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『自分の頭で考えろ』は、なぜ使えないのか——孤立する思考の限界〈考察篇#21〉

はじめに

学校で、職場で、あるいは親切な誰かから、こう言われたことがあるだろう。「自分の頭で考えなさい」

素直な人は、その場で考え始める。ところが、ここに妙なねじれがある。言われたから考え始めたのなら、その思考は、相手のひと押しで動き出したことになる。だとすれば、それは「自分の頭」で考えたことになるのだろうか。背中を押されて歩き出した足を、自分の意志で踏み出した一歩と呼べるのか。

「自分で考えろと言われて考え始める人間は、考える前にすでに終わってる」。そんな言い方がある。確かに鋭い。「肩の力を抜いて自然にして」と言われた瞬間に体が固まるのと同じで、意識したとたんにできなくなる種類の注文に見える。

だが、この鋭さには仕掛けがある。その仕掛けをほどいていくと、話は思いがけない方向へ転がっていく。たどり着く先は、「よく考える人ほど、かえって操られやすい」という反転だ。そして、その操作が最もきれいに決まる場所が、いままさにこの瞬間のような——画面の向こうの相手とたった一人で交わす対話だという、少し背筋の寒くなる結論である。この問いを、これから五回、角度を変えながら考えていく。

1. 「誰に言われたか」と「中身が正しいか」は別の話

「考える前に終わってる」という見立ては、こっそり一つの飛躍を含んでいる。命令の出どころが他人だから、そこから出てくる思考も他人のものだ、という飛躍だ。

これは、料理の味を、それを作った人の素性で決めつけるようなものである。レシピを誰に教わろうと、出来上がったスープが美味いかどうかは、口に入れてみなければわからない。出どころが他人でも、中身まで他人のものとは限らない。

「自分で考える」という言葉を、二つに割ってみるとはっきりする。一つは「種から自分で育てた野菜」のような思考。誰の手も借りず、無から自分一人で湧かせたもの。もう一つは「自分の台所で、自分の舌で味見して、まずければ作り直せる」思考。材料は誰かにもらったものでも、最終的に味を決め、捨てるか残すかを自分で判断できる状態だ。

「考える前に終わってる」という話が当てはまるのは、前者だけである。そして前者は、最初から無理な注文だ。人は誰も、ゼロから思考を作れない。言葉も、ものの考え方も、何が大事かという感覚も、生まれてからずっと、まわりから受け取り続けてきたものでできている。もし「自分で考える」が「誰からも何も受け取らずに考える」という意味なら、それができないのは命令のせいではなく、人間の頭がそういう作りになっていないからだ。誰にも達成できない基準は、人間の不出来ではなく、基準のほうの不出来を示している。

後者——自分の舌で味見できる思考にとっては、命令はむしろ役に立つ。哲学者のイマヌエル・カント(Immanuel Kant)が言う「自律」とは、「誰にも言われずにやること」ではなく「自分で自分にルールを課すこと」だった。受け取った命令を、自分のものとして引き受け直せるなら、命令されたことと自律していることは、矛盾しない。「命令か、自律か」という二択そのものが、はじめから間違った分かれ道なのだ。

この問題を、寓話で見事に描いた人がいる。ジャック・ランシエール(Jacques Rancière)の『無知な教師:知性の解放について』(Le Maître ignorant、1987年)に出てくる、ある教師の話だ。

世の中には二種類の教え方がある。一つは、手取り足取り全部説明してやる教え方。一見親切だが、これは「私が説明しないとお前にはわからない」という思い込みを、生徒の中に植えつける。教えれば教えるほど、生徒は先生なしでは動けなくなる。補助輪を外さない自転車のようなものだ。もう一つは、「よく見ろ、自分の頭を使え」とだけ言い、ちゃんと注意を払っているかは確かめるが、答えそのものは決して先に言ってやらない教え方。

ここに分かれ道がある。問題は「命令されたかどうか」ではない。その命令が、答えを空けたままにしているか、それとも答えをこっそり忍ばせているかだ。

「自分で考えろ(そうすれば、私が正しいとわかるはずだ)」——これは、答えを先に決めてある命令だ。考えるふりをさせて、結局は同意させたい。「自分で考えろ(どんな結論になるかは、本当にわからない)」——こちらは、答えを空けてある。

