相互扶助の設計図——備蓄が尽きた後に生き残るコミュニティ(並行社会)の作り方
私たちの権力のなさという幻想だけが、権力者を権力の座に留めている。自由と結びつきの一瞬が、一生分の社会的条件づけを解き、千の方向に種を撒くことができる。
今日、私たちの多くは人類史上もっとも原子化された社会に暮らしている。それは私たちの生活をより不安定にし、不正な状況を大規模に変革するために共に組織する能力を掘り崩す。
種を蒔くことはできた(前記事『Grow or Die』で論じたとおり)。災害時に人間が助け合うことも、歴史が証明していた。では——この社会で、具体的に、どうやって連帯の回路を起動するのか。
「コミュニティを作れと言われても、マンションの隣人の名前すら知らない」。前二記事に寄せられた批判的なコメントの多くが、この一点に収斂していた。従来の共同体は破壊された。お互いを敵視している。特に都市部では、連帯は妄想に近い——。
反論するつもりはない。その診断は正しい。だが「正しい診断」と「治療法がない」は同義ではない。
〈肥料も電力もない世界で家族を養う方法——サバイバル園芸の実践教本『Grow or Die』〉で食糧生産能力という「物質的基盤」を、〈飢餓の時代に隣人は敵か味方か——災害が暴く人間の本性〉で人間の協力本能という「社会心理的基盤」を論じた。
三部作の最後のピースは「組織的基盤」——原子化された社会で相互扶助をどう設計し、どう運営するかの実践論である。COVID-19パンデミックのさなかに書かれた一冊の薄い本が、驚くほど具体的な回答を用意している。
著者と書籍
ディーン・スペイド(Dean Spade)は、シアトル大学ロースクール教授で、2002年にシルヴィア・リヴェラ法律プロジェクト(SRLP)を設立した法学者・活動家だ。SRLPは低所得層に無料の法律支援を提供する団体で、スペイドはここで17年間にわたり、ボランティアベースの組織運営、合意形成、内部対立の処理を日常的に実践してきた。理論家であると同時に、組織の現場を知る人間である。

本書『相互扶助:この危機(と次の危機)に連帯を築く』(Mutual Aid: Building Solidarity During This Crisis (and the Next), 2020年)は、COVID-19パンデミックの渦中にVersoから刊行された。相互扶助の歴史・理論・実践を一冊に凝縮した入門書であり、チャートやチェックリストを豊富に含む実践マニュアルでもある。
知的系譜としては、クロポトキンの『相互扶助論(Mutual Aid: A Factor of Evolution)』(1902年)が「人間は本質的に協力する」という生物学的・歴史的根拠を示し、ソルニットの『災害ユートピア(A Paradise Built in Hell)』(2009年)が「災害時に相互扶助の共同体が自発的に立ち上がる」ことを実証した。スペイドの本書は、その系譜の先端に位置しながら、問いの焦点を決定的にずらしている。「人間は助け合うか」ではなく「助け合いの組織をどう設計し、どう維持し、どう権力による回収から守るか」。前二者が「なぜ」を論じたのに対し、スペイドは「どうやって」を論じる。
1. 相互扶助の三要素——慈善でもボランティアでもないもの
BCP(子どもの朝食プログラム)は、BPP(ブラック・パンサー党)にとって現在進行形で最良にして最も影響力のある活動であり、当局がBPPを無力化し破壊しようとする努力にとって、潜在的に最大の脅威を代表する。
1969年、FBIが国内最大の脅威と見なしたのはテロリストでも外国のスパイでもなかった。子どもに朝食を配る人々だった。
ブラック・パンサー党の無料朝食プログラムは、1960年代後半から70年代を通じて運営された。無料の朝食、無料の救急車、無料の医療クリニック、高齢者の外出付き添い、子どものための解放教育学校。これらは単なる福祉事業ではなかった。朝食を受け取りに来た人々は、食事をしながら「なぜ自分たちの子どもは朝食を食べられないのか」という構造的問いに触れた。恥から怒りへ、孤立から連帯へ。無料の朝食は、意識変容の触媒として機能していた。

