「原宿から東京を創った男、街を大化けさせる方法」を小学生でも分かるように説明します(本・書籍)東京を変えたのは、高層ビルより“覚悟”だった
原宿から東京を創った男 街を大化けさせる方法
著者 佐藤 勝久

東京という世界でもトップクラスの大都市が、どのようにして今のような楽しくて、安全で、おしゃれな街になったのかを知っていますか?
実は、そこには「街は生き物だ!」と信じて、誰も思いつかないような面白いアイデアを次々と形にしていった一人の男の人と、大きな夢を持った会社の物語があります。
今回は、東京の有名な街である原宿、秋葉原、お台場、表参道などを大改造し、魔法のように大化けさせた佐藤勝久さんという人の経験を通して、街づくりの本当の秘密をお話しします。
最後まで読めば、あなたが普段歩いている街の景色が、きっと全く違って見えてくるはずです。
麻雀ばかりの大学生が「東京を作る会社」に出会うまで
物語の主人公である佐藤勝久さんは、もともと「絶対に街を作るすごい人になってやる!」という熱い夢を持った若者ではありませんでした。
それどころか、大学時代は毎日友達と学生寮で麻雀ばかりして遊んでいて、就職活動に対する危機感も全く持っていないような気楽な学生だったのです。
大学を選ぶ時も、「どうしてもこの大学に行きたい」という強いこだわりはなく、受験の案内本をあ行からめくって、一番最初に目についた「青山学院大学」に決めてしまったくらい、なんでも流れに任せる性格でした。
いよいよ大学4年生になり、周りの友達が真面目にスーツを着て会社訪問を始める中、佐藤さんは仕方なく分厚い就職情報誌を辞書を読むように最初からペラペラとめくり始めました。
あ行、か行と退屈そうにめくり続け、ま行まで来たところでようやく「森ビル」という会社の名前が目に止まりました。
当時の森ビルは、今のように誰もが知っている大企業ではなく、世間からは少し怪しい不動産屋さんだと思われているような小さな会社でした。
しかし佐藤さんは、連絡先として社長の息子さんの名前が堂々と書いてあるのを見て、「潔くていいな。小さい会社の方が埋もれなくていいや」と思い、面接の電話をかけました。
ところが面接に行くと、担当の森稔さんから「君は青学ですか?うちは東大しか採用しないんだよ」と、あっさりと断られてしまったのです。
普通ならここで諦めるところですが、佐藤さんは負け惜しみで「東大ばかりじゃ会社は大きくなりませんよ」と言い返して帰りました。
すると次の日、なんと「社長が、そういう変わったやつは面白いじゃないかと言っているから、うちに来てくれないか」と電話がかかってきて、見事に入社することになったのです。
この森ビルの創業者の社長である森泰吉郎さんは、もともと大学の先生をしていました。
なぜ彼がビルを作る会社を作ったのかというと、悲しい歴史がありました。東京は昔、関東大震災という大きな地震や、戦争の空襲によって、二度も焼け野原になってしまいました。
社長は、自分の財産やたくさんの人の家が一瞬にして瓦礫の山になるのを見て、「地震や火事でも燃えない安全な街を作りたい」と強く心に誓ったのです。
利益やお金儲けのためではなく、人々が安心して暮らせる街を作るという熱い思いが、森ビルという会社の出発点でした。
大失敗からの大逆転!仲間を守る本当のリーダーシップ
森ビルに入社した佐藤さんですが、最初は建物の作り方など何も知らないド素人でした。
入社初日に「ビルに入っている会社が誰の紹介で来たのかを調べてこい」と言われ、1日で完璧なレポートを提出したところ、仕事が早すぎたのか、次の日からいきなり管理部という雑用もする部署に回されてしまいます。
管理部では、電球の交換から、テナントが退去した後のゴミを夢の島というゴミ捨て場にトラックで捨てに行くことまで、何でもやりました。
周りの親戚や彼女のお父さんからは「そんな怪しい会社はすぐに辞めろ」と激しく反対されましたが、佐藤さんは意地になり、「誰かに『いい会社に入ったね』と認められるまでは絶対に辞めない」と心に決めました。
やがて佐藤さんは、持ち前の明るさと行動力で、30歳という若さで大きなビルを建設する現場のリーダーに抜擢されます。