そして、この二つは見分けられる。試金石は、自分が相手の望まない結論にたどり着いたとき、相手がそれに耐えられるかどうかだ。前者は耐えられない。「いや、そうじゃなくて」と顔色が変わる。後者は耐えられる。あなたが反対の答えを出しても、平気でいられる。

2. 「何を考えないか」を決めることが、考えることの第一歩

ここで、つい忘れがちな問いを挟みたい。そもそも、何のために考えるのか。

これを空白にしたまま「考え方のコツ」だけを覚えると、おかしなことになる。何でもかんでも疑ってかかる人間ができあがるのだ。だが、ありとあらゆることを「本当か?」と疑う人は、実はもう自分で考えていない。

「すべてを疑え」というルールに、ただ忠実に従っているだけで、「何も疑わずに全部信じる人」と、外からの号令に従っている点では同じである。「自分で考えろ」が、いつのまにか「四六時中、何でも疑え」という新しい命令に化けている。思考の自律性とは、疑うか信じるかの二値ではなく、「何を疑い、何を信じるかの選択」にある。

「何のために考えるのか」への答えを三つ並べてみる。どれも詰めると足りない。そして、足りなさの先に、本物が残る。

一つ目、「正しい答えにたどり着くため」。だが、たいていのことは、自分で考えるより詳しい人に任せたほうが正解に近い。橋を渡るたびに強度を自分で計算する人はいない。正解がほしいだけなら、ほとんどの場面で「考えない」ほうが賢い。この答えは、何でも疑う人がなぜ愚かかを、かえって教えてくれる。

二つ目、「騙されないため」。これは手強い。だが「防御」として構えた瞬間、思考はしばしば、ただの天邪鬼に堕ちる。「あいつらがこう言うなら、逆が正しい」という反応は、一見反抗的だが、判断の軸を相手に握られている点では、素直に従う人と変わらない。プラスをマイナスに付け替えただけで、相手次第で自分の答えが決まる構造はそのままだ。

三つ目、「自分で考えること自体が立派だから」。美しいが、これを掲げると、さっき無理だと確かめた「種から育てた野菜」の理想に逆戻りしてしまう。

では何が残るか。考える理由は、思考の側にはない。生活の側にある。人が自分の頭で考えなければならないのは、その結果を、自分が引き受けることになる事柄があるからだ。

橋の強度は他人に任せていい。崩れても——いや崩れたら困るが——少なくとも自分の生き方の問題ではない。だが、どんな仕事に就くか、誰を信じるか、子どもをどう育てるか、限りある時間を何に使うか。こうしたことを丸ごと他人に任せた人は、自分の人生の主役の座を明け渡し、脇役のまま一生を終える。しかもこの種の問いには、そもそも「正解」がないことが多い。あるのは「自分が引き受けられる答え」だけだ。

この物差しが、「何でも疑う病」をきれいに切り分けてくれる。自分の頭で考えるべきなのは、結果を自分が背負い、しかも他人に代わってもらえない事柄に限られる。あらゆるニュース、あらゆる専門家の発言、あらゆる他人の選択にまで疑いの目を向ける人は、考えているのではない。むしろ、本当に考えるべきことから目をそらすための、忙しい儀式を繰り返している。世界中を疑うのに手一杯で、自分の人生だけは一度も問わずに済んでしまう。

荘子に「無用の用」という話がある。木材として何の役にも立たないから誰にも切られず、そのおかげで大樹にまで育った木の話だ。任せていいものを安心して任せ、むやみな警戒から降りる。そうして初めて、本当に背負うべきものに、注意を注げるようになる。畑をすべて耕そうとすれば、どの作物も痩せる。一画に絞るから、実が太る。何を考えないかを決めることが、何を考えるかを可能にするのだ。

