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Sh-030:満漢全席 I(一品豆腐・抓炒里脊)

山東料理シリーズ第一部最終回です。

今回は今までとは趣向を変え、ご存じ「満漢全席」の歴史やその中身について紹介したいと思います。

満漢全席の虚実

清宮廷の栄華を象徴する言葉として、満漢全席という名称は世界的に知られています。 しかし、大清会典をはじめとする清朝の公的な制度記録には、この「満漢全席」という語は存在しません。宮廷におけるオフィシャルなものではないのです。

宮廷の饗宴は、満洲族の伝統を継承する満席と、漢族の官僚を懐柔するための漢席に二分されて執行されていました。

満漢全席の「満」と「漢」とは、満州族と漢族、清朝における二大民族の名称を表しているのです。よくある間違いですが、麻雀の「満貫」ではありません。

この区別は、満洲族としてのアイデンティティを保持しつつ、多数派である漢族の官僚との融和を図るという、政治的な意図によるものでした。これが元など清以外の外来王朝の時代とは明らかに異なる点です。

したがって、そもそも、清代においては両者が公的な宮廷儀礼において、「満席」と「漢席」が、混在して供されることは制度上あり得なかったのです。宮廷オフィシャルには満漢全席というものが存在しなかったのにも納得できますね。

であれば、なぜ現代において「満漢全席」が宮廷の至高の饗宴として語り継がれているのでしょうか?その理由は、宮廷の外にあります。清王朝が開かれた後、満州族と漢人の政治的および文化的な交融が進む中で、満席と漢席を折衷した宴席が、「宮廷の外」で自発的に生み出されました。

実際、清朝が関内に入った後、北京は政治や文化の中心地となり、満漢双方の高官が公私を問わず交際する機会が増加しました。この交際の場において、最初期に、満洲族の好む「食肉」のスタイルや伝統的な焼き菓子である「餑餑(ボーボー)」と、漢族の伝統的で精緻な調理技術が融合し始めました。それ以前の清の宴席とは、地面に獣の皮を敷き、皇帝と部下たちが、ドカリと座って酒を飲みながら骨付き肉をかじるというもの。椅子どころかテーブルすらありません。満州族の宴会とはそういったものだったのです。

そうですね。ものすごく極端なことを言えば、たとえばAM国という国が、FR国を支配することになりまして。AM国の国民食であるハンバーガーというものが、FR国のコース料理と融合したイメージでしょうか。

この融合を背景に、儀礼を掌る光禄寺(仏教の寺ではなく、現代でいう中央省庁のようなもの)は、準備の手間や予算を削減するために「上席」や「中席」という折衷的な宴席の名目を考案しました。 これにより、満洲族の豚肉や羊肉を主とする料理と、漢族の繊細な野菜や魚介の料理が、一つの献立の中に同居する道が拓かれたのです。ただし、やっぱり満州席と漢席は別です。満州席に中国伝統の料理が出されたり、漢席で羊の骨付き肉が出されたりすることはあっても、両者を融合したものはついぞ生まれませんでした。

実は、康熙帝が元旦の宴会で「満席」と「漢席」を合併しようとした試みもあり、それを起源とする説もあるのですが、これは一過性の試みにすぎず、その後の大規模な千叟宴(敬老を美徳とした清王朝において、60歳以上の老人を招いて行われた大宴会、満州人と漢人の老人たちが数千人招かれました)でも満漢は別々の日に入宴していました。

このような背景から、「満漢全席」の初源は宮廷の厨房ではなく、むしろ官僚や商人が往来する地方の官場や都市の繁華な街にあったと言えます。

「満漢全席」という概念は、宮廷で制定されたものではない。 それは、数十年にわたる社会的な食文化の相互浸透によって、民間や官場で自然発生的に形成された文化(の総体)であるとみなすのが妥当でしょう。

そして、満漢全席の、その直接の起源となる、ある宴席のスタイルが山東省曲阜の孔府で生まれました。

山東料理シリーズの記事に、満願全席を持ってきたのも、これが理由です。

孔府の満漢宴196道と下賜された餐具たち

民間や地方官府における満漢食文化の融合を語る上で、山東省曲阜の孔府に伝わる満漢宴は外せません。というより、ここから満漢全席という言葉が生まれたと言っても、良いでしょう。非常に詳細で、具体的な記録が残っています。

