男だ。
そうと思って見なければ、万堂哲人に見えてしまう。万堂哲人自身も決して日頃から素直な善人タイプではないせいで、哲人本人の揺らぎとして見過ごしてきたが、言われて見れば時折凶暴な顔がチラついている。
「つうかなんだよ、精神鑑定って。僕のこと頭おかしいとでも思ってんのか、あァッ?」
「センセも僕のこと、好きなんだろ? 分かるんだよねえ、僕。ひと目見た瞬間に僕のことを好きになる女の人って、一人や二人じゃないんだから」
「最近の女の人ってババアんなっても頑張って奇麗にしててえらいよね。あんたも四十路にしちゃなかなか奇麗だし、僕も努力したら抱けるかもしれないなあ。努力して欲しかったらもうちょっと色気のある服着てきなよ。ミニスカートでガーターベルトとか。ああそれか、ノーパンでもいいよ、僕は!」
「イキってんじゃねえよ、女のくせに。あの女たちにしたみたいに、してやろうか、今ここで?」
はっきりと判別できたのはほんの数回だった。たった数時間の面接の中でも哲人からテッドに入れ替わった瞬間が確認できた。不自然な長い沈黙の後で豹変しているのが音声に記録されていた。映像にも撮っていたら、もっとはっきりしていただろうに。
自分のふがいなさがここにきて足を引っ張った。
私は彼の暴言や暴力にビビッてなんかいないわよ、と虚勢を張るのに精いっぱいで全く気付いていなかったのだ。
文字通り彼の「人が変わって」いたことに。
してやられたなあと思うのが、初対面の時の対応をしたのがテッドの方だったということだ。そのせいで、その後ずっと哲人と接していてたまにテッドが顔を見せても、私はあっさりと受け流しているのだ。一緒にいた堀くんも違和感は覚えていない。
万堂哲人はこれくらい豹変する男だと、私たちに先入観を植え付けたのだ。初対面のあの数十分の間で、布石を打たれた。これじゃ堀くんに何も言えない。先入観には気をつけろと、ほかならぬ私が言っていたのに。
精神科医が聞いてあきれる。
やってない、やってないと繰り返す以外にもそれらしきことを彼は言っている。
「いや、ほんとに。僕には幼少期の記憶はほとんど、ない。いくつかないこともないんだけど、それが本物の記憶だという実感はない。なぜなら、僕の記憶の中に僕自身の姿が入ってしまっているからだ」
幼少期の記憶がないだけなら忘れてしまったという可能性もあるが、記憶の中に自身の記憶があるというのは確かに、妙ではある。しかし解離性同一性障害だというのなら、もっともな話だ。彼が思っているよりも早い時期にテッドはすでに生まれていたのかもしれない。
あるいは、こうも考えられる。
先にいたのはテッドの方で、今の主人格の哲人は後から生まれた人格。
「なんてこと……」
気づくのが遅かった。
だがこのキーを差し込んだ瞬間、すべての扉が気持ちいいくらいに開いて行ったと感じた。どうしても分からなかったことが次々腑に落ちてゆく。
万堂哲人は、ふたりいる。
陰性だったポリグラフ検査もこれで説明がついた。テッドの犯行を、哲人は何も知らない。知らないなら反応は出ない。当然の結果だ。
ほんものの解離性同一性障害は映画のように分かりやすい真逆の人格なんかではなかったということだ。そんな劇的なものでないから、今も精神医療の現場で議論の的になっている。それが、現実。
この疾患について詳しくもないことが、今さらながらに悔やまれる。すべての疾患に精通することなど無理だったとしても、まさかこんなことがあるだなんて思ってもみなかったから。
私の手持ちのカードは、彼の描いたバウムと録音の中の耳ざわりな笑い声しかない。もっと早く気づいていれば、より多くの具体的な証拠を並べて鑑定書が書けたのに。
明らかに、鑑定人の技量不足だ。私は勉強が足りなかった。
女の幸せをかなぐり捨てて、打ち込んできた仕事のはずなのに。
「お疲れさまです、庵野さん。少しは休憩された方がいいんじゃないですか」
心配そうにこっちを伺ってホットコーヒーを淹れてくれた堀くんにも生返事をして、研究室でも家でも私はキーボードを叩き続けた。何度も何度も聞き返す録音と、ペトロフのカンパネッラ。
私は絶対にこれを書き上げなければならない。
寝不足の額にひと目も気にせず冷却シートを貼って、首の後ろにスカーフで固定したケーキ屋のアイスジェルを巻きつけてでも。
生きてほしい。
違う、生かさなきゃいけない。彼を生かす義務が私にある。
だって無実だったんだから。
真実を知っているのは、私だけ。もう私にしか、彼を救えないのだ。
※