建設の知識がないからこそ、普通の建築家なら「絶対に無理だ」と思うようなことにも挑戦できました。
例えば、ビルの完成を急がなければならない時に、遠くからミキサー車でコンクリートを運ぶのではなく、「現場のすぐ隣に工場を作って、そこから直接コンクリートを流し込めばいいじゃないか」と提案し、見事に工期を短縮してビルを完成させたのです。
しかし、順調なことばかりではありませんでした。
ある時、佐藤さんがリーダーを務めていた「17森ビル」のボイラー室で火事が起きてしまいます。安全な街を作りたいと願う社長は激怒し、火事を起こした現場の担当者たちを厳しく責め立てました。
佐藤さんはちょうどその頃、友達から「いい会社に入ったね」と褒められたので、目標を達成したと思って会社を辞めようとしていました。
しかし、自分が辞めてしまったら、残された部下たちは社長からずっと怒られたままになってしまうことに気づきます。
「部下たちが元気を取り戻すまで、自分が盾になって会社に残ろう」と決心し、辞めるのを取りやめました。
佐藤さんには「こんなもんじゃい」という魔法の口癖があります。
ゴルフでも仕事でも、「こんなはずじゃない」と焦ったり思い詰めたりすると、どんどん失敗してしまいます。
でも、「まあ、人生なんてこんなもんか」とリラックスして受け入れることで、イライラせずに「じゃあ次はどうすればいいか」を冷静に考えることができるのです。
この前向きなリーダーシップと魔法の言葉が、その後の大きな挑戦を支えることになります。
原宿を「日本一おしゃれな街」に変えた魔法のアイデア
今でこそ原宿は、ファッションや若者の文化の中心地として世界中から人が集まるおしゃれな街ですが、昔は明治神宮という大きな神社にお参りに行くための、ただの静かで地味な通り道にすぎませんでした。
森ビルは、この原宿に初めての商業施設である「ラフォーレ原宿」を作りました。最初は有名な企業や一流のプロたちを集めてお店を作ったのですが、オープンしてみると目標の売り上げの半分にも届かないという大失敗に終わりました。
怒ったお店の人たちが集まる大集会が開かれ、会場は怒号が飛び交う大パニックになりました。
さらに、社長がスリッパを履いたまま会議に登場してしまったことで、お店の人たちは「バカにしているのか!」と火に油を注ぐ結果になってしまったのです。
社長は「ラフォーレ原宿は失敗作だ。壊して更地(何もない空き地)にしてしまえ!」と激怒し、佐藤さんにその片付け役を命じました。
しかし佐藤さんは、ラフォーレ原宿を終わらせるのではなく、大改造して復活させる道を選びました。
まず、原宿にどんな人が来ているのかを観察しました。すると、近くの代々木公園には「竹の子族」と呼ばれる、派手でカラフルな服を着て踊る若者たちがたくさん集まっているのに、ラフォーレ原宿は彼らをお客様として取り込めていないことに気づきました。
そこで佐藤さんは、お店のターゲットをあえて「変人」に絞るという驚きの作戦に出ました。
ここでいう変人とは、社会のルールに縛られず、自分の好きなデザインや個性的な服を愛する少し変わった人たちのことです。
全体の一割しかいない彼らを一番に喜ばせれば、その斬新なファッションが話題になり、後から普通の人たちにも広がって大きな流行になると考えたのです。
佐藤さんは、渋谷や新宿にあるような大きなお店は入れず、「原宿にしかないオンリーワンのお店」だけを集めました。
お店の内装も、それまでのホテルみたいな大理石から「光も音も色もすべて自由」に変えさせ、真っ黒な店や天井がない店など、お店の個性を爆発させました。
さらに、家賃のルールも変え、売れなかったら安く、売れたら高くするという新しい仕組みを導入し、お店の人たちが思い切り挑戦できるようにしました。
毎月お店の売り上げの効率をランキングにして発表し、売れないお店には一度退場してもらう厳しいルールも作りましたが、新しく生まれ変わったらまた戻ってこられるチャンスも用意しました。
これらの工夫によって、ラフォーレ原宿は若者たちの憧れの場所となり、原宿という街全体が「ファッションの街」として世界中に知られる大化けを果たしたのです。
お客様は子猫ちゃん?選挙やパソコン展で話題を独占!