儒学の総本山である孔府は、皇帝や欽差大臣を最高礼遇で迎えるため、厳格な礼儀作法に則った宴席を古くから記録・整備していました。 そして、清代の、孔府の饗宴における第一等に位置づけられていたのが、全196道の料理からなる「満漢宴」です。

196道の献立は、単に品数が豊富であるというだけでなく、すべての料理が特別な食器に盛られて提供されるという驚くべき様式美を備えています。

「礼」を重視した孔子の思想が、古くから料理のシステムに残されているのです。

そして、この饗宴のために誂えられた「満漢宴銀質点銅锡仿古象形水火餐具」と呼ばれる精巧な銀製の餐具セットが、今も孔府の内宅に保存されている。

この餐具セットは、総計404件の器から構成されており、すべての器が「二層の構造」になっています。

下層にお湯を張ることで、料理の温度を一定に維持する温食器としての実用的な機能が備わっているのですね。現代のビュッフェではなく、数百年前の話ですよ?信じられますか?

伝承によれば、この餐具は、乾隆36年に乾隆帝と皇后が孔府を訪れて祭孔を行った際に下賜されたものとされます。この下賜は、乾隆帝の娘が第72代衍聖公(えんせいこう)である孔憲培に嫁いだ際の、高価な婚礼調度品としての意味合いを帯びていました。当時の皇室の掟では、満洲族と漢族の婚姻は禁じられていたため、乾隆帝は娘を寵臣の于敏中の養女とした上で嫁がせるという、極めて異例の手続きを取りました。そこまでして、孔子の血縁と王朝の融合を図ったのです。この婚姻を祝うために、広東省潮陽の金銀細工師である楊義華に命じ、数年の歳月をかけて翡翠や瑪瑙、ダイヤモンドを散りばめた404件の餐具を製作させたのです。

この特製餐具を用いて提供された196道の料理は、山海珍味を網羅した漢族の料理と、満洲族の伝統である全羊の焼き物などを含んでいます。 具体的には、以下のような格式の高い料理が名を連ねていました。

  • 一孵双鳳(イーーフーシュアンフェン):丸鶏を用いた、子孫繁栄を象徴する蒸し物。

  • 御帯蝦仁(ユーダイシァレン):厳選されたエビを、宮廷の帯に見立てて美しく飾り付けた炒め物。

  • 当朝一品(ダンチャオイーピン):衍聖公が当朝一品の地位にあることを祝う、最高級の鍋料理。

一つ一つの料理に祝福の寓意があり、孔子の子孫と清王朝の血統が融合することを祝う、壮大な宴席だったのです。

もちろん、その宴席には皇帝夫妻も参席します。

しかし、皇帝たちは必ずしも豪華な食材ばかりを歓迎したわけではないといいます。 実際、宮廷の贅沢な食事に飽きていた乾隆帝に対し、孔府の料理人が春の杏の葉を糖蜜でコーティングした「琉璃杏葉」を提供したところ、皇帝はこれを好んだという記録も残されています。さらに、炒めた豆芽に花椒の香りを移した「炒豆芽」も皇帝の称賛を受け、のちに孔府の重要な饗宴メニューとして格式化されました。この逸話は、贅を尽くした「満漢宴」が、単なる高級食材や技巧を凝らした絶品料理だけに依存するものではなかったことを示しています。むしろ、儒学の「食不厭精、膾不厭細」という中庸と礼の精神、そしてもてなしの創意工夫も取り入れられ、人智を凝らした創意工夫と贅を凝らした豪華さによって成立していたと解釈するのがよいでしょう。

揚州画舫録による記録

孔府における「満漢宴」が宮廷と地方官府の結びつきを示す一方、都市の商業社会において満漢席の具体的な姿を記録した文献が存在します。

乾隆年間に李斗によって著された『揚州画舫録』です。

この書物の巻四「新城北録」には、乾隆帝の南巡を支えた百官に提供された、詳細な「満漢席」の献立が記録されており、現代に残されています。これは現在確認されている中で、最も年代が古く、かつ体系的な満漢席の記録です。当時、揚州は塩の専売によって富を築いた塩商たちが割拠し、独特の競奢な食文化を競うように育んでいました。