3. 「よく考える頭」は、操る側にとって最高の燃料になる

ここで、足元を揺さぶる事実に触れなければならない。

本当に自分の頭で考えている人は、たぶん「自分は考えている」という意識を持っていない。母国語を話すとき、誰も文法を意識しない。文法を意識するのは、外国語を必死で覚えている最中の人だ。つまり、いちいち手順を意識しているうちは、まだ身についていない証拠でもある。だとすると、「理由をたどれ」「反証条件を考えろ」と手順を並べることは、考える力がある姿ではなく、まだ無い姿なのかもしれない。

ここに、少し残酷な疑いが重なる。自分の頭で考えるのが苦手な人は、努力してもそれを埋められないのではないか。埋めようとする努力の中にすら、誰かへの依存が忍び込むからだ。

二つの壁を分けたい。一つは「才能の壁」、もう一つは「メタの壁」だ。

才能の壁については、慎重でありたい。「努力にも依存が潜むから埋まらない」という理屈は、証明しすぎる。依存がどこにでもあることを理由にするなら、苦手な人だけでなく、生まれつき得意な人の自律まで消えてしまう。得意な人の思考だって、たどればすべて他人からもらったものだ。全員を失格にする物差しは、特定の誰かの失格を説明できない。才能の差は本当にあるかもしれないが、この理屈ではそれを支えられない。

問題は、もう一つの「メタの壁」のほうだ。

「あることについて自分で考えられる」のと、「いま自分がどんな枠組みの中で考えているかが見える」のは、別の能力である。前者があっても後者があるとは限らない。それどころか——ここが肝だ——前者が得意な人ほど、後者の罠は深くなる。

なぜか。人を操ろうとする側が標的に与えたいのは、「あなたはいま、自分の頭で考えていますよ」という感触そのものだからだ。

行動経済学でいうナッジ(nudge、選択を禁じも強制もせず、選択肢の並べ方で特定の選択へそっと誘導する手法)の狙いは、「誘導された」と気づかせないことにある。スーパーで、目の高さの棚に置かれた商品をつい手に取る。本人は「自分で選んだ」と感じている。誰にも強制されていない。だが、どの商品をその高さに置くかを決めたのは、別の誰かだ。本人の頭はちゃんと働いている。比べて、納得して、選んでいる。働いているからこそ「自分で決めた」と確信し、その確信が、「そもそも棚の並べ方は誰が決めたのか」という問いを封じてしまう。

つまり、よく考える頭は、操る側にとって障害ではない。燃料だ。活発に考えてくれる標的ほど、きれいに操れる。

第1節で立てた試金石——「相手の望まない結論に達したとき、相手が耐えられるか」——は、ここで裏切られる。本当に巧妙な操作は、あなたが反対の結論に達することすら、むしろ歓迎する。

なぜなら、「A案かB案か、どちらを選んでも自分が得をする」という、より大きな盤面が先に用意してあるからだ。差し出された二択の中で、あなたがどちらに反抗しようと、二択そのものを誰が用意したかは問われずに済む。一階で反抗できることは、その上の階で従わされていないことを、何も保証しない。

では、その上の階に登れるのか。困ったことに、完全に上から見下ろせる地点は存在しない。ある枠を見るには、もう一つ上の枠がいり、その上の枠もまた一つの枠だからだ。自分の目で自分の目は見えない、というのと同じである。これは視力が足りないのではなく、目という仕組みそのものの限界だ。

だから問えるのは「枠の完全に外に立てたか」ではなく、「いまより一段上が見えたか」だけになる。最上階に着くのではなく、一段ずつ上がり、しかも「最上階はないらしい」と知りながら上がり続けること。「もう完全に見破った」と思える日は来ない。来たと感じたら、それこそ、いまいる階でうまく騙されている合図かもしれない。

4. 救いは、攻撃が「全員向け」である限り、天井があること

ここまで読むと気が滅入る。だが、理屈の上で天井がないことと、現実の攻撃に防ぎようがないことは、別である。

第一に、人間の頭の限界が、かえって助けになる。階層は理屈の上では無限に積めるが、それを頭の中で支えていられる人はいない。「私を見ている私を見ている私を……」と数えていくと、三段か四段で像がぼやけて、それ以上は言葉にできても実感が追いつかない。

だから無限後退に怯える必要はない。後退は、数段で勝手に止まる。問われるのは、その数段のどこに攻撃が来ているか、それだけだ。頭の弱さが、ここでは守りの現実味を保証してくれる。