佐藤さんの街づくりは、ただカッコいいお店を並べるだけではありませんでした。街に人を呼び続けるためには、いつも「あっ!」と驚くような話題作りが必要だと考えていました。
佐藤さんは、お客様のことを社内で「子猫ちゃん」と呼んでいました。なぜかというと、子猫はとても気まぐれで、放っておいたらどこかへ行ってしまいますが、猫じゃらしのような面白いおもちゃを見せると、好奇心をくすぐられて飛びついてくるからです。
お客様も同じで、常に新しい刺激や面白い話題を提供し続けないと、すぐに飽きて他の街へ行ってしまいます。
一番世間を驚かせた猫じゃらしの作戦は、「原宿ファッション党」という政党を作って、本当の渋谷区議会議員選挙に立候補したことです。
実はこれ、本当に政治家になりたかったわけではなく、原宿という街に日本中の注目を集めるためのお祭り、つまり「話題作り」だったのです。
選挙活動はものすごく派手でした。候補者の応援演説に点数をつけてランキングを発表し、みんながマイクを奪い合うように熱く語らせました。
パレードでは、本物の蒸気機関車の形をした車を道路に走らせ、その周りをカラフルな風船を持ったレオタード姿の女性たち数百人が取り囲んで歩きました。
こんな奇想天外な選挙運動は見たことがないと、テレビや新聞で大ニュースになり、原宿はますます面白くて活気のある街だとみんなに思わせることに大成功しました。
また、まだ誰もパソコンやインターネットのことをよく知らなかった時代に、アメリカから帰ってきた技術者の話を聞いて、日本で初めての「インターネットEXPO(展覧会)」をラフォーレ原宿で開催しました。
ビルに穴を開けて光ファイバーという通信ケーブルを通すという、ビルにとっては少し危険な工事をしてまで、未来の技術をいち早く紹介したのです。「よくわからないけれど面白そうだ」という好奇心で新しいことに挑戦する姿勢が、原宿を常に時代の最先端の場所に保ち続けました。
ピンチをチャンスに!秋葉原とお台場の大改造
佐藤さんの活躍は原宿だけにとどまりません。秋葉原の街を新しくする計画でも、大きな力を発揮しました。
当時の秋葉原は電気の街として有名でしたが、再開発の際に佐藤さんは、上野の「アメ横」の失敗を教訓にしました。
アメ横は昔からごちゃごちゃした熱気のある市場でしたが、防災のために古いお店をきれいで大きなビルの中に押し込んだ結果、独特のエネルギーや活気が失われてしまったのです。
そこで佐藤さんは、秋葉原に新しいビルを建てる時、「昔からある電気屋さんは新しいビルには入れず、そのままの場所で熱気を発散し続けてもらう」という条件を出しました。
そして、新しく建てる大きなビルには、漫画のミュージアムや大学などを入れることを提案したのです。
これが大成功し、秋葉原は昔ながらの電気街の魅力と、新しいアニメや漫画、そしてAKB48などのアイドル文化が見事に融合した、世界中から人が集まるオタク文化の聖地になりました。
一方、海を埋め立てて作られたお台場では、「ヴィーナスフォート」という大人気のショッピングモールを作りました。
最初はアメリカの有名なスポーツブランド「ナイキ」の巨大なお店を作る話もありましたが、日本のスポーツ文化にはまだ合わないと判断して、きっぱりと断りました。
その代わりに、アメリカのラスベガスで見た「シーザーズパレス」というショッピングモールに大きなヒントを得ました。
そこに一歩足を踏み入れると、中世ヨーロッパの古い街並みが広がり、作り物の空の色が本物のように朝焼けや夕焼けに変わるという、まるでテーマパークのような空間だったのです。
佐藤さんはこの感動をお台場で再現しようと決意しました。お店を出してくれる人を集めるために、なんと200人もの人をラスベガスに無料で招待するという太っ腹な作戦を実行し、見事にお台場を女性たちに大人気の夢のような街へと変身させました。