この塩商たちは、皇帝の歓心を引くために競って自邸の庭園を整備し、高名な料理人を進発させて皇帝や随行の官僚を歓待したといいます。 大量の随行百官に提供する食事を一度に調達するため、塩商たちは「上買売街」の前後にある寺院や道観(道教の寺院)をすべて、現代でいうセントラルキッチン、大厨房へと変貌させました。これにより、都市に点在する宗教施設を一時的な巨大仕込み場として機能させ、数百人の官僚に均一の品質で料理を提供するというダイナミックな手法を実現しました。

その…、なんというか、規模もアイディアも異常すぎて、もう、言葉がありません。

ちなみに、本記事では満願全席という料理にだけフォーカスを当てていますが、『揚州画舫録』には、もちろん。百官らの寝床、休憩所、風呂、喫茶、疲れをいやすための場所や、導線、その設備、同行する動物たちを休ませる場所、エサ、壊れた物品の補修、修理、その材料、道具、代用品、地図、スタッフの配置まで、満願全席と同じレベルで図入りで記録されています。一見の価値ありです。

『揚州画舫録』に記されたメニュー構成は、前菜から主食、デザートに至るまで、以下のような階層的な構造を備えていました。すべて提供する順番と使う皿が決められています。

第一份
頭号五簋碗 十件
燕窩鶏絲湯、海参会猪筋、鮮蟶蘿蔔絲羹、海帯猪肚絲羹、鮑魚会珍珠菜、淡菜蝦子湯、魚翅螃蟹羹、蘑菇煨鶏、轆轤錘、魚肚煨火腿、鯊魚皮鶏汁羹、血粉湯、一品級湯飯碗

第二份
二号五簋碗 十件
鯽魚舌会熊掌、米糟猩唇猪脳、仮豹胎、蒸駝峰、梨片伴蒸果子狸、蒸鹿尾、野紙片湯、風猪片子、風羊片子、兔脯奶房簽、一品級湯飯碗

第三份
細白盤 十件
猪肚仮江瑶鴨舌羹、鶏筍粥、猪脳羹、芙蓉蛋、鵝肫掌羹、糟蒸鲥魚、仮班魚肝、西施乳、文思豆腐羹、甲魚肉片子湯、璽児羹、一品級湯飯碗

第四份
蒸食と点心
各種「餑餑」、満洲式蒸食、伝統主食、中盤第五份洋碟と果卓洋碟二十件、熱吃勧酒二十味、小菜皿二十件、乾果十徹卓、生果十徹卓

この構成を見ると、海鮮から始まり、古典的な八珍を模した獣肉、そこで揚州の名物である「文思豆腐羹」などの地元の淮揚菜(わいようさい)へと続く流れが読み取れます。特に文思豆腐は、揚州天寧寺の僧侶である文思が考案した、豆腐を髪の毛のように細く刻んだスープであり、文人の好む精緻な包丁技術の象徴でした。これに加えて、満洲族の主食である「餑餑」や蒸食が配置されており、満漢の食文化が単に並列されているだけでなく、一つの饗宴として統合されていたことがわかります。

この饗宴を支えた揚州の塩商たちは、それぞれの邸宅に優秀な専属料理人を抱えており、彼らの技術を交流させることで新たな料理を次々と生み出していきました。 乾隆帝はこの南巡の際に揚州の料理人を非常に気に入り、彼らを随行させて北京の御膳房へと召し抱えました。 この料理人たちの移動にともない、南方の精緻な「淮揚菜」の調理法が北方の清朝宮廷に流入し、宮廷御膳の質を引き上げる結果となったことは、過去のブログで語ってきました。

「満漢全席」は宮廷から地方へと一方通行で伝播したのではなく、地方商業社会と宮廷厨房との不断の技術交流のスパイラルの中で、洗練されていったのです。

四八珍の体系と稀少食材の生態学的影響

「満漢全席」の料理としての価値を決定づける要因の一つに、極めて稀少で入手困難な食材を網羅する「八珍」という存在があります。 もともと中華料理の世界で、超高級食材を意味する八珍ですが、清の満漢全席においては、単に高価な食材という金銭的な文脈だけではその価値を測れません。

