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ヒポクラテスの盲点 パート2:映画が踏み込まなかった「因果関係」の政治的盲点

科学は純粋で、政治は汚いというのは錯覚である。科学こそが最も政治的な行為なのかもしれない。

— ブルーノ・ラトゥール(科学社会学者)

映画館を出た後、頭の中で「因果関係」という言葉がぐるぐると回っていた。ドキュメンタリー「ヒポクラテスの盲点」で何度も耳にしたこの言葉は、明らかに重要なキーワードとして扱われていたが、一方で結局「因果関係」が何なのか、難しそうだというイメージを除いてよくわからなかった。そして、ワクチン被害の問題に長年接してきた経験から言えば、この「因果関係」(のプロセスと定義)こそが、被害者と加害者の間で最も激しく争われる戦場なのだ。

あなたも日常の中で「それって本当に関係あるの?」と疑問に思った経験があるはずだ。その疑問の背後には、実は深い政治的な構造が隠れている。今回は、この因果関係というものが、いかに政治的に操作され、利用されているかを一緒に探ってみよう。

著者・文献紹介

今回参考にした主な文献は、イタリアのヴェローナ大学医学部のパオロ・ベラヴィーテ(Paolo Bellavite)教授による2020年の総説「予防接種後有害事象の因果関係評価:多因子病理の問題」である。300以上の著書があり、そのうち168は「PubMed」データベースでレビューされている。イタリアのトップ科学者」の一人で、Hインデックスは54。ベラヴィーテ教授は免疫学と病理学の専門家として、ワクチン安全性評価の構造的問題を医学的見地から厳しく批判している。

パオロ・ベラヴィーテ

また、社会学者フィル・ブラウン(Phil Brown)の著書『有害物質の暴露:争われる病気と環境保健運動』や、政治学者ジャンドメニコ・マジョーネ(Giandomenico Majone)の『政策過程における証拠、議論、説得』、そして疫学者ナンシー・クリーガー(Nancy Krieger)の因果関係をめぐる社会疫学的研究も重要な視点を提供している。

これらの研究者たちは、一見科学的で中立に見える「因果関係」の概念が、実際には政治的・社会的に構築されるものであることを明らかにしている。本記事では300年以上の医学史の中で蓄積された知見を踏まえつつ、現代のワクチン被害認定システムの問題を多角的に検討していく。

因果関係の「客観性」という神話が崩れる瞬間

因果関係は発見されるものではなく、構築されるものである。

— イアン・ハッキング(科学哲学者)

「相関関係は因果関係ではない」という、聞きかじった言葉を信じている方も多いだろう。この言葉は少々ミスリーディングでもある。より正確には「相関関係が因果関係であるとは限らない」と言うべきだ。相関関係から始まり、様々な証拠を重ねて因果関係に変わっていくことがあるからだ(真の相関)。一方で、因果が見つからないこともある(偽相関)。相関関係は因果関係を見出すための「仮説的関係」なのだ。

だから、相関関係という理由だけで因果関係の可能性を否定することはできない。問題はここからだ。では、どのような理由が積み重なれば、因果関係に変わるのだろうか。 因果関係は確かに複雑な概念だ。そもそもそんなものは現代科学に存在しないという意見さえある。そして、ここに、政治的な理由が忍び込む要素が生まれる。

多くの人は「因果関係」と聞けば、実験室で白衣を着た研究者が客観的に判定する科学的事実だと想像するだろう。しかし現実は全く違う。因果関係の認定は、極めて政治的なプロセスなのだ。

ベラヴィーテ教授の研究が明らかにしているのは、現在のWHO(世界保健機関)による因果関係評価システムが、最初からワクチンの関与を除外する方向に設計されているということだ。具体的には、「他の原因」があればワクチンとの因果関係を否定する構造になっている※1。

※1 例えば心臓疾患を持つ子どもがワクチン接種後に死亡した場合、心臓疾患という「他の原因」があるため、ワクチンが引き金となった可能性は考慮されない。

これは医学的に見て明らかにおかしい。人間の身体は複雑なシステムであり、複数の要因が相互作用して病気が発生する多因子病理が普通だからだ。遺伝的素因があっても、環境要因が引き金となって発症するケースは無数にある。

