ワクチン反対派の「認知バイアス」?——東大研究が自分自身のバイアスだけは決して診断しない理由〈考察編#48〉
はじめに
書店の平台にも、ネットのまとめ記事にも、同じ種類の解説が溢れている。「反ワクチンは確証バイアスに陥っている」「陰謀論にハマる人には共通の認知パターンがある」——心理学の用語を駆使したこれらの説明は、見た目にはきわめて科学的である。
この説明を受け取った読者は、二重の満足を得る。一つは知的な満足。「ああ、あの人たちは確証バイアスなのか」と分類できた瞬間、自分はバイアスを自覚している側に立てた気になる。もう一つは道徳的な満足。相手の主張を「心理学的に説明できた」ことで、その内容を真剣に検討する義務から解放される。
心理学者ジェレミー・シャーマン(Jeremy E. Sherman)はこの仕組みを「魔力のカップ」と呼んだ。人は誰しも、自分を肯定する魔力をカップに注いで一日を乗り切っている。他人を心理学的に診断することは、自分のカップを満たしつつ相手のカップを叩き割る、効率的な優越感の獲得手段だ1。
しかし、この構図をワクチン問題に当てはめたとき、見過ごされている非対称性がある。支持派が懐疑派を「確証バイアスだ」と診断するのと、懐疑派が支持派を「洗脳されている」と診断するのとでは、同じ「心理分析」という行為でも、その重みがまったく違う。この違いを、以下、六つの層に分けて考える。

1 同じ診断でも、一方には制裁が接続している
心理学的診断は、発信する側と受ける側で帰結がまったく違う。
支持派が懐疑派を「確証バイアスに陥っている」と診断した場合、その診断は言葉で終わらない。
プラットフォームのコンテンツモデレーション方針、医療従事者の懲戒手続き、研究助成の審査基準——診断を制度的な処分に変換する経路がすでに整備されている。
実際、ある医師がワクチンの安全性に疑問を呈したことをもって学会から除名されたり、ある研究者の論文が「誤情報」として撤回されたりするとき、その背後には「この人物の判断は認知バイアスに歪んでいる」という心理学的診断が作動している。
逆方向にはこの経路がない。懐疑派が支持派を「恐怖に操られている」「プロパガンダに弱い認知傾向がある」と診断しても、支持派のSNSアカウントが停止されることも、支持派の医師が免許を問われることも、支持派の研究者が助成を打ち切られることもない。
同じ「心理分析」という行為が、一方では言葉で終わり、他方では物質的な制裁に接続する。これが第一の非対称性だ。
問題は制裁そのものだけではない。制裁の可能性が、診断の社会的な重みを変えることにある。「あの人はバイアスだ」という発言が、発言者の地位や収入や資格を実際に奪いうると知っている社会では、その発言は単なる意見ではない。それは武器として流通している。

2 分析する側は、分析の射程から外れている
認知バイアス研究は「人間の認知には普遍的にバイアスがある」という命題から出発する。この命題が正しいなら、バイアスを研究している研究者自身も、研究対象の選定において、変数の定義において、結果の解釈において、バイアスを免れないはずだ。
ところが、実際の研究はこの再帰的な適用を実行しない。
東京大学新世代感染症センターが2026年7月に発表した大規模調査がある。「ワクチンに関する誤情報と接種意向の複雑な関連」と題されたこの研究は、約3万人のデータを解析し、「誤情報を信じている人の心理的特性」を明らかにした2。しかし、ここで「誤情報」とラベリングされている見解——たとえば「ワクチンの有効性や安全性に関するデータは捏造されている」という信念——の真偽は、研究のどこでも検証されていない。「誤情報」というラベルを貼る研究者自身の認知バイアスは、研究デザインの射程に最初から入っていない。
[プレスリリース] ワクチンに関する誤情報を信じていても ワクチンを接種する意向のある人々の特徴を解析―新世代感染症センターhttps://t.co/nYA0uBRkGT
— 東京大学 | UTokyo (@UTokyo_News) July 31, 2026
