エビデンス以前の問い──なぜ科学哲学者は医療を疑うのか
もし現在使われている薬剤のすべてを海の底に沈めることができれば、それは人類にとって良いことであり、魚にとっては悪いことだ。
ほとんどの公表された研究知見は偽りである。
はじめに
診察室で「この薬は効果が50パーセントあります」と言われたとする。多くの人は、自分が助かる見込みが半分ある、と受け取るだろう。だが、その「50パーセント」が、100人中50人を救う数字なのか、それとも100人中1人を救うのを「半減」と言い換えただけの数字なのか、確かめた人はどれだけいるだろうか。同じ「50パーセント」が、まったく違う現実を指していることがある。
ここで扱うのは、薬を飲むなという話ではない。現代医学が進歩したことは疑いようがない。CTもMRIもあり、かつて死んでいた病が治る。問題はもっと手前にある。自分が今飲んでいるこの薬は、本当に効いているのか。その「効いている」という確信は、どれほどの根拠に支えられているのか。
薬を疑うことと、医学そのものを否定することのあいだには、大きな距離がある。本稿はその距離を慎重に測る試みだ。コロナ禍を経て医療への不信が広く語られるようになったいま、感情的な反発でも盲目的な信奉でもない、第三の構えを探る。手がかりになるのは、一人の科学哲学者が積み上げた、冷静で執拗な論証である。
思考の道具としての懐疑——著者と書物
ジェイコブ・ステゲンガ(Jacob Stegenga)は科学哲学者である。臨床医でも活動家でもない。本書執筆時、カナダのユタ大学、ビクトリア大学を経てケンブリッジ大学に所属し、医学研究がどのようにバイアスを生み、証拠がどう評価されるかという、医学より一段メタな次元を専門としてきた。
主著『医療ニヒリズム』(原題:Medical Nihilism、2018年)の独創は、その手法にある。製薬業界の腐敗を告発する書物はすでに山ほどある。ステゲンガがやったのはそれとは違う。医学が自ら誇る厳密な科学的基準を取り上げ、その同じ基準を医学自身に向け直したのだ。反科学どころか、むしろ「もっと厳格な科学を」という要求として、医療への懐疑を基礎づけた。ここが多くの薬害本と決定的に異なる。
肝心なのは「医療ニヒリズム」という言葉の意味だ。これは「すべての医療が無効だ」という主張ではない。「医療介入が効くという確信を、私たちは現在広く持たれているそれよりもはるかに低く見積もるべきだ」という主張である。効く介入は確かに存在する。ただしその数は、世間の信頼に比べて圧倒的に少ない。著者が論証するのはこの一点に尽きる。
なお、本書の詳細な翻訳・要約はすでに原典の日本語版として公開されている。本稿はそれを前提としつつ、一般の読者に向けて論点を再構成し、現在の文脈に接続するものだ。
1 ペニシリンの幻影:特異的に効く薬という理想の解体
我々は魔法の弾丸を探さねばならない。我々は寄生虫を、可能なら寄生虫だけを撃たねばならない。
20世紀初頭、細菌学者パウル・エールリヒ(Paul Ehrlich)は、病原体だけを正確に撃ち、健康な組織には触れない薬を夢見た。彼はそれを「魔法の弾丸」と呼んだ。病気の原因をピンポイントで叩き、副作用を残さない理想の薬。ペニシリンや、糖尿病に対するインスリンは、確かにこの理想に近い。それらは特定の標的に作用し、劇的に効く。

問題は、こうした魔法の弾丸がきわめて稀だということだ。現代の薬の多くは、ひとつの標的だけを撃つどころか、体内のあちこちに同時に作用してしまう。たとえば抗精神病薬のアリピプラゾール(Abilify)は、数十種類もの受容体に結合する。ひとつの受容体が複数の経路に関わり、その経路が組織ごとに違う効果を生む。この入れ子になった複雑さを、ステゲンガは「カスケード的複雑性」と呼ぶ。薬は一発の弾丸ではなく、四方に飛び散る散弾に近い。
さらに、撃たれる側の身体も一筋縄ではいかない。生理学的なシステムには「ロバスト性」(多少かき乱されても元の状態に戻ろうとする頑健さ)が備わっている。心疾患も、2型糖尿病も、うつ病も、単一の原因で起きるわけではない。複数の要因が絡み合い、ひとつを薬で押さえても別の経路が穴を埋め、効果が相殺される。糖尿病薬ロシグリタゾン(チアゾリジン系)は、インスリン感受性を改善するとされたが、のちに心臓発作のリスクを高めることが判明した。標的を撃ったつもりが、思わぬ場所に着弾していたのだ。
