なぜ島津は戦国時代から幕末まで「強い武士団」だったのか?示現流だけでは説明できない、薩摩に残り続けた異常な軍事文化


導入

戦国時代に強かった大名は数多い。

武田、上杉、北条、毛利。

名将に率いられ、精強な軍団として恐れられた勢力はいくつも存在した。

しかし、その評価が江戸時代という250年以上の平和を挟んだあと、幕末になってもほとんど変わらなかった家となると、かなり珍しい。

その代表が島津家である。

戦国時代には九州で猛威を振るい、関ヶ原では西軍に属しながら敵中突破を敢行。

そして幕末になると、今度は薩摩藩兵が戊辰戦争などで新政府軍の中核を担い、薩英戦争では世界有数のイギリス海軍と砲火を交えた。

時代も武器も戦争の形も変わっている。

それなのに、

「島津・薩摩の兵は強い」

という評価だけが、妙なほど変わらない。

なぜなのだろうか。

私は島津の強さは、単なる勇猛さではなく、

強い武士を継続的に作り出す仕組みそのものを、薩摩が長期間維持していたからではないか

と思っている。


戦国島津は、そもそも「脳筋」ではない

島津軍というと、どうしても勇猛果敢なイメージが先に来る。

しかし、戦国時代の戦い方を見ると、実際にはかなりしたたかである。

代表的なのが「釣り野伏せ」だ。

一部隊が敵と戦ったあと、あえて退却する。

敵が勢いに乗って追撃してきたところを予定地点まで誘導し、伏兵と退却していた部隊が反転して包囲する。

これは単純な突撃とは正反対である。

退却する部隊が本当に敗走してしまってはいけない。

伏兵は予定された場所で待っていなければならない。

そして敵が罠に入った瞬間、全軍が一斉に攻撃へ転じなければならない。

つまり必要なのは、

高い統制力である。

島津軍の恐ろしさは、戦う瞬間だけを見ると猛烈なのに、その猛烈な攻撃を成立させるところまでは非常に冷静なことだったのではないだろうか。


関ヶ原で残した「島津と戦うと高くつく」という信用

その象徴が関ヶ原である。

島津義弘は西軍に参加した。

しかも西軍は敗北した。

通常であれば、戦後処理ではかなり厳しい立場になる。

実際、西軍側では長宗我部盛親が改易され、毛利輝元や上杉景勝も大幅に領地を削られている。

ところが島津家は、最終的に本領を安堵された。

これはかなり異例である。

もちろん理由は一つではない。

島津家は家康の呼び出しに簡単には応じず、自分たちのペースで交渉を続けた。

同時に国境の防備も固めている。

つまり、

「交渉はする。しかし決裂したら戦う」

という態勢を崩していなかった。

そして、その脅しには説得力があった。

関ヶ原本戦で西軍が崩壊したあと、島津隊は敵中を正面突破して撤退している。

追撃してきた東軍に対しては、部隊の一部が残って食い止める「捨て奸」を繰り返しながら義弘を逃がした。

井伊直政も、この撤退戦を高く評価したことが伝えられている。

家康からすれば、考えなければならない。

関ヶ原に来ていた島津兵ですら、これほど面倒だった。

では、島津家を改易すると宣言して、

薩摩本国にいる島津軍全体を相手にすることになったらどうなるのか。

もちろん徳川方が全国の大名を動員すれば、最終的には勝てた可能性は高い。

だが問題は、

勝てるかではない。割に合うかである。

豊臣秀頼はまだ大坂にいる。

毛利も上杉も残っている。

徳川の天下が完全に確定したわけでもない。

その状況で日本列島の南端まで大軍を送り込み、島津相手に大規模な戦争を始める。

あまりにも面倒だ。

島津はここで、

「我々を潰したければ、実際に取りに来てください」

と言えるだけの軍事的信用を持っていたのである。


江戸時代になっても武士が「武士のまま」残った薩摩

普通なら、ここで終わる。

江戸時代になれば戦争はなくなり、武士は次第に行政官僚になっていく。

ところが薩摩は少し違った。

薩摩藩では武士の人口比率が非常に高く、全人口のおよそ4分の1を武士が占めたとされる。

そのため全武士を鹿児島城下へ集めることができず、領内各地の「麓」と呼ばれる武家集落へ配置する外城制度が発達した。幕末にはこうした拠点が120か所ほど存在していた。

つまり薩摩では、

地方ごとに武士集団がそのまま残った。

さらに麓では「郷中教育」が行われる。

年長者が年少者を教育し、学問だけではなく、相撲や剣術などの武芸も教える。

文化庁の日本遺産の説明でも、江戸時代に他藩の武士が官僚化していく一方、麓の武士たちは地方行政を担いながら武芸の鍛錬を続け、麓同士で武芸を競ったことが紹介されている。