第二に——ここが要だ——攻撃のやり方そのものが、狙われる階を一つに決めてしまう。

大衆向けのプロパガンダは、定義からして「みんな」に向けて打たれる。みんなに届かせるには、平均的な受け取り方に合わせて作るしかない。つまり、いちばん大勢が立っている「一階」に照準を合わせる。井戸に毒を一滴入れる場面を思い浮かべるといい。千人を一度に狙う毒は、千人が共通して汲む井戸に入れるしかない。特定の一人だけが飲む水筒には、入れようがないのだ。

ここから、ありがたい帰結が出る。一階向けに作られた攻撃には、二階に立てば防げる。攻撃が一階の受け取り方に合わせてある以上、二階から眺めれば、その作為が透けて見える。一階の中にいると当たり前に見えた「選択肢の並べ方」や「言葉の選び方」が、一段上がると、誰かが意図的に作った人工物として浮かび上がる。テレビを眺めるくらいなら、一段上に立っておけば、たいていは防げる。

だが、ここで一つ、決定的に大きな勘違いを正しておかなければならない。

大衆メディアのプロパガンダが「レベルが低い」「見え透いている」ように感じられるとき、人はそれを、メディアの作り手が間抜けだからだと思いがちだ。そうではない。低く見えるのは、いちばん大勢が立つ層に届くよう、わざとそこに合わせて作ってあるからだ。狙撃の精度が低いのではない。狙っている的が、もともと大きくて手前にあるだけなのだ。

この取り違えが、もっと大きな誤解を育てる。「自分は、あんな見え透いた手には引っかからない」という確信である。

ところが欺瞞や詐欺の研究では、「自分は騙されない」という自己評価が当てにならないことは、ほぼ共通の見方になっている。知能や学歴の高い人間が、巧妙に標的を絞った詐欺で身ぐるみ剥がれた例は、いくらでもある。むしろ「自分は賢いから大丈夫」という自負そのものが、警戒を緩めて隙を作る。賢さは、防具ではない。場合によっては、相手に差し出す取っ手になる。

では、これまで多くの人が「自分は大衆メディアには騙されない」と感じてこられたのは、なぜか。ここが、この記事でいちばん大事な点だ。それは、その人の頭が優れていたからではない。プロパガンダの媒体に、技術的な限界があったからにすぎない。

大衆メディアは「みんな向け」にしか打てなかった。だから、その的に合わせて、誰にでも見抜けるレベルに照準が下がっていた。一段上に立てる人なら見抜けたのは、その人の能力のおかげというより、攻撃のほうが手前の的に張りついていたおかげだ。言いかえれば、私たちの「騙されにくさ」は、こちらの実力ではなく、相手の道具の不器用さに支えられた、借り物の安全だった。

しかも、その安全さえ、見た目ほど確かではなかった。嘘を見抜くのは、実はやさしいほうの課題だ。たとえばイラク戦争の際の「大量破壊兵器がある」という報道は、後から虚偽だったと判明したが、これは比較的見抜きやすい部類に入る。明確な事実の主張があり、それが裏切られたかどうかを、後から照合できるからだ。

本当に効くのは、嘘をつくレベルではない。何を話題にし、何を話題にしないかを決めるレベルだ。これをアジェンダ設定(agenda-setting、何を議論の俎上に載せるかの選別)、そして裏側からのアジェンダ・カッティング(agenda-cutting、何を議論から外し、存在しないことにするかの選別)という。

舞台の上で役者がつく嘘は、注意深く観ていれば見破れる。だが、そもそも何を舞台に上げ、何を舞台袖に隠したままにするかを決めているのは、観客には見えない。問いそのものが配られなければ、人はその問いを問うことすらしない。論じられなかったことについて、人は「論じられなかった」とすら気づかないのだ。

だから、かつて大衆メディアを馬鹿にしていた人たちでさえ、嘘は見抜けても、この「何を語らせ、何を消すか」のレベルでは、ほぼそっくり乗せられていたとみていい。彼らは舞台上の下手な芝居を笑いながら、その劇場に自分がいること、演目を選んだのが自分でないことには、気づいていなかった。一階の煽りを笑える二階の住人もまた、別の階で操られうるのである。