ここで見えてくるのは、医療だけの問題ではない。複雑に絡み合った系を、単一の要素を操作することで思いどおりに制御できるという発想そのものの限界である。要素還元主義——全体を部品に分解し、部品をいじれば全体が変わると考える態度——が、生きたシステムの前で繰り返し躓く。
すでに参照してきた制度批判の系譜の隣に、もうひとつの鉱脈がある。統計学者・思想家のナシム・タレブ(Nassim Taleb)が論じた「医原性」(iatrogenics、医療行為そのものが引き起こす害)の概念だ。タレブは、複雑な系に良かれと思って介入すると、見えない害がしばしば見える益を上回ると説いた。彼の言う「介入しすぎる者」の罠は、ステゲンガの魔法の弾丸批判と同じ場所を指している。日本でも、複数の慢性疾患を抱える高齢者に薬が次々と上乗せされていく多剤併用(ポリファーマシー)は、まさにこの散弾の応酬になっている。
1909年、ある薬が誕生した。梅毒という当時の不治の病を一撃で治す「魔法の弾丸」として。だが、その薬は完璧とは程遠く、患者は何度も注射を打たねばならず、耐性も出現した。私たちは今も同じ幻想を追いかけていないだろうか。一つの病気に一つの特効薬。この魅力的な物語は、実は最初から破綻してい… pic.twitter.com/0BNjM1YZaA
— Alzhacker | 並行図書館 (@Alzhacker) June 9, 2026
2 NNT100の薬:100人が飲んで1人が得をする
骨粗鬆症の薬アレンドロネート(商品名フォサマックス)は、「股関節骨折のリスクを50パーセント減らす」と語られる。力強い数字だ。だが同じ事実を別の角度から述べると、印象は一変する。この薬を飲んでも、骨折を実際に免れるのは100人に1人にすぎない。残りの99人にとって、飲んでも飲まなくても結果は変わらない。専門用語で言えば、1人が恩恵を受けるために治療が必要な人数(NNT、Number Needed to Treat)が100である。
なぜ「50パーセント」と「1パーセント」という、これほど離れた数字が同じ事実を指すのか。前者は「相対リスク」、後者は「絶対リスク差」だ。もともと骨折する人がごくわずかな集団では、その「わずか」をさらに半分にしても、全体で得をする人数はほとんど増えない。だが「50パーセント減」と言えば大きく聞こえる。どちらの数字を選ぶかで、薬の見え方は自在に変わる。
測定の問題は、この指標選びだけではない。ステゲンガは、有効性の測定が三つの段階で歪むと指摘する。第一に、測る道具そのもの。うつ病の重さを測るハミルトンうつ病評価尺度(HAMD)は、眠れるようになった、そわそわが収まったといった項目でもスコアが下がる。だから鎮静作用のある薬を飲ませれば、肝心の気分が晴れていなくても「効いた」ように見える。
実際、抗うつ薬によるHAMDの改善は平均でわずか1.8ポイント、臨床的にはほとんど意味のない差だ。第二に、いま見た指標の選び方。第三に、試験の結果を現実の患者へ当てはめる「外挿」の段階で、試験対象と実際の患者の差(外的妥当性)が無視される。
エビデンスに基づく医療は、実は思ったほど信頼できない。2005年の調査では、一流医学誌に掲載された研究のうち再現に成功したのはわずか44%だった。
— Alzhacker | 並行図書館 (@Alzhacker) June 9, 2026
この数字は、医学界を1990年代から席巻してきた「エビデンスに基づく医療」の核心を突いている。この方法論は、ランダム化比較試験という… pic.twitter.com/7EMPURkYlI
これらの歪みが積み重なると、薬は実際よりも効くように見える。そしてアメリカの規制当局は、統計的に有意な結果を示す2つの試験があれば承認する。「統計的に有意」と「臨床的に意味がある」は別物だが、この基準はその差を問わない。
数字は中立ではない。どの指標を選ぶか、何を測るか、誰に当てはめるか——そのすべてに「語り口の政治」が働いている。リスク・コミュニケーションを研究したゲルト・ギーゲレンツァー(Gerd Gigerenzer)は、「100人中1人」のような自然な頻度で示せば、人は数字に惑わされにくくなると示した。