広大な版図から抽出された、それぞれ遠方にある自然の恵みと、それを統治して、集めることができる帝権の象徴でもありました。

「満漢全席」においては、これをさらに細分化し、山や海、禽や草の各領域から八種類ずつ、合計三十二種類の食材を四八珍として体系化しています。

この「四八珍」の内容は、以下のように定義されます。

  • 山八珍:駝峰(ラクダのコブ)、熊掌(クマの手のひら)、猴脳(サルの脳)、猩唇(特定の魚類の口辺の肉)、象拔(ゾウの鼻)、豹胎(ヒョウの胎児)、犀尾(サイの尾)、鹿筋(シカのアキレス腱)からなる陸の希少部位。

  • 海八珍:燕窩(アナツバメの巣)、魚翅(フカヒレ)、大烏参(大型のナマコ)、廣肚(大型魚の浮き袋)、龍骨(チョウザメの軟骨)、鮑魚(アワビ)、海獅(海獣の肉)、狗魚(オオサンショウウオ)からなる水海の幸。

  • 禽八珍:紅燕(特定の渡り鳥)、白鶴(ツル)、鵪鶉(ウズラ)、天鵝(ハクチョウ)、鷓鴣(シャコ)、彩雀(クジャクなどの美しい鳥)、斑鳩(キジバト)、紅頭鷹(猛禽類の一種)からなる空の獲物。

  • 草八珍:猴頭(ヤマブシタケ)、銀耳(白キクラゲ)、竹蓀(キヌガサタケ)、驢窩菌(希少な野生キノコ)、羊肚菌(アミガサタケ)、花菇(最高品質のシイタケ)、黃花菜(ホンカンゾウの花の蕾)、雲香信(香りの強い野生キノコ)からなる大地の菌類や植物。

現在においても、食材の確保には物流網の整備が不可欠ですが、それを、清代に、東西南北の希少食材を、集める必要があったのです。

宮廷においては、各地の地方官から毎年、その土地の最高級の野生動物や植物が進貢として皇帝に献上されていました。

当然、これらの野生動物や希少食材の調達は、生態系に深刻な負担をかけただけでなく、国家財政を逼迫させる要因ともなりました。

実際、乾隆帝の時代には、果物の調達だけで年間一万両以上の銀が費やされていた記録が残されています。

ピンとこないかもしれませんが、通貨として用いられていた「銀」が一万両、約400kgです。

全くざっくり、本日の銀相場で計算すると「1億3500万円程度」。

果物だけで、です。

道光帝以降、18世紀から19世紀にかけて、清朝の国力が衰退するとともに、こうした贅を極めた食材調達は、当然縮小を余儀なくされました。アヘン戦争前夜です。

食材調達予算が減ったという直接的な文脈以外にも、物流網や地方からの進貢システムが麻痺し、広大な版図から希少な山海珍味を集める統治権力そのものが失われたことも意味しています。

そして、きちんと記録が残されているので、比較もできます。

1860年に英法連軍によって円明園が焼かれた際、熱河に避難した咸豐帝の食卓には、わずか十数道しか料理が並びませんでした。

1900年の義和団の乱で八国連軍が北京に進攻した際には、西逃中の慈禧太后と光緒帝は、路上で粗末な窩頭(トウモロコシの粉で作った主食)で飢えを凌ぐほかありませんでした。

このように、「四八珍」を揃えた「満漢全席」は、清朝の政治的かつ経済的な絶頂期にのみ維持可能であった、極めて不安定な権威の象徴であったのです。

諸行無常です。

宮廷宴における厳格な作法

「満漢全席」は、単に豪華な料理を並せて食べるための食事会ではありません。非常に厳格な食事作法を要求されました。

もし、「満( or )漢全席」が単なる皇帝の贅沢のみを目的とした食事会であったなら、これほど厳格な礼儀作法は不要だったでしょう。ただ、食べればいいのですから。実際には、食事の場そのものが皇帝の絶対的な権力を体感させ、百官の身分秩序を再確認させる政治的空間であったため、過酷な身体儀礼が課せられました。

正式な国宴においては、出席者は饗宴の進行に伴って、合計で「跪くこと三十三回、叩頭すること九十九回」という過酷な身体的儀礼を遂行しなければなりませんでした。 この徹底された身体的な制約は、食事の場が皇帝の絶対権力を視覚的かつ体感的に叩き込むための空間であったことを示しています。