FBIがこれを「最大の脅威」と認定した事実は、逆説的に、相互扶助の政治的威力を証明している。プログラム開始予定日の前夜、シカゴ警察は会場となる教会に侵入し、すべての食料に放尿した。それでもプログラムは各地に広がった。連邦政府は最終的にこれを「回収」する道を選ぶ。1970年代初頭、米農務省は連邦レベルの無料朝食プログラムを大幅に拡大した。ただし、ブラック・パンサー党のモデルとは決定的に異なる形で。
党のプログラムでは、朝食を食べながら「なぜ自分たちの子どもは朝食を食べられないのか」という話し合いが自然と生まれていた。不況、人種差別的な雇用、公的扶助の削減——参加者は個人的な不幸を構造的な不正と結びつけて理解するようになった。ところが、国が運営する新たなプログラムでは、食事の提供は「栄養改善事業」として切り離され、配膳は専門の職員が行い、受益者は黙って食べるだけの存在に置かれた。貧困の原因を問う発言は「政治活動」として排除され、食事と「なぜ」の切断が制度として徹底された。
朝食の数は全国で劇的に増えた。しかし、その瞬間から、無料朝食は「解放のための共同行動」から「国が与えるサービス」へと変質した。構造的原因への問いかけを注意深く除去した上で、食事だけを提供する制度——それこそが、権力にとって最も都合の良い「回収」の方法だった。
スペイドはここから相互扶助の三つの核心的要素を抽出する。
第一に、相互扶助は生存ニーズを満たしながら、そのニーズが満たされない構造的原因についての「共有された理解」を構築する。朝食を配るだけでなく、なぜ朝食がないのかを共に考える。
第二に、相互扶助は人々を動員し、連帯を拡大し、運動を構築する。孤立した個人を結びつけ、一つの問題から隣接する多くの問題への接続を生む。
第三に、相互扶助は参加型であり、専門家や救世主を待つのではなく、集団的行動によって問題を解決する。
この三要素が欠けたとき、相互扶助は単なるボランティアか慈善に退化する。食事だけを配り、「なぜ」を問わない活動は慈善である。専門家が設計し、受益者は受け取るだけの活動は社会サービスである。参加者が自ら意思決定に加わり、構造的原因を共有し、それを変える運動につながっていくとき初めて、それは相互扶助と呼べる。
日本に引きつけて考えると、戦後の生活協同組合運動はまさにこの三要素を備えて出発した。1940年代後半から50年代、主婦たちが「不当に高い牛乳の価格」に怒り、共同購入を始めた。
構造的原因の共有(流通の独占構造への批判)、動員と連帯の拡大(地域の主婦ネットワーク)、参加型の意思決定(班活動と総代会)。三つの要素がそろっていた。

しかし半世紀を経て、生協は年間売上3兆円を超える巨大組織に成長する過程で、三要素の大半を失った。構造的原因への問いかけは消え、専門的な経営陣が意思決定を独占し、組合員は「少し安いスーパー」の顧客と変わらない存在になった。スペイドの言葉を借りれば、これは「回収(co-optation)」の教科書的事例である。
2. 善意の罠——なぜ慈善は権力構造を温存するのか
富裕層がその富を生み出す搾取的システムの正統性を維持しながら、システムが生む巨大な社会的傷口にわずかな絆創膏を貼る行為——スペイドはそれを慈善の本質と見なす。
「慈善は有害である」。この主張は、多くの人の直感に反する。善意の寄付や無償のボランティアの何がいけないのか。
ここでよく見られるのは、「慈善は偽善にすぎない」という批判と、「偽善でも構わない。結果的に誰かが助かるなら」という擁護の対立だ。しかしスペイドの議論は、この対立軸そのものを無効化する。問題は善意が「本物か偽物か」ではない。むしろ、たとえ純粋な善意であっても、それが埋め込まれる「構造」が決定的だからだ。
慈善を偽善と断罪しても何も始まらない。かといって「偽善でもいいじゃないか」と開き直れば、そこで思考停止する。スペイドが問うのは、善意がどのような制度的な枠組みのなかで機能し、その結果として権力関係を強化するのか、それとも解体に向かわせるのか——という構造的な次元である。
慈善モデルの系譜は深い。キリスト教ヨーロッパにおいて、富裕層が貧者に施しを与える行為は「天国への切符を買う」行為だった。そこには暗黙の道徳的序列がある。富める者は徳が高いから富んでおり、貧しい者は怠惰または不道徳だから貧しい。この前提の上に、近代的な社会福祉制度が構築された。