判断の自立性を保つ第一歩は、提示された数字の裏にある選択を見抜くことにある。健康診断のコレステロール基準、特定保健指導、検診を勧める広告——私たちが日々浴びている数字の多くは、効果が最も大きく見える語り口で整えられている。
医療記事『骨粗しょう症について知らされていないこと』中西部の医師https://t.co/68BdEVei0A
— Alzhacker | 並行図書館 (@Alzhacker) May 5, 2025
「ビスホスホネート系薬剤が集中する顎の骨は、自己修復能力が約90%も低下する。驚くべきことに、アメリカ歯科医師会は、ビスホスホネート服用患者への歯科手術を避けるよう会員に警告している」…
3 同じ試験、25通りの答え:メタアナリシスはなぜ一致しないのか
ほとんどの公表された研究知見は偽りである。
医学では、証拠に序列がある。専門家の意見が最下層にあり、観察研究、無作為化比較試験(RCT、被験者をくじ引きで治療群と対照群に分ける試験)と上がっていき、頂点には複数の試験を統合する「メタアナリシス」が置かれる。「メタアナリシスで証明された」と言えば、議論はそこで終わるはずだった。
だがステゲンガは、この頂点が揺らいでいることを示す。本来メタアナリシスは、どの分析者がやっても同じ結論に達する「拘束性」と、主観の入り込まない「客観性」を備えるべきものだ。現実はそうなっていない。
同じ主題を扱った複数のメタアナリシスが、正反対の結論に達することがある。理由は、分析の途中に無数の判断ポイントがあるからだ。どの研究を含め、どれを除くか。どの結果指標を使うか。研究の質をどの尺度で測り、どう重みづけするか。それぞれの選択で結論が動く。
数字がその深刻さを物語る。ある検証では、まったく同じ17の試験を25種類の質評価尺度で測ったところ、効果の推定値が最大117パーセントもばらついた。同じ材料から、二倍以上違う答えが出てくる。さらに、受動喫煙の害をめぐる106のレビューを調べた研究では、タバコ業界から資金を受けた分析者が「害はない」と結論する確率は、そうでない分析者の88倍に達した。107のRCTを調べた別の研究では、85パーセントで、被験者の割り付けが隠されていたかどうかすら不明確だった。
この変形可能性は、教科書のなかの抽象論ではない。コロナ禍のイベルメクチンをめぐる対立が、その生々しい実例になった。2021年初頭、テス・ローリー(Tess Lawrie)博士は、最前線COVID-19重症治療同盟(FLCCC、現場の集中治療医のグループ)が集めた臨床試験を独立に検証する迅速レビューとメタ解析を行い、イベルメクチンが死亡リスクを大幅に——無作為化試験だけを見れば83パーセント——減らすと結論した。
彼女はこの結果をもとに、同年2月、英国バースで国際的な臨床医を集めたイベルメクチン勧告開発会議(BIRD)を主催し、使用を勧告する。ところが、ほぼ同じ研究群を前にして、世界保健機関や各国の規制当局は正反対の判断に達した。エビデンスは不十分であり、推奨できない、と。
どちらが正しいかをここで決める必要はない。肝心なのは、同じ材料から公的に逆向きの結論が並び立ったという事実である。どの研究を残しどれを除くか、バイアスのリスクをどう測り、証拠の確実性をどう格付けするか——その判断のひとつひとつの違いが、結論を分岐させた。本書が一般論として描いた変形可能性が、人命のかかった場面でそのまま作動したのだ。
つまり証拠は、客観的事実をそのまま語ってはいない。証拠は常に、解釈の枠組みを通して構成される。査読の機能不全、研究資金の偏り、肯定的な結果ばかりが発表される出版バイアスを織り込めば、「科学的コンセンサス」という言葉の権威性そのものが点検の対象になる。
ここで、こんな声が聞こえてきそうだ。「結局それ、どんな研究も信用できないって相対主義に逃げ込んでるだけじゃないの?科学そのものを否定したら、何でもありになるだろ」。
そう読まれるのも無理はない。ステゲンガ自身は、変形可能性を暴くのは、いい加減でよいと言うためではなく、より厳密な科学を求めるためだと反論する。だが、評価のツールを精密にすれば食い違いが消える、という話で本当に片づくのだろうか。同じ証拠に複数の合理的な重みづけが併存しうる以上、曖昧さは技術では消せない。とすれば本当の問題は、その消えない曖昧さを誰が裁定するのか、という一点へ移る。