これが第二の非対称性だ。「誤情報を信じている人の心理的特性」は分析されるが、「誤情報というラベルを貼る人の心理的特性」は分析されない。研究デザインそのものが、分析する側を分析の外に置く構造になっている。
これは研究者個人の怠慢ではない。現代の実証的社会心理学が採用する方法論的個人主義——分析の単位を「個人の認知」「個人の態度」「個人の行動」に限定する枠組み——が、そもそも「制度のバイアス」や「ラベリング権力の偏り」を分析可能な対象として認識しない。方法論を選択した時点で、制度は自動的に死角に入る。そして、この方法論を選んだ研究者は、選択の結果として生じた死角を「科学的中立性」として提示できる。
シャーマンは「誰かを心理分析するたびに、あなたがまったく同じことをした時を思い出せ」と書いた。これは個人の努力に訴える忠告としては正しい。しかし、制度としての学術研究には、この再帰性を強制する仕組みがそもそも組み込まれていない。
3 診断は「治療」を呼び込み、治療は「設計」に変わる
医学において、診断は治療を正当化する。心理学的診断も同じ構造をとる。
懐疑派を「認知バイアスに陥っている」と診断すれば、次の段階として「認知的免疫」(inoculation theory)、ナッジ、プリバンキング(prebunking)といった行動介入が正当化される。診断された側は、介入の対象になる。
この変換は一方向にしか働かない。懐疑派が支持派を「洗脳されている」と診断しても、支持派に対する行動介入プログラムを設計し、公的資金で実施する手段を持たない。心理学的診断が行動変容の設計図に変換される経路は、制度的資源を持つ側にだけ開かれている。
東大の研究のプレスリリース末尾には、この経路が率直に書かれている。「対象者が何を信頼しているのかやどのような情報に触れる環境にあるのかに応じた公衆衛生コミュニケーションを設計するうえで重要な知見」。研究対象の内面が、介入設計の原材料として扱われていることが、研究者自身の言葉で表明されている。
ここには時間の非対称性も絡んでいる。懐疑派が支持派を心理分析するとき、それはすでに起きた現象を振り返る事後的な説明だ。しかし制度の側の心理分析は、人々がまだ行動を決めていない段階で、特定の行動を引き出すための事前の設計に使われる。
事後に「あの人はバイアスに陥っていた」と述べることと、事前に「このバイアスを利用して行動を誘導しよう」と設計することは、同じ心理学の知見を使っていても、行為の性質が質的に異なる。前者は解釈であり、後者は操作である。

4 設計の痕跡は、事後の説明で消去される
ここまでの三つの層——制裁への接続、再帰性の遮断、診断から介入への変換——は、いずれも制度が「すでに起きたこと」をどう説明するかに関わる話だった。第四の層は、時間の流れに沿って起きるもっと動的な仕組みだ。
次のような流れを想像してほしい。
ある公衆衛生キャンペーンが、接種率を上げるために「あなたの地域の接種率は87%です。あなたもご一緒に」というメッセージを流したとする。これは行動経済学で言う「社会規範ナッジ」——人は多数派に合わせたがる傾向がある——を利用した設計だ。人々が「みんな打ってる」というムードに押されて接種を決める。これが第一段階。制度が心理学の知見を使って、まだ決めていない人々の行動を特定の方向へ誘導する段階である。
時間が経ち、接種率の数字が出揃う。ここで研究者が効果測定の論文を書く。「本キャンペーン地域では接種率が92%に達した。これは市民が合理的にリスクとベネフィットを比較衡量した結果であり、公衆衛生リテラシーの高さを示している」。これが第二段階。第一段階で使われたナッジのことは、この説明には出てこない。「みんな打ってる」というムードに押されたのか、各自がデータを読んで合理的に判断したのか——その区別は問われず、結果だけが「人々の理性的選択」として語られる。
