あの戦争は不可避だったのか?(前編)──軍事財政と政局利用がつくった「不可避」

1. はじめに

近代日本の戦争を振り返るとき、「戦争は不可避だった」という言葉をよく耳にします。不可避論は一見すると冷静で説得力がありますが、同時に「そうなるしかなかった」と議論を閉じてしまう危うさもあります。

辻田真佐憲さんの『あの戦争は何だったのか』1は、その代表的な整理を示しています。本稿(前編)では、辻田氏の議論を踏まえながら、日本がどのようにして「戦争を避けられなくなっていったのか」を、構造的側面から見直します。


2. 日露戦争後から始まった「軍事財政の重荷」

戦争の不可避性を理解するには、1937年の日中戦争直前だけでなく、もっと長い時間軸が必要です。

  • 巨額の戦費
     日露戦争(1904–05)の総戦費は、国家歳出の年額の約7倍に達しました2。国債を乱発し、外国借款にも依存しました。

  • 恒常化する軍事費
     その返済と維持費のため、日本は平時でも歳出の3割前後を軍事費に充てる「高止まり体質」に縛られます。

  • 一時的な抑制
     1920年代のワシントン体制で25〜30%に抑えられましたが3、依然として高水準でした。

そして1930年代、満州事変をきっかけに軍事費は再び膨張します。1931年度に31%、1936年度に40%、1937年度には47%、ついに1941年度には70%に達しました4。
つまり、日中戦争が始まる前から、日本はすでに「軍需依存の片道切符」に乗っていたのです。


3. 1930年代の軍拡と日中戦争

辻田氏は、戦争の不可逆点(もう後戻りできない瞬間)を日中戦争の泥沼化に置いています。戦線が拡大し、補給が困難になり、経済が軍需化に傾いていく中で、誰も戦争を止められなくなったという見方です。

確かに、泥沼化によって「抜け出せない」状況が決定的になったことは否定できません。
しかし、それ以前から日本はすでに「抜け出しにくい方向」へ進んでいたのです。


4. 政局利用と「虎の尾を踏んだ瞬間」

私が注目するのは、日中戦争開戦そのものが「虎の尾を踏んだ瞬間」だった点です。

  • 国際的要因
     当時の中国市場はアメリカ輸出の8〜10%を占め5、イギリスも上海や長江流域に大きな利害を持っていました6。そこに日本が武力で踏み込んだ時点で、米英との対立はほぼ避けられなくなったのです。

  • 国内的要因
     1937年の総選挙で主要政党は「挙国一致」「国策遂行」を掲げ、戦争継続を政権基盤に取り込みました7。開戦は単なる外交軍事の問題ではなく、国内政治の道具としても利用されたのです。

この時点で、日本は「泥沼化を待つまでもなく」戦争を不可避にしてしまった、と私は考えます。


5. 小結──不可避の「根・幹・枝」

ここまでを整理すると、「不可避」には三つの層があったと言えます。

  • 根(長期):日露戦争後の軍事財政体質。

  • 幹(中期):1930年代の軍拡と日中戦争の泥沼化。

  • 枝(短期):日中戦争開戦とその政局利用。

辻田氏は幹に注目しました。私が強調したいのは枝。そして忘れてはならないのが根です。
不可避性は単なる一つの瞬間ではなく、長期から短期まで折り重なった構造によって作られていたのです。

しかし、これだけでは説明が足りません。
なぜ人々は「勝てない」と分かっても戦争をやめられなかったのか。
構造だけではなく、社会全体を覆った心理について後編で見てみましょう

脚注・出典


  1. 辻田真佐憲『あの戦争は何だったのか』文藝春秋、2012年。 ↩

  2. 大蔵省『大正財政史』第1巻、東京大学出版会、1964年。日露戦争戦費。 ↩

  3. 速水融『日本経済史』岩波新書、1983年。ワシントン体制期の軍事費推移。 ↩

  4. 大蔵省『昭和財政史』第18・19巻、東洋経済新報社、1976年。軍事費比率:1931年度31%、1936年度40%、1937年度47%、1941年度70%。 ↩

  5. Aaron Forsberg, America and the Japanese Miracle, UNC Press, 2000, p.56。1930年代米国の対中輸出比率。 ↩

  6. 岡義武『近代日本政治史』岩波書店、1965年。上海・長江流域の英権益。 ↩

  7. 『帝国議会史録』第8巻、帝国議会史刊行会、1957年。「東京朝日新聞」1937年4月27日付。 ↩

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