イベルメクチンの対立が露わにしたのも、まさにこれだった。どの試験を採り、どう解釈し、何を勧告するか——その権限は、一握りの専門家と、試験に資金を出す産業と、その産業に人と金で結ばれた規制当局に集中している。本書自身、証拠が都合よく出来すぎる原因を、利益相反の蔓延と、製薬会社の資金で運営される規制機関の構造的なバイアスに帰していた。規制する側が規制される側に取り込まれていく「規制の捕獲」(規制当局が被規制産業の利害に従属していく現象)であり、試験を設計し、データを握り、解釈を下す場所から、患者も市民も締め出されている。
だからこれは相対主義ではない。問われているのは認識論ではなく、認識をつくる権限が誰の手にあり、その過程がどこまで開かれているか、という政治の問題だ。疑うとは、結論の当否を裁く前に、それが誰によって、どんな利害のもとで作られたのかを問うことである。

4 効果は探し、害は探さない:試験設計の非対称
安全性はレーダー画面に映っていない。
薬の効果と害は、同じ熱意で調べられているわけではない。ステゲンガは、医療介入の有害性が概念・方法・社会のどの段階でも系統的に過小評価されると論じる。
まず試験の設計からして非対称だ。臨床試験には、効果を見つけ出す力(検出力)を最大化する設計が施される。だがその同じ設計が、害を見つける力を犠牲にする。両者はトレードオフの関係にあるからだ。たとえば、高齢者や複数の薬を併用している患者は、結果を複雑にするという理由で試験から除外されがちだ。ところが現実に薬を飲むのは、まさにそうした人々である。最も害を受けやすい層を外したデータから、害の小ささが「証明」される。
データそのものも消えていく。新薬を人に初めて投与する第1相試験のうち、約95パーセントは公表されない。有害な分子に関する情報は、表に出る前に静かに退場する。承認後はどうか。市販後に起きた副作用の報告は、推定で94パーセントが報告されないまま埋もれる。100件の有害事象のうち、記録に残るのはわずか6件という計算になる。
そして、把握された害さえ秘匿される。先に触れた糖尿病薬ロシグリタゾンは、メタ分析で心血管イベントが43パーセント増加すると示された。規制当局はこのリスクを以前から把握していたが、長く公表しなかった。誰かが大きな嘘をついたわけではない。試験から特定の患者を外し、未公表のデータを積み上げ、報告を受動的な仕組みに任せる——個々の手続きはどれも「合理的」に見える。その合理的な手続きの集積が、結果として害を見えなくする。
これは「責任の希釈」の典型である。巨大なシステムのなかで、誰も全体に責任を負わず、各人は持ち場の手続きをこなすだけだ。そして情報の非対称性——「大衆が知らないことを、内部の者は知っている」という構造——は、権力作用の核心をなす。検証が困難であること自体が、その構造の特徴なのだ。データが公表されないという事実そのものが、分析されるべき対象になる。
https://t.co/vkiP31f94e
— Alzhacker | 並行図書館 (@Alzhacker) May 3, 2026
「エビデンスのピラミッド」——あの三角形の図は完全に間違っている。そう言ったのは、エビデンスに基づく医療という言葉を1991年に作り出し、その運動を創設したゴードン・ガイアット本人だ。…
5 三つの低さの掛け算:有望な結果でも確信が上がらない理由
神は、人間が修理するためにその作品を創られたわけではない。
ここまで、医療の証拠が抱える弱点を別々に見てきた。魔法の弾丸の稀少さ、効果量の小ささ、メタ解析の揺らぎ、害を見つけない試験設計。一見、ばらばらの欠陥のカタログだ。だが本書の真価は、これらを一本の論理に束ねたところにある。著者はそれを「マスター論証(master argument)」と呼ぶ。
道具になるのは、ベイズの定理(新しい証拠を得るたびに、ある仮説の確からしさを計算し直す確率論の考え方)である。難しく聞こえるが、噛み砕けば、最終的な確信は三つの要素の掛け算で決まる、というだけのことだ。
想像してみよう。何でも大げさに褒める癖のある知人が、「あの店のラーメンは人生で最高だった」と熱弁してきたとする。あなたはどこまで信じるだろうか。まず、人生最高のラーメンにそうそう出会えるものではない。出発点の期待は、もともと低い。
次に、本当に最高なら、もっと具体的に、何度でも一貫して語るはずなのに、話はどこかふわついている。証言が主張を強くは支えていない。