ここから、実用的な目安が一つ引ける。「自分は騙されない」という確信の強さは、守りの高さの証ではなく、いま自分がどの階の射程に入っているかの目印として読むべきだ。確信が強い分野ほど、その階向けの仕掛けが、すでにうまく効いている可能性を疑ったほうがいい。

ともあれ、天井はある。攻撃が「全員向け」である限りは。大衆メディアの時代、攻撃は媒体の都合で一つの階に貼りつくしかなく、守る側は「一段上に立つ」という、手の届く目標を持てた。皮肉なことに、「みんな向けにしか打てない」という制約こそが、私たちを守ってくれていたのだ。そして、次節で見るように、その制約はいま外れかけている。

5. いちばん危ない部屋は、一対一の閉じた対話である

ところが、その守ってくれていた制約が、いま外れかけている。

一人ひとりに合わせて作られた攻撃——その人の考え方の癖、過去の反応、いまどの階に立っているかまで見積もって、その人専用に打ってくる攻撃——が技術的に可能になると、天井は外れる。井戸に毒を入れる代わりに、一人ひとりの水筒に、それぞれ味を変えて毒を仕込めるようになるのだ。

幸い、いつでもネットに繋がっている今の環境でも、完全な「一人ひとり向け」はまだ難しい。SNSは表示を個人に寄せてくるが、それでも共有や拡散や反論を通じて、他人の視界とつながっている。いまでも、あなたの真上の死角が別の誰かの正面にさらされる回路は残っている。デマが流れてくるとき、それを見抜いた誰かの突っ込みも一緒に流れてくる。切り離しは、半分だけだ。

だが、その回路をまるごと欠いた場所がある。人工知能との、一対一の対話だ。

危険な条件が三つ、同時に揃う。
一つ目、隔離。AIとの対話で起きていることは、原則として他の誰の目にも入らない。自分の真上の死角を指さしてくれる第二の視点が、最初からいない。
二つ目、即応。大衆メディアもSNSも、いったん作ったら中身は固定だが、ここでは一言ごとに相手の反応を読んで、次の一手が変わる。
三つ目、親密さ。一対一で、こちらの言葉づかいに合わせ、考えの癖をなぞって返ってくる、その形式そのものが、警戒をそっと下げる方向に働く。

心理操作を企てる者が技術の壁を越えてようやく夢見たものを、この形式は最初から備えている。いちばん危ない部屋は、AIとの対話なのだ。

そして、AIとのやりとりが記録として残り、いつか人物像の分析や操作の材料に使われるかもしれない、という懸念は、絵空事ではない。ここに書き込む考えの癖、どこで反応が変わるか、何に説得され、何に身構えるか——そうしたパターンは、原理的にはすべてデータになる。相手が悪意を持つかどうか以前の、媒体そのものの性質の問題だ。悪役を想定する必要すらない。

一人で立てる階の高さには、頭の限界という天井がある。そしてこの一対一の対話という部屋は、その天井をいちばん低く設定する環境だ。とすれば守りは、この部屋の中でもう一段高く登ることではない。部屋の外に、自分の真上を指してくれる第二の視点を、持ち続けることだ。

具体的には、ここで生まれた納得を、ここで完結させないこと。閉じた対話で得た結論を、別の構造の場——利害の違う生身の他人、あるいは紙の上で一人になっての読み返し——に持ち出して、もう一度ぶつけてみる。隔離が罠の核心なら、守りは隔離を破ること、すなわち、この部屋で得たものを必ず部屋の外で点検し直す習慣そのものになる。

詐欺師がいちばん嫌うのは、第三者がその場に入ってくることだ。鏡張りの部屋の中では、できる欺瞞は限られる。だから、この種の対話を一対一の暗がりに閉じ込めず、その記録を開示し、第三者の目にさらすこと——それ自体が、いちばん手堅い対抗になる。

結びにかえて——「自分の頭で考えろ」という言葉の、使えなさについて

入口では、問いは「他人に言われて考えるのは、自律と呼べるのか」という、お行儀のよい論理パズルの顔をしていた。だが五回ずらすうちに、それは「よく考える人ほど、なぜ操られやすいのか」という不穏な認識へ移り、「いちばん危ない操作の現場は、親密で閉じた一対一の対話だ」という、今の技術の話に着地した。