締め切り前になんとか書き上げた鑑定書は今まで見たことのないほど分厚いものに仕上がった。製本する前のラフ原稿を読んでいた堀くんが拳を机に叩きつけた。
「なんなんですか、これは!」
「それが私の鑑定。それ以上でも、以下でもなく」
長い鑑定文を締める結論はこのように書いた。
鑑定主文
一、被告人は犯行時、複雑な出自を背景とした愛着障害から生じた著しく自己中心的・挑発的・反社会的な未熟なパーソナリティによるヒステリー性解離症様精神病を呈していたものと診断される。
二、被告人は鑑定時、引き続き上記状態にあるが、その頻度は極めて稀であり、またその発露も巧妙に隠匿されるため外部から観察し難い状態にあるものと診断される。
「こんな主張が通ると、思っているんですか、律子さん!」
顎に余った肉を震わせて堀くんが目を剥いた。
「でもそれが事実なのよ。私は私の仕事をまっとうしただけ」
「勘弁してくださいよ、なんで急に解離性同一性障害……これじゃ犯行は別人格がやったって言ってるようなもんじゃないですか!」
「そう言っているのよ」
泡を飛ばして叫ぶ堀くんがなんだか一回り小さく見えた。
「んなわけ、ないでしょう。目を覚ましてください、あの男に騙されたんですか?」
「精神科医としての判断です」
よりによって解離性同一性障害かよ、と堀くんが唇を噛んだ。
「俺だってこの疾患の専門じゃないですけどね? 一応あなたと同程度には勉強しましたよ。学会にも二回、出席したことがある」
「だから何」
「本当に解離性同一性障害だったとして、人格はたった二人しかいないんですか? ほとんどの症例では多数の人格が報告されてますよ。二人しかいないという例は俺は聞いたこともないな」
「少なくともあと一人、彼の中に別人格がいるということです。哲人が把握しているのは、彼自身と、テッドの二人。それ以上いるかいないかは、まだ分からない」
「根拠は?」
「バウムテストをしました」
私は例の絵のコピーを見せたけれど、堀くんは片手で払うようにしてフンと鼻で笑った。
「こんなの症例集でも見たことありませんね。双子みたいじゃないですか。よく出来てるなあ? 出来すぎて作り物みたいだなあ?」
「症例集でも見たことがないということは、オリジナリティが高いということでは? 少なくとも、ビリー・ミリガン本見て描いた絵には見えないわね」
私は有名な多重人格本の名を出して反論した。日本でいちばん有名な解離性同一性障害の患者は彼だろう。キイスの本はベストセラーになったし、テレビで特集を組まれたこともあったはずだ。
「そこでどうして宮崎勤と言わないんですか? 国内なら彼のほうが有名ですよね。長い裁判でどうなったか思い出してみては?」
確かにその男は極刑になった。何人もの手で鑑定がなされ、解離性同一性障害との鑑定書も書かれたが、拘禁反応や詐病の可能性も議論され、最終的には犯行時に責任能力はあったとの結論に達した。
彼の場合は別人格らしき女性名の手紙による筆跡鑑定でも、明確な証拠とはされなかったと記憶している。
「あれは最初の鑑定では人格障害としか診断されなかったから……解離性同一性障害の診断は確か、再鑑定の時のものだし」
日本では解離性同一性障害による減刑は例が少ない。注目を浴びた大きな事件では皆無と言っていいだろう。そもそも解離性同一性障害の症例が少ないので、当然の帰結のように私には思える。
「待ってくださいよ。そもそもこの絵。一体いつ描かせたんですか。俺の知らないところで、彼に会ったんですか? それとも律子さんの捏造?」
「そんなことするわけないでしょう! だいたい、私は美術の成績がひどかったって前に言ったわよね?」
「じゃあ、いつ描いたんですか。なんで俺も知らないうちに試験したことになっているんですか、答えてくださいよ、律子さん!」
「……移送直前に、一度、会っているのよ」
「移送直前? 法務センターでってことか……。まさかあの欠勤した日か。あの真夏日の」
よく覚えているもんだ。私は内心舌を巻いた。
「認められません。この試験は無効ですよ」
「試験には問題がなかったわ。不正は、していません!」
「どうだかね」
この試験結果が取り下げられると、とんでもなくまずいことになる。論の根拠がガタガタと崩れ落ちてしまう。
「ほんとよ、信じて。堀くんに内緒で行ったのは謝る。けど、そこで初めて別人格がいると打ち明けられたのよ! 私の入れ知恵だったら、あなたのいるところで告白させるわ」
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