そして何より、この知人はどんな店でも「最高」と言う癖がある。だから絶賛という証言は、店が平凡でも出てくる。
結局、熱弁を聞かされても、その店が本当に絶品である見込みは、思ったほど上がらない。ベイズの定理がやっているのは、この日常の勘定を整理しただけのことだ。

薬の効きめについても、問いはそっくり同じになる。
第一は、証拠を見る前の見込みである。ある薬が効くと、はじめから期待してよいか。歴史を振り返れば、瀉血からロフェコキシブ、ロシグリタゾンまで、有望とされた介入が後に無効や有害と判明した例は数えきれない。最も引用された45本の医学論文のうち、14本が後に反証され、11本が再現に失敗した。出発点の見込みは、もともと低い。
第二は、もし本当に効くとして、これほどの証拠しか得られないものか、という問いだ。効果量は軒並み小さく、研究ごとにばらつく。本当によく効く薬なら、もっと一貫して、もっと大きな差が出るはずではないか。小さくぶれる結果は、「効く」という仮説をさほど強くは支持しない。
第三が、最も重要だ。その証拠自体が、どれほど出やすいか。バイアスと利益相反が蔓延した世界では、薬が実際には効かなくても、「効いた」という証拠は容易に生み出される。肯定的な結果だけが発表され、製薬会社の書いた論文に医師が名前を貸し、不都合なデータは秘匿される。だから「有望な試験結果」という証拠そのものの出現確率が、本来あるべき水準より水増しされている。
この三つを掛け合わせるとどうなるか。事前の見込みが低く、効くという仮説のもとでの証拠の出方も振るわず、そのうえ証拠自体がバイアスで膨らんでいる。ベイズの定理は、この条件では結論——証拠を見た後に「効く」と信じてよい度合い——が低くとどまると告げる。どれほど華々しい試験結果が飛び込んできても、その分を差し引けば、薬が本当に効いている確率は低いままなのだ。これが医療ニヒリズムの、いわば数学的な骨格である。

著者自身、この定式化に厳密な数値を入れられないことは認めている。これは電卓で弾く計算ではなく、思考の向きを指す羅針盤だ。
それでも、針がどの方角を指すのか、仮の数字を当てはめて確かめることはできる。以下は著者の主張ではなく、低さを可視化するための粗い試算にすぎない。1000種類の新薬候補を思い浮かべよう。
第一のフィルター、事前の見込みだ。過去の無数の失敗と魔弾の稀少さを踏まえれば、このうち臨床的に意味のある効果——飲んだ人がはっきり得をする、NNTの小さな効果——を本当に持つのは、せいぜい2パーセント、20種類ほどだろう。残る980種類は、見かけはどうあれ中身が伴わない。
第二のフィルター。その20種類にしても、効果が小さくばらつくせいで、試験できれいな陽性が出るのは4割、8種類ほどにとどまる。
第三のフィルター。ところが、中身の伴わない980種類のうちでも、出版バイアスや都合のよいサブグループ解析、試験対象の偏りによって陽性が出てしまうものが、3割、294種類も紛れ込む。
机の上に積み上がった「有望な結果」は、8と294を合わせて302種類。本物はそのうち、わずか8種類だ。有望な結果をひとつ拾い上げたとき、それが本物である確率は、8割る302で、およそ2.7パーセント。100回に3回にも満たない。バイアスで水増しされた294という偽物の山が、8という本物をほとんど覆い隠してしまう。

もちろん、これらの数字に客観的な根拠はない。だが構図そのものは頑健だ。事前の見込みを5倍に甘くし、偽陽性をいくらか減らしても、確率は一桁から十数パーセントのあたりをさまようだけで、半々にさえほど遠い。
効くという見込みの低さ、効果の小ささゆえの検出の難しさ、そして証拠の水増し——この三つのフィルターが掛け合わさるという構図は、数字を多少動かしてもびくともしない。この単純な掛け算が、華々しい研究発表の裏で、私たちの効くという確信をたやすく一桁のパーセントへと沈めてしまうのである。
6 相対リスク・データ秘匿・市販後監視:見覚えのある三点
今日の臨床研究の多くはもはや信じることができない。
『医療ニヒリズム』が出たのは2018年、コロナ禍の前である。それでもなお、本書が描いた歪みの構造は、その後に起きた事態と驚くほど重なる。本書を予言として読むのは誤りだ。そうではなく、平時から作動していた構造が、非常時に可視化されただけだと読むのが正確だろう。