さらに、キャンペーンに乗らず接種しなかった人々が研究対象になる。「接種拒否者の心理学的プロファイル」という論文が書かれ、非接種者は「認知バイアス」「恐怖による判断力低下」「低い科学リテラシー」として分析される。これが第三段階。
この三段階を並べると、奇妙なことが起きているのがわかる。
第一段階では、人々の行動は制度によって設計された。
第二段階では、その同じ行動が「人々の自由な判断」として記述される。
第三段階では、設計通りに動かなかった人々だけが「バイアスに歪められた逸脱者」として扱われる。
つまり、制度の側が加えた操作は記録から消え、操作に従わなかった個人の「認知の欠陥」だけが記録に残る。

ここで重要なのは、これは誰かが悪意を持って「痕跡を消そう」としているという話ではないことだ。心理学研究の標準的な方法論において、介入の効果測定は「介入群と対照群の比較」として設計される。介入そのものは「独立変数」として扱われ、研究が終われば論文の「方法」セクションに収まる。そして、そこから先の政策的議論では「方法」は読み飛ばされ、「結果」だけが「人々は自発的にこう行動した」という形で流通する。
学術論文のフォーマットそのものが、設計の痕跡を「専門家向けの細部」として本文から切り離し、「一般向けの結論」から見えなくする。この仕組みによって、心理学は行動を設計するための道具であると同時に、設計の痕跡を消去するための装置としても機能する。
そして、この痕跡の消去が完了した後に、残ったものだけが「科学的事実」と呼ばれる。制度の側の操作は不可視化され、操作に従わなかった個人の「認知バイアス」だけが可視化される。これが第四の非対称性——「設計の可視性」における非対称性——である。
5 「真偽」の問いが「心理」の問いにすり替わる
ここまでの非対称性は、すべて一つの根本的な置換によって可能になっている。
「なぜ人々はワクチンを拒否するのか」という問いには、二つの答え方がある。一つは、製薬企業の不祥事の歴史、規制当局の回転ドア、臨床試験データの非公開、有害事象報告制度の機能不全——こうした現実の認識に基づく合理的判断として説明する政治的説明。もう一つは、確証バイアス、恐怖、陰謀論的思考、低い科学リテラシー——こうした認知の欠陥に基づく非合理的反応として説明する心理学的説明。
これらは論理的には排他的ではない。しかし実際には、心理学的説明の導入が政治的説明の重みを不可避的に減殺する。焦点は「制度の欠陥」から「個人の認知」へと移動し、この移動は加算ではなく置換として機能する。「その人は確証バイアスによって不祥事の事例を過大評価している」——この説明は、不祥事の事実性を否定せずとも、それを判断材料として採用した主体の推論を無効化する。心理学的説明は「表面的な政治的主張の背後にある真の心理的動機」という体裁で、つねに政治的説明より一階層深く位置するからだ。
この置換が可能になるのは、「誤情報」というラベルが、政治的説明を心理学的研究対象に変換するからである。誰かが「ワクチンの臨床試験データは捏造されている」と言うとき、この発言は「データ捏造の証拠は何か」という検証の対象ではなく、「なぜこの人はデータ捏造を信じているのか」という心理学的研究の対象になる。
ラベリングの瞬間に、問いの種類が切り替わる。「その主張は正しいか」から「その人はなぜそう信じるのか」へ。この切り替えが、最も根源的な非対称性だ。制度は「これは政治的問題だ」という問いを「これは心理学的問題だ」という問いに変換する権力を持つ。
逆方向の変換はできない。懐疑派が「ワクチン推進政策は製薬企業の政治的影響力の産物だ」と言っても、それは「陰謀論的思考の表れ」として心理学化され、政治的検証の対象にはならない。

6 「心理学化の心理学化」——メタレベルの非対称性
最後に、この構造が自らを守る仕組みがある。
支持派の心理分析は、自分自身への適用に対して事前に防護されている。「ワクチン支持派も確証バイアスに陥っている」という指摘に対して、支持派は次のように応答できる。そして実際に応答する。
