『「エッセイって、なぁに?」の巻~読んだことないのに書いてます~』
私はエッセイというものを、ろくに読んだことがない。
正確に言うと、本屋でパラパラとチラ見したことくらいはあるのだけれど、一冊をじっくり読んだ記憶がまるでないのだ。
そんな人間が、いま、何をトチ狂ったのか自分自身でエッセイを書いている。我ながら、なかなかの度胸である。
そもそも、エッセイって何だろう、と自分なりに考えてみた。
エッセイは、あっちこっちへフラフラする。きっと、その本質というのは、ものすごい周り道をすることなのだと思う。
論文みたいに「結論はこれです」と直線的に進むのではなく、小さな出来事のまわりを、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと探索するプロセスそのものが大事なのではないか。
そういえば、あっちへフラフラこっちへフラフラといえば、看護学生時代に実習で体位変換の記録を、あっちへコロコロこっちへコロコロと書く女の子がいた。
その記録を見たときは、おむすびコロリンみたいだなぁと思ったし、「だいじぶ?漢字、書ける?というか、読める?」と心底心配になったものである。
「あっちこっちでねくて、右側臥位、左側臥位と専門用語を使うのだよ?ちみは、ワカラナイノカイ?」
と、教えたくなったのを今でも思い出す。
そんな、フラフラの極みであるエッセイだが、断定しないで輪郭をぼんやりと、あいまいな境界のままで残しておくことで、読んでいる人も「あ、そういえばさぁ」と一緒に考えてくれるような、そういう、白黒つけないおぼろげな空間な気がする。
一つの事実から「もしもこうだったら」のフルコースをどんどん展開して、自分の小さな世界から、急に未来や宇宙、他者という大きな世界へと視点を行ったり来たりさせる。
客観的な事実と、自分の勝手な内省がモザイクみたいに組み合わさって、あの独特の文章ができあがるのではないかと思う。
……と、ここまで書いていて、ふと気がついた。
あれ?これって、あの忌々しくも懐かしい「看護課程の展開」にちょっと似ているのではないか。
私はヘンダーソンで習ったのだけれど、あの壮大なプロセスのことである。
まず、アセスメントだ。
患者さんの14の基本的欲求の状態や、それに影響する常在条件、病理的条件の情報をあらゆる角度から収集する。そして未充足の欲求がどこにあるか、それを充足させるために欠けている体力や意思力、知識は何なのかをウンウン考える。
次に「看護診断」で、その未充足な状態や原因から問題を総合的に判断し、「看護計画」で充足のための具体的計画を設定する。
それから「看護の実践」として計画通りに行動し、最後の「看護の評価」で、どの程度充足できたかを患者さんの反応や観察から、目標の達成度やケアの適切性をこれまた総合的に評価する、というあの一連の流れだ。
小さな事実と、それに基づき今後こうなるおそれがあるという仮説(アセスメント)から、あれこれと関連を考えてプランを組み立て(看護診断・計画)、実際に行動してみて(実践)、それがどうだったかを内省する(評価)。
そう考えると、エッセイというのは、あの小難しい看護課程のステップを、自分自身の心の中で勝手に、かつ自由にやってみるようなものなのかもしれない。
だからこそ、仮説や空想が大得意な人に向いているのではないかと思うのだ。誰かに「書きなさい」と言われて義務で書くというよりかは、自分の内側からどうしようもなく湧き上がってくる爆発のようなものなのだ。
「芸術は、爆発だぁ!」という有名な言葉があるけれど、あの感覚が、いまなら分かる気がする。
これが、日記になると、ちょっと違う。日記はきっと「記録」なのだ。
今日これが起きて、こう思いました。まる。
日記は、他者と共有することを前提にしていないから、わざわざ文脈を説明したり、他人を引き込むための周り道、ちょっとしたサービス精神のようなものを必要としない。
その時点での記録であって、それを普遍的な問いへと膨らませるステップを踏まないのだと思う。
ただ、こうして熱く語ってはみたものの、エッセイって世間的な需要はあんまり無さそうだなぁ、とも思う。
特に男性は、こういう文章に興味がない人が多そうだ。
というのも、以前『バカの壁』という本で読んだのだけれど、同じ出産のビデオを見た感想でも、男子学生は「知っている」と一言で断言し、女子学生は「勉強になった」と、細かなディテールまでじっくり見て新しい発見があったと、感想を述べたのだそうだ。
なるほどなぁ、と思ってしまう。
そのため、多くの男性は私のエッセイを読んでも、ちょいちょい目にしたワードのみを都合よく拾い上げて、「ああ、アレのことね。もう読み飽きたよ。知ってるし」という具合になってしまうのではないか。
もちろん、男性全員がそうだと言い切るわけではない。
性別で一括りにして分けてしまってゴメンね、という感じではある。女性だって、エッセイを読まない人は全然読まないだろう。あくまで、そういう傾向があるのかなぁ、というちょっとしたお話。
エッセイの語源はフランス語の、essai(試み)という言葉らしい。1580年にモンテーニュという人が『エセー』という本を出したのが始まりで、人間の内面を深く見つめて思索するものだったそうだ。へぇー、と感心してしまう。
こういう、エッセイの歴史や書き方についてのちゃんとした、エッセイだけに特化した専門書があれば読みたいなぁ、と思うのだけれど、なぜだか見当たらない。齋藤孝先生、早く本を出してください。もしそんな本が出たら、私は秒速で本屋に走って購入する自信があるのです。
かといって、じゃあ他の人が書いた普通のエッセイを読むかと言われると、それはちょっと……微妙。
だって、真面目に読んだ日にゃあ、知らないうちに影響を受けて真似してしまいそうだし、表現がインスパイアされそうでちょっと恐ろしい。
それに、もし自分と同じようなことが書いてあったら「うわぁ、被ってる〜」と、ガッカリしそう。「こういう表現をするのかああああ。」と頭を抱える自分の姿が、容易に想像できてしまう。
エッセイは、自分の周りの出来事を軸に書くわけだから、他人の人生じゃないもんで、人のことは気にしなくていいのだ。自分軸でフラフラしよう。
もちろん、普遍的なテーマを扱えば、どうしても内容が被ってしまう部分は出てくるとは思うけれど。
他人と比べないで、如何にマイペースで書き続けるか。
これが、ちいちゃんの大きな課題。
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