街を育てるのは「人」!若者たちを応援する仕組み
佐藤さんが街づくりを通してずっと一番大切にしてきたのは、「街づくりは人づくりである」ということです。
どんなに立派でかっこいいコンクリートのビルを建てても、そこで働く人や生活する人が楽しんでいなければ、本当の意味で魅力的な街にはなりません。
地方の街では、仕事を増やすために大きな工場を呼んでくることがありますが、会社は少しでも人件費が安い海外などにすぐに引っ越してしまいます。
すると、せっかく工場が来て賑わっていた街も、あっという間に空っぽになってしまいます。だからこそ、その街の歴史や文化を大切にし、そこで才能ある人を育てることが何よりも重要なのです。
佐藤さんは「エルフ・ファクトリー」という会社を立ち上げ、お金はないけれど才能と夢がある若いファッションデザイナーたちを応援する仕組みを作りました。
彼らが作った服の売り上げや評価を、お相撲の「番付表(横綱や大関などを決める表)」のように発表しました。
成績が良ければ前頭から小結、大関、横綱へと昇進していく仕組みにして、みんながゲームのような感覚で楽しくライバルと競い合えるように工夫したのです。
このような、ただお金を貸すだけではない血の通ったサポートがあったからこそ、たくさんの若者たちが原宿から世界へと羽ばたいていきました。
また、佐藤さんはよく「水鳥になれ」と言っていました。
水面に浮かぶ鳥は、上から見ると涼しい顔をして優雅に泳いでいるように見えますが、水の中では沈まないように休むことなく必死に足を動かし続けています。
街づくりも全く同じです。華やかで成功しているように見える街でも、あぐらをかいて休んでしまえばすぐに飽きられてしまいます。
裏では常に新しいアイデアを考え、見えないところで必死に努力し続ける人たちがいるからこそ、その街はいつまでも輝きを保ち続けることができるのです。
街は生きている!未来の東京を作る君たちへ
「街は生き物である」。
これが、佐藤さんが長い経験の中でたどり着いた一番大切な答えです。生き物だからこそ、愛情を持って育てなければ枯れてしまいますし、間違った育て方をすれば魅力のないつまらない街になってしまいます。
今の時代は、安くて便利な服や物がインターネットでいつでも買えるようになりました。しかし、効率やお金儲けばかりを優先して、季節感やその街だけの特別な個性を失ってしまえば、街はただのコンクリートの箱になってしまいます。
春には春の色を、冬には冬のデザインを楽しむような、人間の豊かな感情や季節の移り変わりを大切にすることが、ファッションにも街づくりにも欠かせないのです。
昔の原宿は、バーゲンセールをすることで「この季節はこれでおしまい!」とピリオドを打ち、また新しい季節の服を楽しむというワクワク感がありました。そういう季節感が街を生き生きとさせていたのです。
また、銀座という街は、コロナウイルスの影響で人が全くいなくなってしまった時でも、時間が経つとまた元の活気を取り戻しました。それは、銀座が長い時間をかけて育ててきた見えないエネルギーがあったからです。
銀座は、新しくて背の高いビルを建てる計画があった時も、「銀座に高すぎるビルはいらない」と断り、自分たちの伝統とプライドを守りました。これも、街が生き物として自分たちの個性を大切にしている証拠です。
日本の中心である東京は、これからも絶対に潰れることなく、新しいエネルギーを生み出し続けるでしょう。
森ビルが「燃えない街を作りたい」という夢から始まったように、街づくりにはそこに住む人たちの幸せを願う熱い思いが必要です。
これから大人になっていく小学6年生の皆さんは、どんな未来の街を作りたいですか?