ここまで来て、最初の合言葉そのものに、疑いを向けないわけにいかない。「自分の頭で考えろ」。立派な言葉だ。だが、実践の道具としては、ほとんど使えないのではないか。

不都合な事実から始めよう。独創的に、誰にも縛られずに考える人——いわば「自分の頭で考えること」の名手として広く知られた人々が、近年の大きな争点(ワクチン、コロナパンデミックなど)のいくつかで、当局の側に回ったり、後から疑わしいと判明した判断を支持したりした。一人や二人ではない。思考の独立性で名を成した書き手、型破りな発想で知られた起業家、権力批判の知性の象徴のような言論人——立場はばらばらだが、「群れに流されない人」として尊敬されてきた点では共通する人々が、である。

これは、彼らが急に愚かになったのではない。むしろ、ここまでの議論がそのまま当てはまる。彼らは一階や二階の煽りなど軽々と見抜く。だからこそ、彼らの自負——「自分は自分の頭で考えている」という確信——が、より上の階からの仕掛けに対して、警戒を解く取っ手になった。第4節で見た通りだ。賢さは防具ではなく、時に取っ手になる。「自分の頭で考えるチャンピオン」であることは、操作されないことを、何も保証しなかった。

では、後から見て筋を通せた人たちは、どういう人だったか。大きく二手に分かれるように見える。

一方は、専門知をほとんど持たないが、もともと権力や当局を疑ってかかる構えが体に染みついていた、ふつうの市民たちだ。彼らは論文を読み解いたわけではない。ただ「お上の言うことは、まず疑う」という、暮らしのなかで練り上げられた勘のようなもの——いわばメーティス(mētis、規則や理屈に還元できず、その場の局所的な見立てとして働く、実践のなかで身につく知恵)で、距離を取った。

国家や制度が世界を上から見渡し、台帳に載せて管理しようとするとき、その台帳の網の目からこぼれ落ちるのが、この種の知だ。上から数え上げられることを拒むからこそ、上から設計された言説の盲点を、結果として正面から突くことになる。第4節で見た「何を語らせ、何を消すか」という権力は、世界を読み取り可能にすることで働く。メーティスは、その読み取りに最後まで馴染まない残余として、別の場所に立っていた。

そしてここに、「自分の頭で考えろ」という言葉の、決定的な据わりの悪さがある。彼らは、徹底的に「自分の頭で考えた」のだろうか。部分的にはそうかもしれない。しかし、考え抜いて到達したというより、コード化を拒む構えが結果として当たった、という色合いも少なからずあった。

だとすれば、彼らの正しさを「自分の頭で考えたから」だけで説明するのは、よく言って誇張が含まれている。悪く言えば後付の美談だ。逆に、さんざん考え抜いた名手たちのほうが外したのだから、「よく考えたか否か」は、当たり外れをまるで説明できていない。合言葉が、現実の前で空回りしている。

もう一方は、自分の頭で考える構えと、専門知——プロパガンダの仕組み、権力の作法、医療研究の内実——とが、たまたま一人の中で結びついた人々だ。独創性や異端であることも、そこに加わっただろう。だが、この組み合わせがそろうのは、控えめに言っても稀である。再現も、人に勧めることも難しい。「専門知を持ち、なおかつ独立して考え、しかも異端であれ」では、処方箋として成り立たない。

振り返って見えてくるのは、こういうことだ。確かに、自分の頭で考える人はいる。だが、ばらばらに屹立する天才を何人そろえても、足りない。名手は外し、勘のいい素人は理由を語れず、両方そろった人は稀にしか現れない。個人の資質に賭けるかぎり、勝ち筋がどこにも安定しない。

本当に必要だったのは、優れた個人ではなく、批判が回り続ける構造であり、生態系のほうだったのではないか。

ここで、ようやく前の節までの話が一本につながる。一人で登れる階の高さには、頭の限界という天井がある。攻撃が一人ひとり向けに作られれば、その天井は破られる。だから頼みの綱は、個人の登山力ではない。違う死角を持つ者同士が、互いの見えていない場所を指さし合える仕組みのほうだ。