「だからといってワクチンが原因とは限らないのでは」と思う人もいるだろう。その疑問はもっともだ。しかし問題は、現在の評価システムがその可能性を検討することすらしていない点にある。科学的探究ではなく、結論ありきの除外システムになってしまっているのだ。

実際、ドイツでは6価ワクチン(Hexavac)接種後の乳児死亡例が「偶発的なSIDS(乳幼児突然死症候群)」として処理され続けている。時間的近接性があるにも関わらず、である。スリランカやベトナムでも同様の事例が報告されているが、WHOの専門家は一貫してワクチンとの関連を否定している。

WHOアルゴリズムに仕込まれた8つの「過小評価装置」

「因果関係は客観的な科学的概念である」という信念は、権力者にとって最も便利な錯覚の一つである。

— デヴィッド・マイケルズ(元米国労働安全衛生庁長官)

2018年の研究論文「予防接種後の有害事象に関する世界保健機関(WHO)の因果関係評価の改訂-批判」は、WHOの新しい評価システムに組み込まれた8つの意図的な過小評価メカニズムを明らかにしている。

これらは偶然ではない。システマティックな設計なのである。以前は「可能性が高い」とされた事例が、新分類では「因果関係なし」と判定されるようになった。これは評価基準が厳格になったのではなく、判定の枠組み自体が変更されたことを意味している。

特に問題なのは、重大な有害事象が初めて報告された場合の扱いだ。疫学研究で証明されていないという理由で「偶発的」とされ、ワクチンとの関連が検討されることもない。つまり、新しい副反応は永遠に発見されない構造になっている。

「科学的証拠」という名の情報操作システム

証拠は中立的なデータではない。証拠は誰が、何のために、どのように収集し、解釈するかによって全く違う意味を持つ。

— シーラ・ジャサノフ(科学技術政策研究者)

WHOアルゴリズムのもう一つの大きな問題は、「文献上で関連性が否定されている」という理由で個別症例の因果関係を否定することだ。しかし、その「科学文献」自体に大きなバイアスが存在することは見過ごされている。

ワクチン安全性試験では、真のプラセボ(生理食塩水など)ではなく、アジュバント(免疫増強剤)を含む対照群が使用される。これは科学的に見て問題のある設計だ。アジュバント自体が副作用を起こす可能性があるため、真の安全性を評価できないからだ。

言いかえれば、試験で安全性をごまかしたければ、アジュバントを使えばいいという論理がなりたつ。詳しくは以下の記事を参照。

また、臨床試験で報告された有害事象でも、製薬企業が規制当局に報告する際に情報が恣意的に削除・修正されている可能性が指摘されている。HPVワクチン接種後の慢性疲労症候群がその典型例だ。臨床試験で報告されていたにも関わらず、製造企業が安全性データを意図的に操作し、因果関係が否定された。

「陰謀論で言われていることじゃなかったのか?」と思う人もいるかもしれない。残念ながら、これは査読付き学術論文で指摘されている具体的事実だ。製薬業界の利益相反問題は、医学界でも広く議論されている現実なのだ。

製薬会社の臨床試験における統計解析には、さらに巧妙な操作技法が多く存在する。ごく一例に過ぎないが修正治療企図解析(mITT)では、特定基準を満たす参加者のみを分析に含めることで効果を過大評価できる。サブグループ解析を過剰に行い、都合の良い結果のみを報告する手法も常套手段だ。

因果関係認定の「政治的DNA」を解読する

因果関係の物語は、政策議論において戦略的に用いられる言説的ツールである。

— ジャンドメニコ・マジョーネ(政治学者)

社会学者フィル・ブラウンが『有害物質の暴露』で明らかにしているように、環境由来疾患の因果関係をめぐる論争は、単なる科学的問題ではない。政治的・経済的利害関係によって形作られる社会的プロセスなのだ。

企業や政府機関は、自らの責任を回避するために因果関係の不確実性を戦略的に強調する。一方、患者や市民団体は自らの経験と独立した研究に基づいて因果関係を主張してきた。この構図は、ワクチン被害をめぐる対立でも全く同じだ。