スペイドが最も力を込めて批判するのは、現代のNPO(非営利団体)セクターの構造的問題だ。その論旨を整理すると、三つの層がある。
第一の層は「資金提供者による支配」である。NPOは活動資金を財団や政府の助成金に依存する。資金提供者は「何に金を出すか」を決める権限を持ち、NPOはその基準に合わせて活動を設計する。たとえばホームレス支援の助成金を出す財団が「禁酒を条件とする」方針を持てば、NPOはアルコール依存の当事者を排除せざるを得ない。最も脆弱な人々が最初に切り捨てられる構造だ。
第二の層は「専門家支配」である。NPOは大学の学位を持つ専門職によって運営される。社会福祉士、弁護士、臨床心理士。彼らの専門知識には価値があるが、その構造は「あなたには専門家が必要だ」という依存を再生産する。イリイチが「専門家支配の脱構築」で警告したのは、まさにこの構造だった。医療が健康を損ない、教育が学びを妨げ、福祉が自律性を奪う。スペイドはイリイチに言及しないが、両者の診断は驚くほど一致する。
第三の層は「運動の脱政治化」である。1960-70年代、ブラック・パンサーや反戦運動が社会を揺るがした。NPOセクターの爆発的膨張は、この急進的運動への構造的対応として始まった。運動の担い手を「活動家」から「専門職員」に、意思決定を「参加者の合意」から「理事会の多数決」に、資金を「草の根の寄付」から「財団の助成金」に置き換えることで、運動のエネルギーを制度の内側に封じ込める。スペイドはこれを「脱動員化(demobilization)」と呼ぶ。
「NPOなしに誰が弱者を助けるのか」という反論は当然あるだろう。スペイドの回答は「NPOを廃止せよ」ではない。NPOが構造的にできないこと——根本原因への挑戦、最も周縁化された人々の包摂、参加型の意思決定——を、相互扶助グループが「横に」構築していくことだ。NPOを置換するのではなく、NPOの死角を補完する。ここにベンダの並行社会の原理が作動している。既存システムとの正面衝突でも完全離脱でもなく、その横に、段階的に、自律的な構造を立ち上げる。
3. 50ドルの組織がFEMAに勝てた理由——そして危険
政治家やCEOが夢見るのは、何も保障されず大半の人々が絶望的で搾取しやすい世界だ。ボランティアがセーフティネットに取って代わる——彼らにとって、これ以上理想的な話はない。
〈飢餓の時代に隣人は敵か味方か〉で紹介したコモン・グラウンドは、ハリケーン・カトリーナの直後にマリク・ラヒムの台所で50ドル(約7,500円)を元手に設立された。この50ドルの組織が、数十億ドルの予算を持つFEMA(連邦緊急事態管理庁)よりも迅速に、効果的に、人間的に機能した事実を、スペイドは「なぜか」ではなく「どうやって維持するか」の問いへと転換する。