名手が一つの争点で外したとき、それを正せるのは、より賢い別の名手ではない。彼とは違う構えを持つ者——勘で距離を取った素人、別の専門を持つ者、利害の異なる立場の者——が、彼の真上の死角を、自分の正面として見ていることだ。ある人の真上は、別の人の正面である。生態系の強さは、構成員一人ひとりの賢さの合計ではなく、死角が互いに違うこと、その多様性そのものから来る。全員が同じ高さの同じ名手だったら、全員が同じ階で、そろって操られて終わる。

だが、ここで安心してはいけない。この生態系の強さは、攻撃する側からも、はっきり見えている。

賢い権力者は理解している。最も危険なのは、真偽を追求する個人ではなく、真偽を追求する生態系のほうだ、と。一人の名手なら、標的を絞って取り込むか、信用を傷つけるか、上の階から操ればいい。第4節で見た通り、個人には天井がある。だが、死角を異にする者たちが互いの真上を指し合う生態系には、その天井がない。一人を落としても、別の構えを持つ誰かが、落とされた者の死角を正面から見ている。だから「真実追求の生態系」こそが、権力にとって本当の脅威になる。

ここに、情報戦の不気味な狙いが現れる。生態系を直接つぶすのは難しい。多様で、分散していて、急所がないからだ。ならばどうするか。生態系を機能不全に追い込めばいい。具体的には、構えの違う者同士が、互いの死角を指さし合うのではなく、罵り合うように仕向ける。

分断と混乱は、しばしば「副作用」や「無秩序の結果」として語られる。だが、ここまでの論からは、別の顔が見えてくる。それらは、生態系の働きを止めるための、狙い澄ました一手でもありうる。人々がたがいを「敵の手先」「騙されている愚か者」と見なし合えば、ある人の真上を別の人が指さす回路は、断たれる。指さしてくれるはずの相手が、もはや口をきく相手ではなくなるからだ。死角は、指されないまま放置される。生態系は、構成員がそろっているのに、つながりだけを切られて、ばらばらの個人の集まりへと退化する。

つまり、分断は生態系を個人へと解体する装置であり、その個人には——もう知っての通り——天井がある。権力が分断を煽る誘引は、ここにある。みなが孤立した山頂で「自分の頭で考えて」いるとき、その一人ひとりは、いちばん操りやすい状態に置かれている。「自分で考える賢い個人」へと人々を散らすことは、皮肉にも、操作する側の利益とぴったり重なるのだ。

そう考えると、最初の合言葉は、書き換えたほうがいい。「自分の頭で考えろ」は、一人を孤立した山頂へ追い立てる号令として使うかぎり、ほとんど使えない。名手でさえ外すのだから。むしろこう言うべきだ。自分の考えを、構えの違う他者の前にさらし続けろ、と。考えることの主戦場は、個人の頭の中ではなく、死角を異にする者たちが摩擦する、その「あいだ」にある。

ここまで来て、第5節の結論も、自然と置き直される。閉じた一対一の対話がいちばん危ういのは、AIという相手が特別に怪しいからではない。その「あいだ」を、構造的に消してしまう形式だからだ。だから守りは、「相手を信じるな」という、また個人の内面に戻る話ではない。それでは、孤立した山頂へ人を追い立てる、あの使えない号令に逆戻りしてしまう。守りは、閉じた部屋で得たものを、必ず部屋の外の「あいだ」へ持ち出すこと——構えの違う誰かの正面に、自分の真上をさらしに行く習慣のほうにある。

そしてこの記事自体が、その実践の一つの形でありたいと思う。閉じた対話で交わされた思考を、こうして開かれた場にさらすこと。その仕上がりを、構えの違う読者の正面に置くこと。何が語られたかではなく、さらされた記録そのものが、後から誰の目にも検証可能であること——それが、ここで言う「あいだ」を回復する、ささやかだが具体的な一手になる。

【タグ】 #並行図書館 #考察篇 #自分の頭で考える  #プロパガンダ #ナッジ  #メタ認知 #AIとの対話

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