見出し画像

共感も、価値も、自己表現も、全部盛りって難しいけれど【noteの書き方】

noteを書くのって、やっぱり難しい。

note用にイラスト以外の記事を書いていると、改めて書くのって難しいなと思います。
「何を書くのが一番いいんだろう?」って、いつも悩みます。

書きたいことは、正直、いくつもあるんですよね。
言葉にしたいこと、表現したいこと、それらはnote下書きにあふれてる。

だけど、「読んでもらえるか」とか、「意味があるか」とか考えを巡らせ始めると、手が止まってしまう。
私が書きたいと思ってることは、必ずしも読み手が求めてることとは一致しないと、そう思ってしまう


才能」なんて言葉を言い訳に使いたくはないけれど、文才がある人って羨ましいなと思います。
流れるような文体で、自然と人の心を惹き寄せる。
好きなことを、好きなように書いてるようにしか見えなくとも、
読み進めたくなる「何か」を宿してる。


でも私はそうじゃないんですよね。
だから、いつもどうやったら読んでもらえるのかを考えてる
読んでもらうための、「読み手にとっての利益」って何なのか。
この記事はそれを提供できてるのか?
ちゃんとそれを伝えられているのか?

そうするといつも堂々巡りに陥る。


記事を読んでもらうために必要なのは、「価値」か「共感」か

読み手にとっての「読む理由」って、大きく分けると2つあると、私は思っています。


ひとつは、「価値提供」。

読んだ人が「なるほど」、「参考になった」、「保存しておこう」って思えるような役に立つような記事ですね。

ノウハウ記事やハウツー記事、レビューや解説などがそう。
たとえば、私が扱っている中で近いところだと、「ChatGPTの画像生成機能ってどう使うの?」とか「noteでスキが増える書き方」みたいな実用系です。

そんな、読む人が何かしら「持ち帰れるもの」があるもの
こういう記事ってやっぱり強くて、さらに検索にも引っ掛かりやすいんですよね。

実際、私も個人ブログではこの「価値提供」を軸にずっとやってきました。
個人ブログなんて殆ど検索流入しかないので、SEO(検索での流入)を考えるとそうせざるを得ないのです。
そうして初めて、読まれるスタート地点に立てるんですよね。

世知辛い世の中です。


もうひとつは、「共感性」。

これは、読者の心を動かすようなものですね。
「わかる」、「私もそう思ってた」、「共感した」みたいな反応が返ってくる記事。

noteでよく見かける日常の記録や感情の記述のようなもの。
全然特別な事件じゃなくていい。
ちょっとした気づきや意見の表明が、小さな感動として、読み手の心を刺すことがある。

こういうのはnoteならではですよね。
個人ブログでこれをやっても流入がないけど、noteならサイト内流入があるから、結構読まれる機会がある。

私も、自分の思ったことを書いたコラム的な記事に予想以上の反応をもらって驚いたことがあります。


価値」と「共感」。

どちらも、読んでもらう上でとても大切な軸ですよね。
これらの軸って普遍的なので、多くの人にとってもそうだと思います。

そう考えると、役に立つ情報が書いてあって、感情も自然と動かされるような、そんなことが出来るような記事がきっと最強なはずなんですよね。
それを目指して書くことが、「noteの書き方」の王道にして正着のはず。



…でもそれって本当なんでしょうか?


自分が書きたいことって何だろう?

そうして読み手のことばかりを考えることの弊害って、きっと「書き手の意志の不在」なんですよね
読み手にとってメリットがあっても、「書き手の意思」に沿っていない場合も出てきて、そういう場合ってモチベーションが死んでいく。

「時間を掛けて、本当に書きたいこと、表現したいことってこれなのか?」
「これは果たして自分にしか書けないものなのか?誰でも良いんじゃないか?」って。

特に読み手を意識しすぎて、自分の意志と乖離していくと、そう思うときがあります。



そうして、書く目的を見失った記事たちは、note下書きに積もっていく

noteから「3月中に下書き記事を公開して、すっきりした気持ちで4月を迎えませんか?」とかいう催促のメールが来ても、簡単に言わないで欲しい、とやるせなくなる。


だから、自分が何を伝えたいのかという「自己表現」の軸も、読み手の軸と同じように大切なんですよね。
自分の伝えたいって思うことを、書きたいって思えるテーマで、自分の言葉でつづっていく。

それが抜けてしまったら、どれだけ有益な記事でも、どれだけ共感を呼んでも、どこか虚しさが残る

私が書きたかったこと、私しか発信できないこと、それがかき消えていく。

これはきっと、Googleをはじめとする検索システムが、SEOに囚われて本質を見失ったブロガーたちにもたらす、一種の呪いなのかもしれない。


じゃあ、価値と共感と表現のバランスはどうすればいいのか?

かといって、やっぱり「自己表現」だけで戦うのって厳しいんですよね。
冒頭に書いた通り、文才に圧倒的な強みを持つ人間か、あるいは元から著名人にしか戦えない。

ネット上に数多あるコンテンツの中から、読まれることを求めるならば、それ相応の工夫がどうしてもいるんですよね。

それは「価値提供」や「共感」だけじゃなくて。
読み手のニーズが何なのか、ベネフィットって何なのかって考える。
他にも考えることはある。
このテーマは需要があるのか?
この文体は読みやすいのか?
この構成は分かりやすいのか?
これは見出しとして適正なのか?
この文章量は妥当なのか?
ここでボールドにしてよいのか?
この漢字は開くべきなのか?

そんな大小さまざまなことを考えていく。
そして疲弊し、書きたかったことと乖離していく。


そんな風にいつも、「価値提供」と「共感」と「自己表現」の狭間を彷徨っている
何を重視したらいいのかって、堂々巡りをずっと繰り返しているんですよね。

だから、いつもどこかで、何かを妥協して、「完璧であること」をあきらめる。
記事を一つ書き上げるごとに、妥協を繰り返していく。

「時間がないから仕方がない」
「完成しないよりは、完成させた方がいい」
「100%の出来で1つの記事よりは、60~70%の出来で10個記事書いた方が良い」


こういう妥協は別に間違っているわけではないんですよね。
特に短期的には正しいのだと思います。

だけど、妥協を繰り返した経験が、妥協に慣れてしまった性分が、
いつか自分に返ってくる直感があるんですよね。

1%の妥協も許さない、そんな記事を書こうともしなかった経験の乏しさが、いつか「完成度を追及できないことによる詰めの甘さ」として、私自身を問い質すんじゃないかって。
そんな気がしている。


noteの書き方を模索し続けるしかないのかも

だから、繰り返しになりますが、noteの書き方って難しいなって思います。
「価値提供」、「共感」、「自己表現」、これらの3軸のバランスすら、自分にとって何が適正なのか、その正解が分からずにいます。

この記事の問いに対する結論すらないのですが、きっと自分で模索するしかないんですよね。

少しずつ、自分なりの三軸のバランスを見つけていくしかない。
そう思って、今回もまた「書くこと」に向き合っています。

それではまた。

いいなと思ったら応援しよう!

Alpaka もし気に入っていただけたら、チップで応援して頂けると嬉しいです。その気持ちが次の創作の大きな励みになります!