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ジョシュアツリーは、街路樹にならない

ロサンゼルスを離れ、東へ車を走らせると、窓の外の景色が少しずつ乾いていく。

建物が減り、店が減り、信号が減る。やがて視界の中に残るのは、広い空と、乾いた大地と、遠くに見える山の線になる。

砂漠、と言っても、見渡す限り砂丘が続くような風景ではない。

岩があり、低い草木があり、乾いた土の色があり、強い光がある。何もないようでいて、実際にはいろいろなものがある。

ただ、それらは都市のように、分かりやすく目立とうとはしていない。けれど、妙に目が離せない。

あるのは、広さだった。
そして、余白だった。

そんな風景が、車の窓の外に広がっていた。

そして、その中にジョシュアツリーは立っていた。

まっすぐではなく、整ってもいない。枝は不思議な方向へ伸び、どこか人の形にも、手を広げた生き物のようにも見える。

最初は、少し奇妙に見える。

けれど、しばらく眺めていると、その奇妙さが、だんだん風景に馴染んでくる。

岩と乾いた大地と強い光の中で見ると、その形は不思議と自然だった。

そこにあることに、理由があるように見えた。

ふと考えた。もしこの木が、都心の整った大通りに植えられていたらどうだろう。

歩道の幅には合わないかもしれない。
日陰も、あまり期待できないかもしれない。
景観としても少し浮いてしまうかもしれない。

それは、この木の価値が低いということなのだろうか。

それとも、見ている場所や、評価するものさしが違うだけなのだろうか。

この記事では、ジョシュアツリーの風景を手がかりに、「人と場所の関係」について考えてみたい。


街路樹というものさし

街路樹には、街路樹としての役割がある。

道に沿って並び、景観を整える。
緑陰をつくり、歩く人の快適さを少し支える。
通行を邪魔せず、建物や電線や歩道との相性も考えられている。

都市に植えられる木には、美しさだけでなく、安全性や管理のしやすさも求められる。

そう考えると、ジョシュアツリーは、都心の大通りに整然と並ぶような街路樹とは、ずいぶん違う存在なのだと思う。

枝は不規則に伸びる。
その姿は、整然とした並木道では少し浮く。
大きな日陰をつくるわけでもない。
都市の景観では、視線を引っかけてしまう。

もし、街路樹としてだけ評価されたら、ジョシュアツリーはきっと高得点にはならない。

けれど、そこで見落としてはいけないことがある。

その評価は、ジョシュアツリーそのものを見ているようでいて、実は「街路樹としての使いやすさ」を見ているだけだ。

木の価値を見ているのではない。
街の都合に合うかどうかを見ている。

これは、人を見るときにも起こる。

ある人が、ある職場で評価されない。
ある役割で、うまく力を出せない。
ある集団の中で、どこか浮いてしまう。

そのとき、私たちはつい、本人の能力や性格の問題として考えてしまう。

もちろん、努力や工夫が必要な場面もある。

けれど、すべてを本人の問題にしてしまうと、見えなくなるものがある。

評価されているのは、その人の全体ではない。
その場における、その役割への適合度だ。

都心の街路樹として見れば、ジョシュアツリーは不向きかもしれない。

それは、ジョシュアツリーが劣っているという意味ではない。街路樹という役割が、その木の本質をうまく引き出せないだけだ。

人も同じように、ある場所ではうまく立てないことがある。けれど、それだけで、自分を小さく見積もる必要はない。

その場所の評価軸が、自分のすべてを測っているわけではないからだ。

砂漠に立つから、意味が生まれる

あの乾いた大地に立つジョシュアツリーには、不思議なほど強い存在感がある。

遠くまで抜ける視界。
積み重なった岩。
低く広がる草木。
雲の少ない空。

その中に、あの木が点々と立っている。

一本一本が、少しずつ違う形をしている。
まっすぐ伸びるものもあれば、途中で曲がるものもある。
大きく枝を広げるものもあれば、どこか頼りなげに立っているものもある。

そのばらつきが、風景の一部になっている。

そこでは整っていないことが自然に見える。
不規則であることが、土地の呼吸と合っているように見える。

街の中なら浮いてしまう形が、そこでは浮かない。
その形だからこそ、あの場所に似合う。

不思議なものだと思う。

同じ木なのに、置かれる場所によって、見え方がまったく変わる。

価値は、単体で完結しているようでいて、実は環境との関係の中で立ち上がるのかもしれない。

人の能力も、これに近い。

同じ人でも、場所によってまったく違って見えることがある。

細かいことに気づく人は、場面によっては、面倒な人に見えるかもしれない。
慎重に考える人は、即断即決を求められる場では頼りなく見えるかもしれない。
独自の視点を持つ人は、同質性の高い集団では浮いて見えるかもしれない。
深く掘る人は、広く浅く回す仕事では重たく見えるかもしれない。

でも、場所が変われば、それらは短所ではなくなる。

細かく気づく力は、品質を守る力になる。
慎重さは、大きな失敗を防ぐ力になる。
独自の視点は、新しい切り口を生む力になる。
深く掘る姿勢は、誰も見ていなかった構造を見つける力になる。