食べながら、躾けられるのです。

そう。猛烈なストレスと、猛烈な快楽。

まさに現代における「洗脳」に近いシステムです。

おそらくこれが満漢全席の本質であり、孔府料理の本質なのでしょう。そして、おそらく儒教の裏システムだと捉えることもできます。

厳格さは、テーブル上での細かな食べ方の作法にも及んでいます。 清朝宮廷は、中国古代の礼儀作法の基本書である『礼記』の「曲礼」に定められた進膳の礼節をそのまま導入し、当時よりさらに厳格に運用しました。 その代表的な規範には、以下のようなものがありました。

  • 毋抟飯:ご飯を大きな塊に丸めて食べてはならないという規則であり、これは卑しく飢えを争っているかのような印象を与えるのを防ぐためであった。

  • 毋放飯:一度口に入れようとした食べ物を、再び食器に戻してはならないという規則であり、周囲に不潔な印象を与える行為として厳しく禁止された。

  • 毋流歌:大口で急いで食べたり、大きな音を立てて長飲大嚼してはならないという規則であり、食事への過度な執着を戒めるものであった。

どこかで見たことがあるマナーかと思いますが、そう、これらのマナー、日本に伝わり、家庭や学校で教育されています。儒教の教えが、(そうとは知らないでしょうが)現代日本に伝わって受け継がれているのです。

礼という皮を纏った、権力に従順な民衆を作るためシステムなのかも知れません。そう考えると、本当は怖い「満漢全席」なのかも知れませんね。

ちなみに、饗宴の提供プロセスも、緻密な時間管理と空間演出のもとに進行します。 まず、宴席が始まる前に「奉香上寿」の儀式が行われ、古代の音楽が演奏される中で、室内に香が焚かれます。その後に、冷たい前菜や「餑餑」、お茶、そして箸休めの醬菜が順次運ばれてきます。

メインとなる御菜(温かいスープや肉料理)が登場する前後には、高貴な環漿(酒類)が宮廷の侍女たちによって恭しく注がれ、さらに、満洲族の狩猟文化の記憶を呼び起こすための「掛炉山鶏」や「生烤狍肉」(ノロジカの焼き肉)といった豪快な焼烤(焼き物)が提供され、最後に野菜料理や点心、スープで締めくくられるのです。

これらの手順は、音楽のテンポに合わせてコントロールされており、出席した百官はただ粛々とその秩序に従うほかはなかったといいます。

料理の種類や味なんか覚えていられたのでしょうか?

提供された料理のリストや次第は残っていますが、宮廷で食を楽しんだという記録があまり残されていないのは、やはり強いストレスがあったからなのかもしれません。

現代における伝承と発展

清朝が滅亡した後、かつて宮廷の御膳房や寿膳房で働いていた腕利きの料理人たちは民間に散らばり、その秘伝の技術を市井にもたらしました。 そうして一般市民でも清代宮廷の味わいを体験できる、専門料理店が北京を中心に誕生しました。 その最も有名な成功例が、1925年に北京の北海公園内で開業した「仿膳飯庄」です。軽く触れておきましょう。

仿膳飯庄は、当初は「仿膳茶庄」という小さな喫茶店として創業し、かつて御膳房で作られていた宮廷点心や軽食を提供していたそうです。 「仿膳」の名が示す通り、宮廷の御膳を忠実に模倣(模仿)することを追求し、やがてその高い技術が評価され、本格的なレストランへと発展しました。

ここでは、かつて宮廷で提供されていた豌豆黄や芸豆巻、肉末焼餅などの名物料理が、「今も」当時のレシピを受け継いで手作りされています。

また、頤和園の中にある「聴鹂館」も、かつての寿膳房の献立を基礎とした高雅な宮廷料理を提供しています。中国国家級の非物質文化遺産に登録されるなど、その技法は今も守り続けられているのです。

現代における宮廷料理の提供は、野生動物の保護や絶滅危惧種の取引を規制する近代的な法律によって、妥協を余儀なくされています。 当然、かつての「満漢全席」に並んでいた熊掌や猩唇、猴脳といった食材を、(通常は)そのまま使用することはできません。