疫学者ナンシー・クリーガーが指摘するように、疫学研究自体が社会的・政治的影響を受けやすい。どの要因に着目し、どのようにデータを解釈するかは、研究者のバイアスや資金提供者の利害関係に左右される。健康の社会的決定要因(社会経済的地位、人種、ジェンダーなど)は、因果関係分析において重要な役割を果たすが、しばしば軽視される。

実際、因果関係が認められやすい疾患と認められにくい疾患には明確なパターンがある。発症までの潜伏期間が短く、特異的症状があり、発症率が高い疾患は因果関係が認められやすい。一方、潜伏期間が長く、非特異的症状で、多因子が関与する慢性疾患は認められにくい。

これは「測定の難しさ」に起因するものであって、客観的な事実であるかどうかという問題とは本質的に関係がない(時代遅れの実証主義を信奉しない限り)。そして、言うのもためらわれるが…完全犯罪を行いたいなら、「相乗作用」によって「様々な病気」になる「遅効性の毒」を使えばいい——そう、思い浮かぶのは4文字の言葉だ。

「自閉症とワクチンの関連が否定されるのはそういうことなのか」と理解する人もいるだろう。発達障害や自己免疫疾患のような複雑な病態は、現在の評価システムでは構造的に過小評価される仕組みになっている。ここで起こっていることは「客観的な事実」についての争いではなく、「政治的に有利な」基準の位置取りゲームだ。

「Cワード」禁止令:科学界の自己検閲システム

因果関係を禁止された言葉として扱うのをやめる必要がある。観察研究では因果関係を確実に証明できないが、この発言は的外れである。

— 疫学研究論文『Cワード:科学的婉曲表現は観察データからの因果推論を改善しない』(2018)

医学界には興味深い現象がある。「因果関係」(Causal)という言葉を避ける暗黙の圧力だ。これは「Cワード」と呼ばれ、立派な研究者が人前で言ったり論文に載せたりしない「汚い言葉」として扱われている。

この自己検閲は、科学にとって有害だ。因果関係の推測は科学の中心的課題であるにも関わらず、それについて明示的に議論できなければ、多くの観察研究の目標は遠回しにしか表現できない。結果として、方法論に関する率直な議論が阻害され、必然的に誤りが生じる。

実際、ランダム化比較試験(RCT)は倫理的・実践的理由から実施できないことが多い。ディーゼル排気ガスへの曝露研究で人を意図的に曝露群に分けることはできないし、チェルノブイリ原発事故のような過去の事象の影響を調べる場合も無作為化は不可能だ。

19世紀のスノーによるコレラ研究は、観察研究だけでも実践的対策の根拠として十分であることを示している。井戸の汚染とコレラ発生の因果関係を観察研究で発見し、実際に感染予防に成功したからだ。

「でも、やっぱり実験的証明が必要でしょ?」という意見も理解できる。確かに因果関係の確実な確立には複数のアプローチによる検証が重要だ。しかし、観察研究を過度に軽視することで、重要な健康リスクの発見が遅れる危険性もある。

複雑系としての人体:還元主義の限界を超えて

蝶々が羽ばたくと嵐が起こる。人間の身体も同じように、小さな変化が予想もしない大きな影響をもたらすことがある。

— エドワード・ローレンツ(カオス理論の父)

現代医学の最大の問題は、過度な要素還元主義的アプローチにある。複雑なシステムを単純な要素に分解し、個別に分析しようとする姿勢だ。しかし人間の身体は、複数の要因が相互作用する複雑系である。

アルツハイマー病を例に考えてみよう。原因は遺伝的なもの、炎症的なもの、タンパク質異常など様々な要因が考えられている。それらが複雑に絡み合って発症する多面的疾患だ。これが私がサイト開設当時から訴えてきたことだ。悪性腫瘍も同様で、腫瘍の種類によって特徴、発生パターン、原因が異なり、遺伝的体質、環境的誘因、免疫反応の不全など複数の原因が関与することが多い。

このような疾患に対して「アミロイドだ!」「タウだ!」「これが唯一の原因だ」と決めつけることは、科学的に見て不適切だ。しかし現在のワクチン安全性評価システムは、まさにこの「単線的因果論」に基づいている。