どんな場所でも通用する万能な力は、多くはない。

だからこそ、人は場所を選ぶ。
そして、場所もまた、人を選ぶ。

適材適所という言葉は、しばしば人を効率よく配置するための言葉として使われる。

この人は営業向き、管理向き、企画向き。
そうやって、能力を分類し、役割に当てはめる。

それも大切なことではある。

けれど、本来の適材適所は、もう少し繊細なものなのだと思う。

それは、人を便利に使うための考え方ではない。
その人が、どこで最も自然に立てるかを考えることなのだと思う。

ジョシュアツリーは、あの土地に立つから意味が生まれる。

人もまた、自分の形が風景と噛み合う場所で、ようやく本来の姿に近づいていくのかもしれない。

「向いていない」は、終わりではない

何かに向いていないと感じるとき、人は傷つく。

自分には能力がないのではないか。
努力が足りないのではないか。
この場所にいる資格がないのではないか。

そう考えてしまうことがある。

仕事でも、学校でも、人間関係でも、似たような場面はある。

周囲が自然にできていることが、自分にはうまくできない。
求められている振る舞いが、自分にはどこかしっくりこない。
頑張って合わせるほど、少しずつ消耗していく。

そんなとき、「自分は向いていない」と思う。

その言葉には、どこか敗北の響きがある。
でも、本当にそうなのだろうか。

向いていないということは、必ずしも価値がないということではない。
それは、その場所との相性がよくない、という情報でもある。

ある環境に合わなかった経験は、自分を否定する材料ではなく、自分を知るための手がかりになる。

どんな場所で息がしやすいのか。
どんな役割なら、自然に力を出せるのか。
どんな人たちといると、自分がゆがまないのか。

そうした問いは、失敗や違和感の中からしか見えてこないことがある。

「合わない」と言って、すぐに場所を変えればいいという話ではない。

適応する力も大切だと思う。
苦手なことに向き合う時間も必要だと思う。
環境のせいにしてしまえば、学べるものまで失ってしまう。

一方で、すべてを自分のせいにするのも違う。

合わない場所に留まり続けることが、いつも正しいとは限らない。
自分を変えることだけが、努力ではない。

努力には、二種類あるのだと思う。

ひとつは、その場所に合わせて自分を磨く努力。
もうひとつは、自分が自然に立てる場所を探す努力。

自分に合う場所を探すことは、逃げではない。
自分の形を、よりよく使うための試行錯誤だ。

ジョシュアツリーは、あの乾いた土地で際立つ。

向いていない場所があることは、向いている場所が存在する可能性でもある。

そう考えると、「向いていない」という言葉は、少しだけ違って見えてくる。

それは終わりの合図ではない。

自分がどこに立つべきかを探し始める、静かな入口なのだと思う。

自分の形で立てる場所

ジョシュアツリーは、街路樹にならない。

それでいいのだと思う。
すべての木が、街のためにある必要はない。

道に沿ってまっすぐ立つ木がある。
日陰をつくり、街の景観を整える木がある。
それはそれで、確かな役割だと思う。

その一方で、広い乾いた土地に立つことで意味を持つ木もある。

不規則な枝。
少し奇妙な姿。
扱いやすいとは言えない性質。

街の中では、欠点に見えるかもしれないものが、別の場所では、忘れがたい存在感になる。

人も、きっとそうなのだと思う。

ある環境では短所に見えたものが、別の環境では強みになることがある。
うまく馴染めなかった経験が、自分を知る手がかりになることもある。

人は、その人だけで評価されているようでいて、実際には場所との相性も含めて見られている。

場所は、ただの背景ではない。
その人の見え方や、持っている力の意味を変えてしまう。

だから、ある場所でうまくいかなかったからといって、自分のすべてを否定しなくていい。

もちろん、どこにいても学ぶことはある。
合わせる努力も、続ける力も、決して軽いものではない。

けれど、自分を削り続けることだけが、誠実さではない。ときには、場所を見直すことも必要なのだと思う。

自分はどんな役割なら、自然に力が出るのか。
どんな場所なら、立ち続けていられるのか。
自分に、街路樹のような整い方を求めすぎていなかったか。

そう問い直すことは、自分の価値を、もう一度見つけ直すための作業だ。

そして、それは自分に対してだけではない。

誰かを見るときにも、同じことが言える。

この人は向いていない。
この人は扱いづらい。
この人は場に合わない。

そう感じたとき、本当に見ているのは、その人自身なのか。
それとも、その場所との相性なのか。

その問いをひとつ挟むだけで、人の見え方は少し変わる。

適材適所とは、効率の言葉である前に、まなざしの言葉なのかもしれない。

人を決めつけるのではなく、場所との関係で見直すこと。
短所に見えるものが、どこでなら意味を持つのかを考えること。
自分にも、他者にも、その可能性を残しておくこと。

ジョシュアツリーが、あの乾いた広い土地に立っているとき、その姿はとても自然だった。

その木には、その木の場所がある。

人にもきっと、自分の形で立てる場所がある。


最後までお読みいただきありがとうございます。

この記事が、自分の立つ場所や、誰かの見え方について考えるきっかけになれば幸いです。

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