この課題に対し、現代宮廷料理人たちは、代々受け継がれてきた調理原理を応用し、代替食材を用いてかつての美観と食感を再現する技術を発展させました。例えば、熊掌の独特のゼラチン質と濃厚な味わいを再現するために、牛の筋やシカの肉を精緻に加工し、数日間かけて煮込む手法が採られています。魚翅の代わりには、寒天や緑豆の澱粉から作られた高品質な代替繊維を使用し、スープの旨味を吸わせることで、かつての贅沢な食感をシミュレーションで味わえます。

この代替技術の発展は、単なる懐古趣味でも、妥協でも、ましてや金儲けのための技術でもないのです(?!)。

日本の家庭でやってしまおう

宮廷料理の華やかな外見は、家庭での再現が不可能であるかのような印象を与えます。しかし、その味作りの本質は、食材の丁寧な下ごしらえと、伝統的な火のコントロール、即ち熱の伝導を操るため技法にあります。

当時の宮廷料理人たちが、日本の一般的なスーパーマーケットを訪れ、最新の調理家電を用いて宮廷料理を再現できたなら、それは当時の宮廷料理を容易に超えるものになるでしょう。

というわけで、ようやく、日本で調達できる食材を用い、清代宮廷および孔府の伝統を家庭で再現するための、二つのレシピに移ります。

最初に再現するのは、孔府菜を代表する料理であり、北京の「仿膳飯庄」や「聴鹂館」でも定番として名高い一品豆腐。 本来の「一品豆腐」は、大きな豆腐の中をくり抜き、シイタケやタケノコ、エビ、金華ハムなどの高級食材を詰めて蒸し上げるという、入念な工程を要します。家庭での再現においては、これらの高度な包丁さばきを簡略化しつつ、外側のサクサクとした食感と、内側の絹のようななめらかさ、そして豊かなキノコの旨味を再現する、実用的なレシピにアレンジしました。


一品豆腐

材料(2人分)

木綿豆腐:1丁(約350グラムから400グラム)
長ねぎ:1/2本
しめじ:50グラム
片栗粉:大さじ3
薄力粉:大さじ1
サラダ油:大さじ3
ごま油:大さじ1

調味料

水:1/2カップ
しょうゆ:大さじ1と1/2
みりん:大さじ1(好みに応じて調整)
鶏ガラスープの素:小さじ1/2
豆板醤:小さじ1/2
水溶き片栗粉:適量

調理手順

  1. 木綿豆腐は縦半分に切り、さらに厚さ1.5センチメートル程度の一口大に等分し、すのこの上に載せて自然に水気を切る。(時間が足りない場合は、耐熱皿に載せてラップをかけずに電子レンジ(600W)で1分ほど加熱すると、迅速に余分な水分を抜くことができる。)

  2. 長ねぎは斜め薄切りにし、しめじは石づきを切り落として細かくほぐしておく。

  3. ボウルに片栗粉と薄力粉を混ぜ合わせ、水気をよく拭き取った豆腐の全面に均一にまぶす。

  4. 片栗粉と薄力粉を3対1の比率でブレンドするブレンド比が、揚げ焼きにした際のサクサクとした薄い衣を作る。

  5. 片栗粉のみでは衣が硬くなりすぎ、薄力粉のみではサクサク感が失われるため、両者を混ぜることで水分を適度に放出しつつ、軽やかでサクサクとした多孔質な衣を形成するからだ。

  6. フライパンにサラダ油を熱し、豆腐を並べて中火で焼く。

  7. この時、箸で頻繁に触らず、片面が自然にカリッとしてフライパンからはがれるまで、5分から6分かけてじっくり焼き、裏返して両面をこんがりと仕上げて皿に取り出す。

  8. フライパンの余分な油を拭き取り、ごま油を熱して長ねぎと豆板醤を炒め、香りが立ったらしょうゆ、みりん、水、鶏ガラスープの素、しめじを加えて中火で煮立てる。

  9. しめじがしんなりとしたら、水溶き片栗粉を回し入れてとろみをつけ、取り出しておいた豆腐を戻し入れて優しくタレと絡める。

  10. 器に盛り付け、好みで細ねぎを散らす。


次に再現するのは、清代末期の宮廷料理人である王豊年が考案したとされる、北京御膳房の伝統技法を用いた抓炒里脊抓炒(そうしょう)とは、肉を素早く揚げて甘酢ダレを瞬時に絡める技法であり、日本の一般的な酢豚よりも衣が軽く、冷めてもサクサク感が持続するのが特徴です。 この軽快な食感を実現するためには、衣の作り方とタレの濃度管理が重要です。ぜひ挑戦してみて下さい。