街に血を通わせ、新しい命を吹き込むのは、これからの時代を生きる皆さんの自由で楽しいアイデアと、「こんなもんじゃい!」と失敗を恐れずに挑戦し続ける明るい心なのです。
いつかあなたが、みんなが笑顔で暮らせる素晴らしい街を作る主役になる日を楽しみにしています。
★付録その1★音声考察★
★付録その2★大人向け論文★

都市再開発における理念と実践
――佐藤勝久の経験にみる「燃えない町」と人間中心の街づくり――
要旨
本稿は、佐藤勝久氏の経験をもとに、東京の都市再開発がどのような考え方の上に進められてきたのかを整理し、その特徴を明らかにするものです。とくに、森ビルの創業者である森大吉郎氏が掲げた「燃えない町を作ろう」という理念と、それを実際の都市づくりへつなげていった現場の実践に注目します。本書では、著者自身の生い立ち、就職、現場での苦労、原宿や虎ノ門などの再開発に関わる経験が語られています。そこから見えてくるのは、単に建物を建てて利益を上げるのではなく、災害に強く、長く人に愛され、働く人や集まる人を育てる町を目指す姿勢です。また、著者個人の「こんなもんじゃい」という物事の受け止め方が、変化の激しい時代を生き抜く上で大きな支えとなっていたことも重要です。本稿では、こうした思想と実践を整理し、都市再開発の本質が建築物そのものではなく、理念、人、地域との関係にあることを考察します。
一 はじめに
都市再開発という言葉から、多くの人は高層ビルや商業施設、大規模な工事を思い浮かべるでしょう。しかし、本書が伝えているのは、そうした見た目の大きさよりも、もっと根本にある考え方です。すなわち、なぜその町をつくるのか、何を守るために建てるのか、そこで人がどう生きるのか、という問いです。
著者は、社会的にはあまり良い印象を持たれていなかった時代の不動産業界に入り、周囲から強い反対を受けました。それでも長年モリビルに勤め、多くの建設や街づくりに関わってきました。その過程で著者が学んだのは、不動産業とは単なる金もうけではなく、都市の未来をつくる仕事だということでした。しかもそれは、机の上の理想だけで進むものではなく、事故、対立、無理な工期、社会の偏見など、多くの困難の中で形になっていくものです。
本稿ではまず、著者の人生観と入社までの経緯を整理します。次に、森大吉郎氏の理念である「燃えない町を作ろう」の意味を明らかにします。その上で、現場の実務、原宿や表参道などの再開発、人づくりの視点について考察し、最後に本書から読み取れる都市再開発の本質をまとめます。
二 著者の生い立ちと人生観
著者は一九四二年に生まれ、父親の転勤にともなって各地を移り住みながら育ちました。戦争の影響で家が失われる経験を家族がしており、そのことが家庭の考え方に大きな影響を与えていました。都会よりも安全な場所で穏やかに暮らすこと、必要以上に欲を持たないことが、自然と著者の価値観の土台になっていったと考えられます。
そのため著者は、若いころから強い野心を持って一直線に進むタイプではありませんでした。大学進学でも就職でも、強いこだわりより、目の前に来た縁を受け入れる姿勢が強かったようです。大学も第一志望ではなかったものの、入学した環境にすぐなじみ、学生生活を前向きに楽しんでいます。こうした態度は、その後の人生を通じて一貫しており、「与えられた状況をまず受け入れ、その中でやれることをやる」という姿勢として表れています。
著者の考え方を象徴する言葉が、「こんなもんじゃい」です。これは、投げやりなあきらめではありません。思い通りにいかない現実にぶつかったとき、必要以上に落ち込まず、過剰に理想を求めすぎず、次に進むための心の置き方です。著者はこれをゴルフの例でも説明しており、「こんなはずではない」と思い詰めるほど崩れていくが、「まあ、こんなものだ」と受け止めれば立て直せると考えています。この姿勢は、変化が激しく、成功も失敗も大きい不動産・建設の世界で働く上で、重要な支えになっていました。
三 森ビル入社の経緯と当時の不動産業界
著者の就職活動は、明確な志望業界や企業を持たないまま進みました。学生時代は麻雀に明け暮れ、まわりの学生ほど就職に切迫感を持っていなかったといいます。そのような中で就職情報誌をめくり、たどり着いたのが森ビルでした。決め手は、会社の規模が小さいこと、そして連絡先に担当者の実名が出ていたことでした。大企業で埋もれるより、小さな会社のほうが自分に合うと考えたのです。