ここでスペイドが警告するのが「回収(co-optation)」の危険だ。相互扶助グループが成功すればするほど、三つの方向から回収の圧力がかかる。
第一は「政府による取り込み」だ。2012年のハリケーン・サンディの後、オキュパイ・ウォール街から派生したオキュパイ・サンディは6万人以上のボランティアを動員した。ニューヨーク市の一部の行政機関はこれを利用して物資を配送させた。国土安全保障省はオキュパイ・サンディを監視対象に加えた。利用と監視が同時に進行する。
第二は「資金提供者による方向転換」だ。助成金を受け取った瞬間から、グループは資金提供者の意向に影響される。「成果指標」を報告する義務が生まれ、測定可能な数字(何人に食事を配ったか)が優先され、測定困難な変化(参加者の意識がどう変わったか)は後回しになる。
第三は「メディアによる脱政治化」だ。2017年のハリケーン・ハーヴィー後、ボートで救助に向かう市民の映像が繰り返し報道された。「美談」として消費された。しかし報道は、政府の救助失敗の構造的原因も、悪化するハリケーンの気候変動との関連も問わなかった。「個人の英雄譚」が「構造的批判」を覆い隠す。
スペイドが最も詳細に分析するのは、DV(家庭内暴力)反対運動の回収事例だ。1970年代、フェミニスト運動はDV被害者のためのシェルターをボランティアで運営し、加害者への防衛キャンペーンを展開していた。相互扶助の三要素が揃っていた。ところが同時期、警察はブラック・パンサーや反戦運動によって正統性の危機に直面していた。警察は「女性と子どもの守護者」としてのイメージを構築するために、反DV運動との連携を積極的に推進した。結果として、運動はボランティアベースの草の根活動から、警察と連携する専門的NPOへと変質した。被害者への支援は「条件つき」になり、犯罪化が進み、クィアやトランスジェンダーや有色人種の被害者——つまり最も脆弱な当事者——が排除された。そして肝心の性暴力は減少しなかった。
日本の読者にとって、この回収の構造は他人事ではない。パンデミック期の「ファクトチェック」NPOを想起してほしい。「誤情報対策」を掲げるNPOの多くは、プラットフォーム企業や政府系機関から資金を受け、その資金提供者の公式見解と矛盾する情報を「誤情報」と判定する構造を持っていた。善意と管理の境界は、意図ではなく構造によって決まる。〈ポランニーの「暗黙知」が解く、パンデミック・ナラティブへの抵抗〉で分析した「認識の自律性」への脅威は、ここでも同じ形で作動している。
では回収にどう抵抗するか。スペイドは相互扶助グループが自問すべき問いのリストを提示する。
「誰が私たちのプロジェクトを管理しているか」
「受け取る資金に条件はついていないか」
「私たちのガイドラインは最も脆弱な人々を排除していないか」
「法執行機関との関係はどうなっているか」。
これらの問いを定期的に、組織全体で共有することが、回収への最も基本的な防衛線になる。
4. 危機の言語を使わない危機対策——味噌・ぬか床・市民農園から始める連帯
この信念ではなくあの信念が真実であることは、実際に誰にどんな違いをもたらすだろうか。
スペイドの本書はアメリカの文脈で書かれている。ブラック・ライヴズ・マター、オキュパイ運動、移民支援——いずれも日本の読者にとって遠い。では、その方法論を日本に「翻訳」するとどうなるか。
ここから先は、スペイドのフレームワークと、前二記事で蓄積した議論を統合した独自の設計論になる。
日本型相互扶助の第一の設計原則は「危機の言語を使わない」ことだ。
「食料危機に備えてコミュニティを作りましょう」——この呼びかけは日本ではほぼ確実に失敗する。「変な人」「宗教」「マルチ商法」のいずれかに分類されて終わる。しかし「味噌の仕込みワークショップをやります」なら話は別だ。味噌の仕込みは「趣味」であり「文化」であり「健康」の文脈で成立する。参加者は自分でも意識しないうちに発酵保存技術を身につけ、反復的な接触を通じて関係の基盤を構築していく。ぬか床は毎日かき混ぜる必要がある。「旅行中にぬか床を預かってもらう」という些細な相互依存が、関係の実質的な基盤になる。

第二の原則は「物の循環を媒介にする」ことだ。
日本社会で最もハードルが低い相互扶助の形式は「おすそ分け」である。菜園で獲れた野菜、多く作りすぎた味噌、余った苗。これを「あげる」行為は、日本の社会規範のなかで許容された贈与の形式だ。ドイツの「フェアタイラー(Fairteiler)」に相当する「おすそ分け棚」をマンションの共有スペースに設置する試みは、匿名性を維持したまま物の贈与を可能にする。声をかけなくても始められる連帯だ。
第三の原則は「共同管理の場を作る」ことだ。
〈サバイバル園芸の実践教本『Grow or Die』〉で論じた市民農園の議論をもう一歩進める。個別区画型の市民農園ではなく、一つの畑を複数人で共同管理する形式が、相互扶助グループの物理的基盤になりうる。水やり当番、草取りの分担、収穫物の配分——これらは否応なく反復的な対面接触と意思決定の共有を要求する。スペイドの合意形成プロセスが、ここで具体的に練習される場になる。「何を植えるか」をめぐる小さな対立を合意形成で乗り越える経験が、やがてより大きな問題への集団的対処能力を育てる。
第四の原則は「経験に名前をつける」ことだ。
前記事で論じたメキシコシティ地震の教訓の核心がここにある。メキシコの市民は、自らの経験に「ダムニフィカドス(損なわれた者たち)」「ブリガディスタ(志願救助隊員)」「市民社会」という名前を与えた。名前があるから保持できる。名前があるから組織化できる。日本の災害後の連帯が毎回蒸発するのは、「絆」や「共助」という曖昧な言葉しか持たないからだ。「相互扶助」「並行社会」「コンヴィヴィアリティ」——これらの概念を繰り返し使い、具体的な実践と結びつけていくこと自体が、言語的インフラの構築になる。
第五の原則は「既存の『ゆるい集まり』に一つだけ接ぎ木する」ことだ。
ゼロから共同体を作るのは極めて難しい。だが朝のラジオ体操仲間、犬の散歩仲間、銭湯の常連客、図書館の顔見知り——すでに存在する「ゆるい接触面」に、機能的な相互扶助の要素を「一つだけ」加えるのは、はるかに現実的だ。犬の散歩仲間の一人が「トマトが余った」と言えば、贈与の回路が始まる。銭湯の常連客が「漬物の漬け方を教えてほしい」と言えば、技能交換が始まる。この「一つだけ接ぎ木する」アプローチは、「共同体構築」という重圧を回避し、日常の延長線上に相互扶助を滑り込ませる。