抓炒里脊

材料(2人分)

豚ヒレ肉(または豚ロース塊肉):250グラム
卵白:1個分
コーンスターチ:大さじ4
小麦粉:大さじ1
揚げ油:適量

下味

塩:小さじ1/3
酒(または紹興酒):大さじ1
生姜の絞り汁:小さじ1

甘酢タレ

砂糖:大さじ4
醸造酢:大さじ2
しょうゆ:大さじ1
水:大さじ2
コーンスターチ:小さじ1
ごま油:小さじ1

調理手順

  1. 豚肉は厚さ約5ミリメートル、幅2センチメートル程度の薄切りにする。

  2. ボウルの中で塩、酒、生姜の絞り汁を肉に揉み込んで10分間置いて下味を馴染ませる。

  3. 下味をつけた肉に卵白を加えて混ぜ、さらにコーンスターチと小麦粉、少々の水を少しずつ加えて、肉の表面にねっとりとした厚い衣が絡むように調整する。

  4. 揚げ油を170度に熱し、衣を纏った肉を一枚ずつ丁寧に油に入れ、衣が固まるまで約2分間揚げる。

  5. 一度取り出して油の温度を190度に上げ、肉を戻し入れて約30秒間二度揚げする。(この二度揚げを行う目的は、170度の一回目で肉の内部まで優しく熱を通し、190度の二回目で衣の水分を一気に気化させて内圧を高めることで、冷めても油が回らないサクサクとした食感を保証するため。)

  6. 別のフライパンに甘酢タレの材料をよく混ぜ合わせて一気に流し込み、中火で加熱して泡が大きく沸き立ち、透明なとろみがつくまで煮詰める。

  7. タレが十分に煮詰まったところへ、揚げたての肉を投入し、フライパンを素早く動かして肉の表面にタレを均一に絡める。

  8. 仕上げにごま油を回しかけ、すぐに皿に盛り付ける。

満漢全席の未来

確かに、かつての「満漢全席」は「贅を尽くした極彩色の宮廷料理の最高峰」と要約できてしまうかもしれません。

日本がバブル経済に沸いていた頃、多くの日本人が 「仿膳飯庄」を訪れ、数百万円を支払って三日三晩料理を楽しむというイベントに興じました。

しかし、本記事を読んでもらうとその一部が分かると思いますが、「満漢全席」とは、単に豪華な珍味を並べた料理というよりも、政治的、儀礼的、文化的なプロセスが相互に浸透し、複雑に絡み合って生まれた歴史的産物なのです。

単なる料理としての味や技術などの良い面ばかりではなく、むしろその誕生や運用の過程を知ることで、気軽に味わい、ただ楽しむだけのものでもないということも理解いただけたかと思います。

二つの民族が、争い、支配関係を築いた上で、文化の融合を果たし、双方の文化を取り入れながらも、歴史の潮流にもまれて消えていった、中国の歴史からすれば、ひと時の夢のような、一幕。

しかし、かつて満州族と漢族らは、確かに互いの文化を尊重し合い、そこに込められたシンボリズムを理解し、一つの文化の極みとも呼べる体系を作り上げたのです。

あなたが次に参加する宴席料理にも、もしかすると、さまざまな政治的、文化的な意味合いがあるかもしれません。

それを咀嚼するあなたが、そのシステムを受け継ぎ、そして、次の段階へと進めるのかもしれません。

時代の変遷とともに、変わっていくものや、消えていく文化というものがあります。

その記録から何を読み取り、我々の幸せとしていくのか、そんなことを考えながら、筆をおきたいと思います。

さぁ、山東料理シリーズ第一部はひとまずこれにて終了。

次は、「貴州料理」シリーズでお会いしましょう!


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甘口男Higene コーヒーが好きだ。とくにミルクコーヒー。外出の予定がない時は、これにハチミツ酒をひとさじ加えて飲む。これがまたすこぶるいい。それぞれの銘柄を変えると、がらりと味が変わる。どうだい?一杯おごってはくれないか?