「科学の方法論は個人の認知バイアスを超越する。我々は査読、メタアナリシス、ランダム化比較試験という制度的フィルターを通している。個人の認知バイアスと、制度的に検証された知見を同列に扱うこと自体が擬似懐疑主義だ」
これは相手の心理分析をさらに心理分析することで無効化するメタ戦略だ。しかし、このメタ戦略は非対称的にしか機能しない。懐疑派が「あなたたちの科学は製薬会社の資金バイアスに歪められている」と言えば、それは「制度への不信」という心理学的現象として再診断される。懐疑派が「あなたたちこそ確証バイアスだ」と言えば、それは「投影」として再診断される。
支持派の心理分析は常にメタレベルで優位に立てる。なぜなら、心理学という学問そのものが支持派の制度的インフラの一部だからだ。
心理学の概念を使って心理学の非対称的運用を批判することは、敵の武器庫から借りた武器で戦うようなものだ。敵はその武器の設計者であり、安全装置の在り処を知っている。
この構造の最も陰湿な特徴は、批判者がどの階層で戦っても敗北するようにできていることだ。
第一階層で実質的主張をすれば「それは査読済みエビデンスに反する陰謀論だ」と切られる。
第二階層で心理分析を仕掛ければ「それは制度へのパラノイア的不信だ」と再診断される。
第三階層でメタ心理分析に進めば「心理学用語の素人的誤用だ」と処理される。
第四階層に至っては、もはや誰も聞いていない。メタレベルの上昇可能性それ自体が非対称的に配分されているのだ。
この非対称性は制度的自己保存の必然的帰結である。あらゆる制度は、自分の正当性を根本から問う批判に対して免疫系を発達させる。教会は「異端」で、国家は「反逆」で、そして現代の科学-医療複合体は「陰謀論」と「認知バイアス」で——批判を病理化してきた。
心理学化は、この免疫系の現代的で特に洗練された形態だ。その洗練さは、免疫応答が「治療」や「啓蒙」というポジティブな外見をまとっている点にある。異端審問官は「お前は間違っている」と言ったが、現代の心理学者は「あなたの認知には歪みがあります。治療しましょう」と言う。
前者は敵対的だが、後者は一見、思いやりに満ちている。この「治療的転回」によって、批判者は二重に無力化される。主張の内容が無視され、その無視に対する怒りや不満が「治療への抵抗」という新たな症状として記録される。沈黙すれば存在を消され、抗議すれば病気を証明する——完璧なダブルバインドである。
最後に
ここまで六つの非対称性を層として積み上げてきた。制裁への接続、再帰性の遮断、介入への変換、設計の消去、問いのすり替え、メタレベルの防護——これらはすべて、「心理学を説明の道具として使う権利は形式的には誰にでもあるが、その説明を科学的知識として社会的に通用させる権威は一方に独占されている」という一事に収斂する。
そしてこの独占は、単なる資金力や数の差ではない。それは認識論的な循環によって維持されている。「何が正しい知識か」を決めるのは科学であり、科学とは査読付き論文や大学や公的機関が生産するものであり、これらの制度は特定の前提の上に構築されており、その前提を疑う者は科学的知識の生産に参加できない——ゆえに、その疑いは常に心理学化されるべき対象であり続ける。
この循環構造のなかで、心理学は門番の役割を果たしている。門の内側にいる者は、門の外にいる者を心理学的に説明することで、門の存在そのものを自明のものにする。

残る問いがある。ここまでの分析は、それ自体が一つの心理分析ではないのか。支持派の心理分析を分析することもまた、「相手を診断することで自分のカップを満たす」という、シャーマンの言う罠の反復ではないのか。
この問いに完全に答えることはできない。ただ、違いがあるとすれば、それは分析の対象が「個人の認知」ではなく「制度の構造」であるという点だ。個人を「確証バイアスだ」と診断するのと、制度が心理学をどのように運用しているかを記述するのは、同じ「心理分析」という言葉で括れるほど似てはいない。少なくとも、私はそう考えている。
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