三つの点で見覚えがある。
第一に、相対リスクによる有効性の表示。mRNAワクチンの効果は、当初「リスクを95パーセント減らす」という相対リスクの形で広く伝えられた。前に見たアレンドロネートと同じ語り口だ。同じデータを絶対リスク差で表すと、別の数字が現れる。どちらが正しいという話ではなく、どちらの語り口を選ぶかが受け手の印象を決める、という点が重要である。
第二に、データ秘匿。臨床試験の生データ公開が長期にわたって制限された経緯は、本書が一般論として描いた「データはどこへ消えるのか」の問題そのものだ。
第三に、市販後監視。有害事象の監視が受動的な報告(VAERS)に依存する以上、第4章で見た過小報告の構造はここでも働く。
ロックダウンについても同じ論理が当てはまる。本書は、社会経済的な損害を測らないまま単一の指標で介入を評価する手法を批判していた。感染を減らすという一面だけを見て、失業、教育の中断、自殺、受診控えを計上しない評価は、第4章で見た非対称の拡大版である。
これらの被害は、経済学が「外部性」と呼ぶもの——ある行為が、その当事者の外へ転嫁する、帳簿に載らない負の効果——にあたる。狭く定義した一つの目標だけを最大化し、その達成のために周囲へ押し出される損失は勘定に入れない。
この型は医療に固有のものではない。近代の進歩がくり返してきた構造そのものだ。利益は私有化され、損失は社会へ転嫁される。ロックダウンの評価がこぼし落としたのは、まさにこの計上されない負の外部性だった。疫学者のジェイ・バタチャリア(Jay Bhattacharya)やヨアニディスが試みた社会経済的損害の分析は、その外部性を片側だけの帳簿から救い出す作業だったと言える。
開示が不十分だったという事実は、それだけでは「だから害があった」の証明にはならない。だが、だからといって、効くと信じたい立場と効かないと疑う立場を、対等な二つの願望として並べるのは事実に反する。
手続きの歪みは、中立に分布してなどいない。どの数字を相対表示で大きく見せるか、どの生データを開示し、どれを伏せるか、どの害を熱心に探し、どれを試験設計から外すか——その選択肢を握っているのは、つねに介入を推進し、そこから利益を得る側である。第3章で見たイベルメクチンでは、逆に、安価で特許の切れた薬の証拠のほうが抑圧された。歪みの向きは気まぐれではない。同じ受益者の方角へ、系統的に傾いている。
7 「養生」の思想と治療的謙虚さ
彼は枕を回したり、患者に適時の水を飲ませたりするだけで、その苦痛を和らげるのだ。
では、この懐疑はどこへ着地するのか。ステゲンガの答えは「優しい医療」(gentle medicine)である。介入を控え、処方を減らし、消費を減らす。治療しないことを選択肢として正面に置く態度だ。
これは精神論ではなく、データに支えられている。平均7.7種類もの薬を飲んでいた高齢患者に減薬プログラムを適用したところ、薬を減らしたことで88パーセントが健康状態の改善を報告した。足すのではなく引くことで、人は元気になった。
冠動脈疾患の再発予防では、運動と薬剤を比べたメタ分析で死亡率に差がなく、脳卒中の患者ではむしろ運動のほうが死亡率を下げた。著者は、研究の優先順位を魔法の弾丸の探索から、社会経済的な要因——所得格差や労働環境が健康を左右するという社会疫学の知見へ——大きく転換すべきだと説く。
引き算の発想は、新しいものではない。江戸期の儒学者・貝原益軒は『養生訓』(1713年)で、薬や医者に頼る前に、日々の節制と自分の身体への観察を置いた。むやみに薬を用いることをいましめ、病を未然に防ぐ生活そのものを養生と呼んだ。

福岡正信が耕さず除草せず農薬も使わない自然農法で「やらないことで実る」を示したように、医療にも「介入しないことが最善でありうる」領域がある。日本で広がる「クスリに頼らない」志向や、東洋医学の「未病」の考え方は、この系譜の現代的な現れだろう。
冒頭のホームズやビゲローが体現したこの「治療的ニヒリズム」は、何もしない怠慢ではなく、効くかどうかわからないものを効くと偽らない誠実さだった。引き算は、医学が自らの限界を知ったときに選ぶ、最も成熟した処方なのかもしれない。
結論:疑うことは、より良く信じるための作法である
医学の技術が愛されるところには、そこには人間性への愛もある。
