宝塚の歴史を変えた舞台『虞美人』
前回、『虞美人』誕生にまつわる白井先生の人間らしいエピソードを紹介しました。
今回は作品について掘り下げてみたいと思います。
宝塚のための作品ではなかった
原作は長與善郎の『項羽と劉邦』で、中国の歴史で有名な「岩をも抜く力を持つ」ほどの勇ましい武将が主人公の物語です。
項羽の妻である虞美人が、落城の時に剣の舞を舞いつつ自刃して、その墓から咲いた赤い花を「虞美人草」と呼んだという伝説から、その名前を題名にしました。
実は『虞美人』は、宝塚で上演される予定ではありませんでした。
白井鐵造はこの作品を男性のいる劇団で上演しようと長年温めていました。
しかし、久しぶりに宝塚に帰ってきて、すっかり成長した春日野八千代と神代錦の姿を見て、この二人ならやれると思い、宝塚での上演を決定したのです。
とはいえ、勇ましい武将の役を男装の麗人が演じて、どれだけ効果があがるか、始めのうちは迷ったといいます。
宝塚は女ばかりの劇団だから、男でなければ出来ないような、無理な男役をやらせることは避けなければならない。そして、その欠点をカバーして男装の舞台の美しさを強調して、男の俳優のいない不満を感じさせないで、反対に男などいないほうが、いいと思わせるものにして、その特殊性を強調して見せなければならないというのが私の持論だから、不安であった。しかし春日野、神代をはじめ、皆が好演で、この「虞美人」によって宝塚の男役の演技を大きく世に示すことができたのは、成功だった。
豪華絢爛な舞台
『エノケン竜宮へ行く』『木蘭従軍』などの男性俳優を加えたミュージカルを東宝で手がけていた白井は、そこで学んだ男性の舞台の良さを生徒たちの演技にプラスすることで、宝塚でもスケールの大きい舞台を作ることができました。
中国ものに造詣が深い香村菊雄氏を共同演出に迎え、舞台装置や衣装は豪華絢爛なものとなりました。
さらに、オーケストラボックスからの男性による影コーラスにより勇壮な雰囲気を盛り上げ、本物の馬を2頭と小象1頭を登場させてスペクタクルな舞台を作り上げました。
登場人物は延べ300人に及んだといいます。
田畑きよ子さんも、著書の中で「戦後間もない1951年の宝塚で、これだけの豪華な舞台を作ることは、戦前の『モン・パリ』以上の冒険だったに違いない」と書いています。
こうして幕を開けた『虞美人』は、宝塚初の一本立て大作として連日満員を記録し、組を替えて3か月の続演という大成功を収めたのでした。
東京宝塚劇場の再開公演に
東京宝塚劇場は戦争で閉鎖され、戦後は連合軍に接収されて軍専用のアーニーパイル劇場として使われていました。
小林一三は『虞美人』を絶賛し、東京宝塚劇場の返還の際にはこの作品を上演することを決めました。
東京宝塚劇場は1934年に白井鐵造作『花詩集』で開場し、1955年に『虞美人』で再開したのです。白井鐵造推しにとって何とも感慨深い事実です。
主題歌「赤いけしの花」
朱い花びら 恋のいろ
燃ゆる心の 虞美人草
咲けば散るもの 枯れるもの
何故に咲くのか 美しく
思いを遠く 花摘めば
君の姿の しのばれて
かえらぬ夢よ 今いちど
虞よ虞よ君を 如何にせん
この主題歌は河崎一郎氏作曲で、作品とともにこの歌もヒットして、現在まで広く愛唱されています。
最近では2023年に花組で上演された『ENCHANTEMENT(アンシャントマン) -華麗なる香水(パルファン)-』の中で、トップスター柚香光さんをはじめとした花組生が歌い上げた印象的な場面として記憶に残っています。
まとめ
男性俳優のいる舞台で上演するはずだった物語が、戦後の宝塚で生まれ変わり、女性だけの劇団の可能性を大きく広げました。
『虞美人』は、白井鐵造の挑戦であると同時に、宝塚の歴史が一歩前に進んだ瞬間だったのかもしれません。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
参考文献
白井鐵造著『宝塚と私』中林出版、1967年、p.176-180
田畑きよ子著『白井鐵造と宝塚歌劇』青弓社、2016年、p.138-141