例えば、小さな雪崩を考えてみよう。斜面に積もった雪は、気温、積雪量、雪質、地形など無数の要素の微妙なバランスの上で安定している。そこにスキーヤーが一人、斜面を横切っただけで、大規模な雪崩が引き起こされることがある。雪崩の原因を「スキーヤーだけ」と特定することはできるだろうか?確かにきっかけではあったが、根本的には不安定な状態が既に形成されていたからだ。

これをワクチンの文脈で考えるとどうなるか。もし毒のメカニズムが身体の「代謝の不安定化」に関わるものであるならば、単線的な認定基準と組み合わせることで、永遠にワクチンとの因果関係を否定することができる

また、同じ薬でも人によって効果や副作用が全く違うし、同じストレスでも体調を崩す人と平気な人がいる。この個人差も、画一的な因果関係認定によって否定が可能になる。

ワクチン接種後の有害事象も、接種者の遺伝的素因、免疫状態、併用薬、生活環境など無数の要因が関与する。これらの相互作用を無視して「他の原因があるからワクチンは無関係」と断定するのは、科学の名を借りた無責任な逃げであり、被害者の苦しみを無視した不正義である

冒頭でも述べたように、「因果関係」自体は確かに難しい概念だが、「因果関係のプロセス」がおかしいということを理解することは、それほど難しいことではない。映画では「難しさ」が強調され、2つの概念が明確には区別されていなかったが、そうではない。後者は、丁寧に説明すれば中学生でも理解できる話である。

偶然にも?コビッドワクチン(およびスパイクタンパク質)は全身をめぐり、驚くほど多彩な病気や症状を引き起こすことが明らかになっている。

予防原則の逆転:「疑わしきは安全」の危険な論理

通常の医療判断では予防原則が適用される。「疑わしい場合は慎重に対応する」が基本だ。しかしワクチンに関しては、映画でも触れられていたように、この原則が完全に逆転している。疑わしい場合でも「安全」と判断し、接種を続行する姿勢が貫かれている。

この逆転現象は偶然ではない。ワクチン政策が公衆衛生政策と密接に結びついているため、個別の健康リスクよりも集団接種の継続が優先されるシステムになっている。

しかし、昨日の記事で書いたとおり、医学倫理の基本原則である「まず害をなすなかれ」(First, do no harm)に反している。個人の健康被害を看過してまで集団政策を優先することは、医学的にも倫理的にも正当化されない。

そもそも論として、もし、因果関係の認定がそれほど難しい代物なのであれば、なぜ、そのことを接種前に知らされなかったのだろうか?これは、以前からずっと抱いていた疑問だ。もし「因果関係」は難しいという言葉でごまかし続けるのであれば、当然のこととして事前にその難しさを伝え同意(インフォームド・コンセント)を得るべきではないだろうか。

さらに、因果関係が難しいと言いながら、接種と投与の関係性については、再現性の低いRCT(無作為化比較対照試験)を根拠に、因果関係を簡単に認めて投与を正当化している。二重基準をあてはめるなら「予防原則」(ヒポクラテスの誓い)に基づいて、投与の側に高いハードルを設けるべきだが真逆のことが起こっている。これらに「因果関係は難しい」という専門家の論理的矛盾があることは明らかである。

市民参画による認定プロセスの民主化へ

最も、重要なのは「絶対的な因果関係」を求めることではない。むしろ、因果関係認定プロセス自体の「透明性」と「公正性」を確保することだ。誰が、どのような「基準」で、どのような利害関係の下で判断を行っているかを明らかにすることが先決である。(最終的にはこのプロセスは独立した専門家だけではなく、市民が介在していかなければならないと考えている。)そして、現在のワクチンの因果関係認定プロセスには、透明性も公正性も存在しない

最後に、映画「ヒポクラテスの盲点」が焦点をあてた「因果関係」は、映画としては扱いにくい題材だ。少々批判ぽく聞こえるタイトルをつけはしたものの、この映画は社会的に重要な仕事を果たしている。改めて監督をはじめ、関係者の方にお礼を申し上げて、この記事を終わりにしたい。

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