ここで決定的に重要なのは、スペイドが繰り返し強調する「合意形成」の実践だ。日本の「空気を読む」文化は、一見するとコンセンサスに似ている。だが両者は対極にある。スペイドの合意形成は「全員が意見を表明し、反対意見が聞かれ、修正が加えられた上で、全員が納得できる(あるいは少なくとも受け入れられる)合意に至る」プロセスだ。「空気を読む」は「発言しないことで暗黙の同意を与える」プロセスである。前者は自律性を育て、後者は自律性を抑圧する。この区別を日本型相互扶助グループの設計に組み込むことが、おそらく最大の課題であり、最大の革新になる。
スペイドは「意思決定チャート」の作成を具体的に提案している。「この決定はチーム内で完結できるか、全体会議が必要か」「誰に相談すべきか」「誰に報告すべきか」を一覧表にしたものだ。官僚的に見えるかもしれない。だが「誰が何を決めるのか」が明文化されていないグループは、結局、声の大きな人間か、最初からいた人間が決める——それは「空気を読む」体制そのものだ。明文化は透明性の条件であり、透明性は自律性の条件である。
相互扶助プロジェクト vs 慈善・非営利組織(NPO) 対照表

5. 運動を殺す三つの毒——秘密主義・過剰約束・欠乏感
燃え尽きは単なる疲労ではない。怨嗟、疲弊、恥、苛立ちが組み合わさって、仕事の喜びや情熱との接続を失わせるものだ。
スペイドが観察する相互扶助グループの三つの致命的傾向は、日本の市民運動の繰り返される失敗パターンと正確に重なる。
第一の毒:秘密主義・階層・不透明さ。 意思決定プロセスが不明瞭なグループでは、創設者や古参メンバーに権力が集中する。新しい参加者は何が起きているのかわからず、離脱する。残った人々の間でも「あの人が決めているらしい」という不信が蓄積する。日本的な文脈で言えば、「なんとなくあの人が仕切っている」状態だ。明示的な階層よりも、暗黙の階層のほうが対処しにくい。
第二の毒:過剰約束・非応答・エリート主義。 グループが実際の能力以上の約束をし、コミュニティの期待に応えられないまま、外部のメディアやエリートには積極的に対応する。日本の市民運動でもしばしば見られるパターンだ。「記者会見はするが現場には来ない」リーダー。「SNSのフォロワー数は多いが実際に動ける人は三人」というグループ。過剰約束は燃え尽きの最短経路である。
第三の毒:欠乏感・緊急性・競争。 資金、時間、注目、労働力が足りないという感覚が、グループ内の競争やグループ間の対立を生む。「誰がいちばん働いているか」の競争。「あのグループは注目を浴びすぎている」という嫉妬。急いで成果を出さなければという焦りが、丁寧な合意形成を省略させる。

