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|深夜の対話室|長いものに巻かれず、「自分の問い」を立てて生きていきたい

私には、育成学級に通う中学2年生の障害(身体・知的)のある娘、ロッケがいます。


話し合いの場に出席するたび、私はある記憶を呼び起こす。

海外で大学の授業を受けた際、教授から「言葉にしないことは、黙って座っているだけで人として存在しないのと同義」ということを教わった。完成品としての「正解」を出すことだけが評価されるわけではない。投げかけられた疑問に対し、どれだけ思考し、対話を広げたか。そのプロセスこそが未来を変えるのだと、私は学んだ。

その理解でいくと、育児や介護などは対話の連続。何年もの講義を受けているのとイコール?

日本社会には最終系こそが大切で、「プロセス」という言葉に重きを感じた記憶が少ない気がする。「長いものに巻かれろ」という空気が根強く存在し、それが私を苦しめる。たまに目を閉じることもある。でも、何でも現状をただ受け入れるだけの受け身の姿勢では、思考は停止すると私は思う。

ロッケを産んでから、私は自分自身の頭で考え、選び取らなければならない選択肢の連続だった気がする。もしあのとき長いものに巻かれているだけならば、今のようなロッケの成長をこれほど見届けることは難しかった。

最近、SNSでフォローしている障害のある方が発した言葉に、私は深く心を動かされた。「障害」という言葉を漢字にするかひらがなにするか、ということに対し、その方は「そんなことは問題ではなく、社会が『障害者』という枠組みそのものを取っ払わない限り、表記を変えることに本質はない」と。

私の中に全くなかったその発想に衝撃を受けた。そこに関して言うと「現状の枠組み」の中でどう適応するかばかりを考えていた自分を、その言葉は根底から覆した。

今こうして私が自分の意志で選択を続けられるのは、日本の教育現場で、前例なき挑戦を続け、戦ってきてくださった方々(身障児のパパママ)がいたからこそ!その方々には、本当に感謝と尊敬しかない。

未来を変えていくのは、すでに用意された正解ではない。一人ひとりが自分の頭で問いを立て、違和感を言葉にし、たとえ不器用でも対話を続けていくこと。

私はこれからも、効率化で暮らしに余白を作りながら、その分、家族との対話や社会に対する自分の「問い」を大切にしたい、と思った。。誰かに決められたレールではなく、自分の意志で選び取った道を、私はこれからも突き進んでいきたい。

そうすると、ロッケの弟たちにも(親としては色々心配することもあるけど)あかるく未来をおくってもらえるのかな… と。人から「すごいね!」と言われる学歴や職業もそりゃ魅力的だけど、それよりもお母さんは、疑問を自分で整理し、対話し、答えを自分で出せる子に育って欲しい。

って、貪欲すぎますね…

はい、早く寝ます。



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