ここが非常に大きい。

戦国島津の兵士そのものが幕末まで生き残ったわけではない。

しかし、

武士集団を育てる地域社会が残った。

だから世代が交代しても、次の武士、その次の武士と再生産できる。


そこへ示現流が加わる

そして薩摩武士を語るうえで欠かせないのが示現流である。

示現流を大成した東郷重位は島津家の剣術指南役となり、初太刀に全身全霊を注ぐ剣法を作り上げた。

のちには薬丸兼陳から、さらに実戦色の強い薬丸自顕流も生まれ、特に薩摩の下級武士へ広がっていった。

ここで重要なのは、単に「薩摩には強い剣術があった」ということではないと思う。

示現流の考え方は、

迷って技を選ぶより、接敵した最初の瞬間に全力を叩き込む

方向へ極端に寄っている。

それを何度も何度も反復する。

つまり戦場で考える前に身体が動くところまで鍛える。

これは集団戦になると恐ろしい。

一人の達人が特殊な技を使うのではない。

同じ地域社会で育ち、同じような武芸を学んだ武士たちが、

「接敵したら一気に仕掛ける」

という戦闘思想を共有するからである。


武器まで思想に合っている

さらに面白いのが武器である。

示現流を大成した東郷重位の愛刀として知られるのが同田貫だ。

同田貫は元幅が広く、重ねも厚い頑健な刀として知られ、初太刀へ全力を注ぐ示現流とは非常に相性の良い刀だったとされる。

もちろん、

「薩摩武士は全員同田貫を持っていた」

という話ではない。

しかし象徴的ではある。

軽快に何手も技を交換するための刀ではなく、重く頑丈な刀へ全力を乗せる。

敵が刀で受けても、強烈な衝撃が腕や姿勢へ伝わる。

場合によっては刀そのものを損傷させる可能性もある。

つまり、

相手の防御まで含めて最初の一撃で崩す

という示現流の発想と非常に噛み合っている。

教育、剣術、身体、武器。

すべてが同じ方向へ向いている。

ここまで来ると、これは単なる剣術ではなく、一種の戦闘システムに見えてくる。


ところが薩英戦争では、大砲まで強い

そして幕末になると、さらに妙なことが起きる。

そんな白兵戦文化を持つ薩摩が、

西洋式の大砲まで扱い始める。

薩英戦争で薩摩はイギリス艦隊7隻と戦った。

装備や海軍力では、当然イギリス側が上である。

鹿児島の市街地や集成館などにも大きな被害が出た。

しかし薩摩も一方的に撃たれたわけではない。

イギリス側にも損害を与え、戦争後にはイギリス側も薩摩の実力を認識したと鹿児島県の資料にも記されている。

ここで重要なのは、薩摩が単なる「刀を持って突撃する武士集団」ではなかったことである。

大砲というのは、勇気だけでは当たらない。

距離を測り、照準を決め、装薬量を調整し、砲を操作し、再装填する。

すべて訓練が必要になる。

つまり示現流と大砲は、一見すると正反対に見えて、

反復訓練によって身体と操作を徹底的に鍛える

という点では似ている。

薩摩武士の強さは「勇敢だった」だけではなく、

そもそもの練度が高かった

と考えた方が自然なのではないだろうか。


そして負けた相手から、すぐに学ぶ

薩英戦争のさらに面白いところは戦後である。

薩摩は、

「西洋人に砲撃された。許せない」

と意地になってイギリスとの敵対を続けたわけではない。

戦ってみて、

「英国は強い」

と理解する。

すると今度は、そのイギリスへ接近していく。

鹿児島県の資料でも、薩摩側が英国の力を実感する一方、英国側も薩摩の実力を認識し、それを契機として薩英が接近したとしている。

これは非常に島津らしい。

強い相手なら、意地を張って戦い続けるのではなく、

使えるものは取り入れ、組めるなら組む。

戦国島津もそうだった。

戦闘そのものは猛烈だが、そこへ至るまでの判断はかなり冷静である。


島津の本当の強さは「敵に割に合わないと思わせること」

ここまで並べてみると、戦国から幕末まで続いた島津・薩摩の強さには、ある共通点が見えてくる。

ただ勇猛なのではない。

戦術

敵を誘導し、有利な状況を作ってから攻撃する。

教育

郷中教育によって武士の価値観と集団規律を世代継承する。

社会制度

外城制度によって地方にも武士集団を残す。

白兵戦

示現流・薬丸自顕流などによって、接敵時の猛烈な攻撃力を鍛える。

武器

その戦闘思想に適した実戦的な武器を選ぶ。

技術

大砲など新しい兵器も躊躇なく取り入れ、使いこなす。

外交

敵の実力を認めれば、昨日戦った相手とでも組む。

全部がつながっている。

そして、その結果として敵側に生まれる評価が、

「島津とは全面戦争したくない」

なのではないだろうか。

関ヶ原後の徳川家康にとってもそうだった。

島津を処分することはできる。

だが、本気で抵抗された場合、それに見合うだけの利益があるのか。

幕末のイギリスにとっても似ている。

薩摩を砲撃することはできる。

しかし、一方的に屈服させられる相手ではない。

ならば敵対を続けるより、関係を作った方がいい。


「最強の武士」ではなく「強い武士を作り続ける藩」

島津家を語るとき、どうしても島津義弘や西郷隆盛といった突出した人物に目が向く。

しかし、本当に特殊なのは個人ではないのかもしれない。

戦国時代から幕末まで、およそ300年。

普通なら軍事組織は変質する。

戦争がなくなれば武士は官僚になり、武芸は儀礼化する。

ところが薩摩では、

戦える武士を生み出す社会構造そのものが残った。

だから戦国時代には島津軍が強く、

250年以上の平和を挟んでも、

幕末になると今度は薩摩藩兵が強い。

しかも昔の戦い方へ固執するわけではない。

必要なら鉄砲を使う。

大砲を作る。

西洋技術を取り入れる。

そして戦った英国からさえ学ぶ。

つまり島津・薩摩の恐ろしさは、

古い武士文化を保存したことではない。

古い武士文化の中に、

「鍛えること」「実戦で役立つこと」「強いものを取り入れること」

という思想まで保存していたことなのではないだろうか。

だから時代が変わっても強い。

刀の時代には刀で強い。

銃と大砲の時代になれば、今度は銃と大砲を覚える。

そして最後まで残るのが、

敵に「こいつらと本気で戦うと高くつく」と思わせる軍事的信用である。

戦国時代と幕末。

まったく違う二つの時代で、島津・薩摩が同じように恐れられた理由は、そこにあったのかもしれない。

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