医療ニヒリズムという言葉は、反医療の旗のように響く。だが、ここまで辿ってきた論証が指すのは、その正反対の場所だ。これは過剰な信頼を、適正な信頼へと引き戻す運動である。効く介入が稀だからこそ、その稀な魔法の弾丸を見分ける目が要る。確信の量を減らすことは、判断の質を上げることと同義なのだ。医療を疑う作法は、医療を捨てる態度の対極にある。
では、明日から何ができるのか。専門家への全面委任でも、全面拒否でもない、第三の構えがある。次に「効果がある」と言われたとき、いくつかの問いを立てればいい。
その数字は相対表示か、絶対表示か。
何人が飲んで1人が得をするのか(NNT)。
害は、益と同じ熱意で探されたか。
元になった生データは、検証できる状態にあるのか。
この四つを問うだけで、語り口に丸め込まれる確率はぐっと下がる。
コロナワクチンで検証してみよう。
有効性95%は相対リスク減少率であり、絶対リスク減少率は1%未満。
NNTは100人を優に超える。当初のエンドポイントは「症候性感染」だったが、市販後に「重症化予防」へと説明がすり替わり、そのNNTは最後まで示されなかった。
有害事象の収集は自発報告に依存し、VAERSには過去の全ワクチン報告数を超える有害事象が殺到した。益と同じ熱意で害は探されなかった。
ファイザーは治験生データの開示期限を75年後と設定。裁判所命令で前倒しされたが、墨塗りだらけで独立した再解析は今も不可能だ。
四つの問いを立てるだけで、効くと信じたい欲望が検証を阻む構造が浮かび上がる。
疑うことは、より良く信じるための作法にほかならない。判断の自立性とは、難解な統計を解くことではなく、こうした問いを手放さないことだ。
そして射程は、医療の外へも伸びる。過剰な介入が本来の目的を裏切るという逆生産性の構造は、医療に固有のものではない。一定の規模と速度を超えた介入が、かえって自律を損なう。
教育が学びを妨げ、交通が移動を奪い、専門家が素人の本来の力を取り上げる——本書を、薬の話としてだけでなく、複雑な系へ手を加えること一般を問い直す入口として読むこともできる。相互依存のなかで各人の自律的な営みが最大化される、その配置を取り戻すこと。減薬の思想は、社会そのものへの引き算の作法へと開かれている。
私たち一人ひとりが「効くと宣伝されている薬は、本当はほとんど効かないかもしれない」という視点を持ち、不必要な薬を減らし、生活習慣や社会環境の改善に目を向けること――それこそが「優しい医療」の第一歩なのかもしれない。
繰り返すが、この本は「医療は全部無駄だ」と言っているのではない。インスリンは素晴らしい。抗生物質もそうだ。しかし、スタチンやSSRI、血圧の薬といった「現代の大衆薬」のほとんどは、私たちが信じているほどには効かない。そしてその「効かない」という事実は、変形可能な研究方法と巨大な金銭的利益によって巧妙に隠されている。そうした構造を直視すること――それがこの本の最も重要なメッセージだと私は理解した。
参考資料
ジェイコブ・ステゲンガ『医療ニヒリズム』(原題:Medical Nihilism、Oxford University Press、2018年)
ジョン・P・A・ヨアニディス「なぜほとんどの公表された研究知見は偽りなのか」(原題:Why Most Published Research Findings Are False、PLoS Medicine、2005年)
マーシャ・エンジェル『ビッグ・ファーマ 製薬会社の真実』(原題:The Truth About the Drug Companies、2004年)
ナシム・ニコラス・タレブ『反脆弱性 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』(原題:Antifragile: Things That Gain from Disorder、2012年)
ゲルト・ギーゲレンツァー『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法』(原題:Calculated Risks: How to Know When Numbers Deceive You、2002年)
貝原益軒『養生訓』(1713年)
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