しかし、入社までの道のりは順調ではありませんでした。面接では「東大出身者しか採用しない」と言われ、いったんは断られます。それでも著者は食い下がり、翌日になって創業者の判断で採用が決まります。ここにすでに、この会社の独特な気風が現れています。形式や学歴だけでなく、人の面白さや可能性を見ようとする姿勢です。
当時の不動産業界には、今より強い偏見がありました。土地で利益を得る業界に対して、世間はうさんくさいという印象を持っていたのです。著者の家族や周囲の人びとも、森ビルへの就職を良く思いませんでした。結婚を考えていた相手の家族からも反対を受け、私生活にも影響が及びます。それでも著者は、会社そのものを見て、「ここは世間が言うような会社ではない」と判断し、自分の縁として受け入れました。
この点は重要です。著者は理想論で会社を選んだのではありません。しかし、働き始めてから、自分が関わる仕事の意味を少しずつ理解していきました。つまり、最初から立派な志があったのではなく、現場の中で仕事の価値に目覚めていったのです。
四 「燃えない町を作ろう」という理念
森ビルの根本にある考え方は、「燃えない町を作ろう」という言葉に集約されます。この理念の背景には、創業者である森大吉郎氏の強烈な体験がありました。森家は、関東大震災と戦争の空襲によって、受け継いできた不動産を二度も失っています。せっかく立て直しても、また焼け野原になる。その絶望の中で、木造の町では再び同じ悲劇が起こると痛感したのです。
そこで大吉郎氏が目指したのは、燃えにくく、災害に強い町でした。その象徴が、空襲の中でも残った丸ビルです。焼け残った建物を見て、ただ建てるのではなく、都市そのもののあり方を変えなければならないと決意したのです。この体験が、のちの森ビルの都市再開発思想の原点となりました。
ここで大切なのは、この理念が単なる防災の話にとどまらないことです。燃えない町をつくるとは、短期的な利益のためにその場しのぎの建物を並べるのではなく、長く持ちこたえる都市をつくることです。だからこそ大吉郎氏は、土地を売買してもうけるような仕事を嫌いました。不動産で金を稼ぐこと自体を目的にしてしまえば、町の未来より目先の利益が優先されるからです。
この考え方は、オイルショックやバブル崩壊のような大きな変化の中でも会社をぶれさせない軸になりました。社会の流れに乗って利益だけを追えば、一時的には大きく伸びるかもしれません。しかし、理念を持たなければ、時代が変わったときに立ち行かなくなります。本書は、森ビルが長く都市再開発を担えた理由の一つが、このぶれない理念にあったことを示しています。
五 現場で学んだ都市づくりの実務
著者は入社後、営業として働き始めますが、すぐに管理部門へ異動します。そこではビルメンテナンス、警備、テナント対応、工事管理、ごみ処理まで、まさに何でもやる仕事を担いました。華やかな再開発の表側ではなく、建物を動かし続ける裏方の仕事です。
この経験は、著者にとって非常に大きかったと考えられます。なぜなら、町やビルは設計図だけでは成り立たないからです。実際には、設備を点検する人、清掃をする人、警備をする人、入居者と向き合う人がいて、初めて建物は生きた場所になります。著者は現場を回り、そうした人びとと直接関わる中で、都市づくりとは人と人との関係を整える仕事でもあることを学んでいきました。
また、著者は若くして建設現場のリーダー役も担いました。技術者ではない自分が、土木、建築、電気などの専門家を束ね、工程を前に進める立場になったのです。たとえば大きなビル建設では、当初より短い工期で完成させる無理な要求に直面します。著者は、ただ無理だと断るのではなく、コンクリートの使い方や現場の運営方法まで工夫し、関係者を巻き込みながら課題を解決していきました。
この姿勢からわかるのは、都市再開発が単なる資本や設計の勝負ではないということです。そこには現場の知恵、粘り強い交渉、発想の転換、そして責任を引き受ける覚悟が必要です。著者は専門家ではなかったからこそ、固定観念に縛られず、別の角度から工夫を出せたとも言えます。
六 事故と責任、そして仕事への向き合い方
