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失われ、逝くもの

近代化遺産の宿命

 近代化遺産とは、幕末から第二次世界大戦期までの間に、近代的手法でつくられ、日本の近代化に貢献した産業・交通・土木などの建造物や関連する遺産のことをいう 。近代化の過程そのものを物語る歴史的資産である 。
 彦根の近代金融史をたどると、明治初期から多様な金融機関が生まれ、統合され、消え、また新たに編み替えられていったことがわかる。彦根融通会社や彦根物産会社、第六十四国立銀行、第百三十三国立銀行、近江貯蓄銀行、彦根商業銀行、彦根信用組合などは、いずれも地域の経済と社会を支えた存在だった 。しかし、それらの多くは合併や制度改編のなかで姿を変え、建物もまた用途転換や取り壊しを免れなかった。

 近代化遺産が抱える宿命は、まさにここにある。文化財としての価値が認識される前に消え、現役の施設として役目を終えれば、土地の事情に従って容易に解体されることもある。保存の理由は、記憶の継承にあるのかもしれない。

俳遊館が消えた日

 6月初旬、梅雨の気配がまじった細い雨が降った日、彦根のまちを歩いていたら、俳遊館(滋賀県彦根市本町1丁目3-24)が取り壊されていた。
 まだ壁の一部が残っていて、何とも言えず足がとまった。この日の雨にお似合いの風景になってしまった。完全に消えたものより、消えかけているもののほうが、儚い……。

或日、突然、失われる近代化遺産

 俳遊館は、大正12年(1923)に上棟した彦根信用組合本店の建物だ。木骨コンクリート造の二階建てで、石綿板葺きだった。一見、鉄筋コンクリートに見えるけれど、木造だというのだから驚く。
 外壁の意匠はセセッション様式(セセッション様式=ヨーロッパで 19世紀末〜20世紀初めに流行した装飾様式)で、2階の窓のマリオンや上部垂れ壁に曲面が用いられ、1920年代後半に流行するアール・デコを予感させる洗練があった。信用組合長室と思われる正方形の部屋、36畳敷きの大広間――それらが当時のまま遺されていた建物だった。彦根信用組合は、昭和26年(1951)に信用金庫法による彦根信用金庫に組織変更され、平成16年(2004)には近江八幡信用金庫と合併して滋賀中央信用金庫となった。

俳遊館として活用されていた建物
2階の窓のマリオンや上部垂れ壁の曲面

 平成8年からは俳遊館として活用され、松尾芭蕉をはじめ俳人ゆかりのまちとして彦根を紹介する資料館になっていた。蕉門十哲のひとり、森川許六を輩出した彦根の誇りを伝える場所であり、彦根ボランティアガイド協会の活動拠点でもあった。

屋根の上の瓶割の図

 少し前に、湖国のまちを歩いていて、屋根の上に不思議な意匠を見つけた。瓦でできた、小さな人物と瓶?。しばらく見とれていたが何かわからず、写真に収めて帰った。調べてみると、「司馬光 瓶割の図」だとわかった。

司馬光 瓶割の図(彦根市馬場)

 この意匠は故事が元になっている。
「幼い司馬光は、遊んでいるうちに水瓶に落ちて溺れる友人を瓶を割って助けた。司馬光の父は、大切な水と貴重な水瓶を失ったが、機転をきかせて友達の命を救った司馬光を褒めた」

 司馬光は、中国・北宋時代の学者として名高く、人望も厚かった人物だ。司馬光を褒めた父もカッコイイ。
 何故、この意匠を屋根に載せたのか。少し前のこの国では、誰でもこの故事を知っていた。勿論、火伏せの意味もあったろうが、子ども達に司馬光のように育て、或いは、司馬光の父のように子を育てる親になりたい……そう願いを込めた(念った)に違いない。故事に自らの生き方を照らし合わせ暮らしていたのだろう。

AIとフルダイブ

 技術は進んでいる。3Dスキャンで建物を精密に記録し、AIが欠損部分を補完し、VRで「経験」することができる時代が来るかもしれない。フルダイブシステムが実現すれば、身体ごとその場に「いる」体験すら可能になる。
しかし同時に、それは「再現」であって「記憶」ではない。

 未来の或日、AIが俳遊館を完全に再現しても、それを「懐かしい」と感じる人がいなくなったとき、その再現は何のためにあるのだろう……。

 AIとフルダイブが本当に意味を持つためには、記憶をできる限り「語る」必要があるのだろうが、もはやそれは誰の記憶なのか?
 AIの記憶であり、AIが懐かしんでいる。

失われることの意味

 俳遊館が取り壊されていた日、ただ、何かが終わったことを知った。
失われたことすら失われる日だった。誰も覚えていない日がやってくる。
 僕らは傍観者である。
 失ったことを嘆くのではなく、失ったことを覚えていたい。
 AIならば、どうするだろう。

滋賀中央信用金庫 銀座支店
ランドマークとして親しまれる彦根の近代化遺産のひとつ。元は明治銀行彦根支店の建物。大正7年(1918)11月25日の棟札が残されている。明治銀行は昭和7年(1932)に破綻。その後、建物はさまざまに転用された。戦後は産婦人科医院として使われ、昭和33年(1958)に彦根信用金庫が購入し、昭和34年(1959)7月から銀座支店として用いられた。

参考
『彦根信用金庫80年史』編集 創立80周年史編纂委員会 (平成7年)
『彦根ゆかりの近代化遺産 テキストⅢ』彦根市教育委員会(平成12年)
『滋賀県の近代化遺産ー滋賀県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書ー』滋賀県教育委員会/平成12年


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