これらの「毒」は個人の性格の問題ではなく、構造の問題だとスペイドは強調する。透明な意思決定構造がなければ秘密主義が生まれ、合意に基づく計画がなければ過剰約束が生まれ、長期的な持続可能性の設計がなければ欠乏感が生まれる。
日本の市民運動の歴史は、この三つの毒(秘密主義・過剰約束・欠乏感)による自壊の繰り返しだった。1970年代の新左翼運動は内ゲバで壊滅した。オウム事件後、市民運動全般に対する社会的冷笑が広がった。パンデミック期の反対運動も内部分裂を繰り返した。共通するのは、「対立は関係の終わりを意味する」という日本的な前提だ。
スペイドの最も革新的な指摘は「対立は正常であり、対立は誰かが悪いことを意味しない」という原則である。深く関わっている人間同士ほど対立は激しくなる。それは関係が深い証拠だ。
問題は対立そのものではなく、対立を処理する構造が存在しないことにある。
具体的には、スペイドは「マッドマッピング(mad mapping)」という技法を紹介する。自分がストレス下で陥りやすいパターン——過度の自己批判、他者への不信、仕事中毒、逃避行動——を、平時にマップとして書き出しておく。危機の渦中では自分の状態を客観視できないが、事前に作成した「自分の取扱説明書」があれば、信頼できる仲間がそれを参照して介入できる。個人の問題を個人で抱え込まず、グループの共有資源に変換する仕組みだ。
Dean Spade による「Pandemicのためのマッドマップ」の構成

スペイドはまた「働く喜び(Working Joyfully)」の対比表を引用している。「果てしない長時間労働」ではなく「境界を設定する」。「不可能な基準」ではなく「妥当な目標」。「駆動的、アドレナリン的」ではなく「フローの感覚」。「ユーモアの喪失」ではなく「おかしさを見失わない」。この対比は、ワーカホリックス・アノニマス(仕事依存症の自助グループ)から借用されたものだ。相互扶助の仕事が「もう一つの搾取的労働」にならないための自己点検リストとして機能する。
「回復の道具(Tools of Recovery)」の内容

月曜日の朝に何をするか——種を蒔き、隣人の名前を覚え、味噌を仕込む
備蓄は孤立を深め、技能は関係を生む。
三部作を振り返る。
〈Grow or Die〉は「何を作るか」を論じた。サツマイモの苗、堆肥、鍬——食糧生産能力という物質的基盤。〈災害ユートピア〉は「なぜ連帯するか」を論じた。人間は危機に際して略奪ではなく助け合いを選ぶという災害社会学的根拠。そして本記事は「どうやって連帯するか」を論じた。スペイドの相互扶助の三要素、慈善との峻別、回収への抵抗、合意形成の方法論——組織的基盤。
三つが揃って初めて、並行社会の最小単位が成立する。種だけでは足りない。善意だけでも足りない。組織の設計がなければ、善意は蒸発し、種は盗まれる。
「完全自給」も「完全な共同体」も目標ではない。そんなものは存在しない。
目標は「ゼロから1への移行」だ。隣人一人の名前を覚える。苗を一つ分ける。味噌を一樽仕込む。余った野菜をおすそ分け棚に置く。ぬか床を預かり合う。市民農園の隣の区画の人と水やりの相談をする。
これらの行為はいずれも、個別には取るに足りない。だがスペイドが本書で繰り返し示すのは、小さな実践の「集積」が、専門家も政府も到達できない場所に届くという事実だ。ハリケーン・マリアの後のプエルトリコで、企業食品システムが停止したとき人々を養ったのは、ずっと前から存在していた地域のフードジャスティス・プロジェクトだった。電力グリッドが崩壊したとき、医療機器を動かしたのは地域のソーラーパネルだった。
〈石油備蓄8ヶ月 vs 肥料備蓄ゼロ〉で分析した食の構造的脆弱性が顕在化するとき——それがいつかは誰にもわからないが、構造が脆弱であること自体は確かだ——缶詰の山は底を突く。だが隣人との信頼関係は、使うほど強くなる。技能は分かち合っても減らない。発酵の知識は停電しない。
相互扶助は、危機への「対策」ではない。それは日常の中に「別の生き方」を埋め込む行為だ。
スペイドの言葉を借りれば、
「私たちが長い間こう生きてこなかっただけで、人類史のほとんどの期間、私たちはそうやって生きてきた」。
ホルムズ海峡は依然として封鎖されている。終結の見通しは立っていない。だがこの文章を読んでいるあなたの半径500メートル以内に、名前を知らない隣人がいる。その人は、あなたと同じように不安を抱えているかもしれない。
今日、何か一つだけ始めるとしたら、それは缶詰をもう一つ買うことではない。

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