現場には成功だけでなく、事故もあります。著者が率いる現場の一つで火災事故が起きた際、社長は厳しく責任を問い、関係者を追及しました。著者は部下をかばおうとしますが、簡単には受け入れられません。この場面から見えるのは、再開発の仕事が人命や社会的信用と深く結びついているという厳しさです。
都市をつくる仕事は、一つの失敗で多くのものを失う可能性があります。建物そのものだけではなく、働く人の将来や会社の信頼まで傷つけかねません。だからこそ、創業者が震災や戦争の体験を通じて「燃えない町」にこだわった意味も、より重く感じられます。安全はきれいごとではなく、都市づくりの大前提なのです。
同時に、このような厳しい経験の中でも、著者は極端に自分を追い込まない姿勢を保っています。それが「こんなもんじゃい」という言葉につながります。もちろん事故を軽く見るわけではありません。しかし、起きたことに必要以上につぶされず、次にどうするかを考える。これは責任逃れではなく、長く仕事を続けるための現実的な心の技術だと言えます。
七 原宿・表参道と人を育てる街づくり
本書の後半でとくに印象的なのは、原宿や表参道に関する考え方です。著者は、町の価値は建物だけでは決まらないと繰り返し述べています。たしかに再開発では建築物が注目されがちですが、実際に町の魅力をつくるのは、そこで働く人、集まる若者、店の文化、地域に流れる空気です。
原宿は、かつて多くの若者が目指す町でした。著者は、そこにおける街づくりを、施設づくりだけでなく「人作り」と結びつけて考えていました。どれほど立派な建物ができても、そこで働く人や運営する人が育たなければ、町は長続きしません。逆に、人が育てば町は変わり続けることができます。これは非常に重要な視点です。都市再開発はハードだけでなく、ソフトをどう育てるかが問われるのです。
表参道ヒルズへつながる同潤会アパートの話も、この考え方をよく示しています。同潤会アパートは、関東大震災後の復興支援として建てられた、歴史のある鉄筋コンクリート住宅でした。古くなっていたからといって、ただ壊して新しいものに置き換えればよいわけではありません。そこには長い時間を生き延びてきた建物の意味があり、町の記憶があります。著者は、その価値を残しながら新しくすることの難しさと大切さを感じていました。
ここに、森ビルの再開発思想の成熟が見えます。初期の「燃えない町」は、防災と耐久性が中心でした。しかし時代が進むと、それは単に強い建物をつくるだけでは足りなくなります。歴史をどう受け継ぐか、文化をどう生かすか、人をどう育てるかまで含めて、町を再生する必要があるのです。
八 結論
本書から読み取れる都市再開発の本質は、単なる巨大建築の建設ではありません。それは、災害の記憶から出発した強い理念と、現場で積み重ねられた実務、そして人を中心に据える視点によって成り立つ営みです。
著者は、特別な野心を持って不動産業界に入ったわけではありませんでした。しかし、縁によって入社し、現場で働き、創業者の思想に触れる中で、都市づくりの意味を深く理解していきました。その過程で一貫していたのが、目の前の状況を受け入れ、過度に気負わず、それでもやるべきことは粘り強くやるという態度です。この柔らかさと粘り強さが、変化の激しい時代を生き抜く力になっていました。
また、森大吉郎氏の「燃えない町を作ろう」という理念は、単なる防災標語ではなく、利益優先に流されない都市づくりの原則でした。そしてその原則は、原宿や表参道のような町の再生において、歴史や文化、人材育成を含む広い視点へと発展していきました。
したがって、本書が示す都市再開発の価値は三つにまとめられます。第一に、都市づくりには長期的な理念が必要であることです。第二に、その理念は現場の地道な実務によって初めて形になることです。第三に、町の魅力は建物だけでなく、そこで生きる人によって決まることです。
現代でも再開発は各地で進んでいます。しかし、ただ新しく大きいものを作ればよいわけではありません。本書が伝えるのは、町を本当に変えるとは、建物を建てることではなく、災害に強く、長く愛され、人が育つ場所をつくることだということです。この視点は、これからの都市を考える上でも大きな意味を持っていると言えるでしょう。

