DIYの原点。母の指先。
学研
「小学◯年生」だったと思う。概ね皆様も書店で見たことがあるだろう、付録付きの中々に値段の張る雑誌だった。あまり買ってもらえる雑誌ではなかったが、偶然買ってもらったその号に
「アニメの主題歌レコード」と「紙で作るそのプレイヤー」
が付録していた。
(藤子不二雄のナニかっだった、気がする)
でも、私が強烈に覚えているのは件の「レコード」「プレイヤー」の方ではない。
子供なりに試行錯誤している時に、差し伸べてくれた母の指先に付く
米
だ、当時からモノ作りに興味は有ったが、「ぶきっちょ」であり「在庫管理」も出来ない私は、その瞬間「のり」を持っていなく、セロハンテープでしのぎ、作っていた。
確かプレイヤーの「針の役割」の部品だったと思うが、どうしてもセロハンテープでは上手く行かず、イジケていた。そんな時に母がスっと持ってきたのだ指の先に、米を。
「ん、どうずんの?ぞれでっ?」ってなってた私に、「米で付く」と教えてくれた。
ただそれだけだった。
当時の頭でも充分理解は出来た「そりゃ付くよね!」。
プレイヤーはセロハンテープで固められ、針は米で付き、ちゃんと再生された。
「食べ物」を「道具」に変換する「発想」が無かったんだ、その時は。
なんか良くないことのような気がするし。
もちろん、いまでも食べ物を粗末にはしない。果物で発電実験はしたけれど…
わきまえてる。ただ多角的な
捉え方
を学ぶことが出来た、モノ作りの基本その発端「代替」だ。
「無いから作る」は、ちょっと難しい。中級者以上だろう。
だけど、
「壊れたから治す(したい)」は幼少期から接することができる。
当然、「分解」や壊れている部分を「探し当てる」技術は相応に上がってゆくが
壊れた自転車を「捨てる」のではなく「治す」というキッカケは「母の米」だった。
100円ショップが幅を利かせ(悪いことだとは言っていない私も沢山利用している)、
ディスカウント店が繁盛するベースがこの国にあるからこそ、なお一層にモノに対する接し方は考えるべきだ。
壊れても「代替」をベースに治せるんだよ。なんでも。
危険だと思う様なモノはちゃんとした修理屋さんに頼んでね。
ちゃんとした修理屋さんは「買うほうが安いじゃん!」とはならないから。
セールで買った、100円で買った、Temuで買ったモノだから「捨ててイイ」は違うと思う。SDGsの話じゃ全くない。そのベクトルじゃない。
自分がその目の前にあるモノの気持ちになってほしい。気持ち悪いけど。
たぶん、「まだ、イケルョ」って言ってるはず。
件のレコードは暫くして後「フリスビー」に代替して遊んだ。
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