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第一話(3/3) 琥珀色の嘘と、紅の証言

翌朝、冬の陽光は冷たく、自治会館の廊下を白く照らしていた。

事務員の佐久間は、事務机に向かい、昨日と変わらぬ無機質な手つきで書類を整理している。

その指先には、一片の揺らぎもなかった。

「佐久間さん。昨夜の件で、一点だけ確認したいことがありましてね」

蓮見の静かな声に、男は眼鏡の奥の瞳を僅かに動かした。

「刑事さん、まだそんなことを。私は一歩も外へ出ていない。私のスーツを見れば分かるでしょう。あの豪雨の中を歩けば、撥水加工をしていたとしても、繊維の奥まで水気が染み込む。だが、私の服には染み一つなかった。私は、あなたの通うあの店のような、小洒落た居酒屋へ行く趣味もない。ずっとここで、一人で仕事をしていたのだから」

蓮見は、男の言葉を遮ることなく、一通の鑑識報告書を机の上に置いた。

「ええ。あなたのスーツも、革靴も、驚くほど完璧に乾いていた。雨という外敵から、あなたは自分を完璧に守りきった。……ですが佐久間さん。あなたが引いたその境界線が、皮肉にもあなたを追い詰めることになった」

蓮見は、証拠品袋に入った「丸められた透明なフィルムの破片」を男の前に示した。それは、会館のゴミ集積所の底、他のゴミに紛れるように押し込まれていたものだ。

「あなたは、備品室にある大判のストレッチフィルムを全身に巻き付け、雨を完璧に遮断した。そして戻った直後、そのフィルムを切り裂いて処分した。……だが、不運でしたね。あなたが着ていたそのスーツには、数日前にこぼしたコーヒーの、微かな『糖分』が繊維に残っていた」

佐久間の眉が、ぴくりと跳ねた。

「衣服の上からラップを巻き付け、そのまま二十メートルの中庭を往復すれば、フィルムの内側は凄まじい高温多湿状態になる。すると、普段は乾いて固まっている微細な糖分が、あなたの『体温』と『蒸気』によって蒸され、再び溶け出した。……そして、密閉されたフィルムの裏側には、あなたの体温で蒸発した汗が結露となって付着し、そこに溶け出した糖分が混じり合ったんだ」

蓮見は、報告書の数値を指でなぞった。

「見つかったフィルムの内側からは、あなたの汗の成分とともに、スーツの繊維に付着していたものと同一の糖分が検出された。一方で、外側には雨水の成分以外、何一つ付着していない。雨は通さないが、内側の汚れは吸い上げる。……このフィルムが、昨夜のあなたの『肌』そのものだったという証明ですよ」

佐久間は、力なく背もたれに体を預けた。その額から、今さらながら大粒の汗が滲み出し、眼鏡の奥を曇らせていく。

「……内側から、漏れていたというわけか」

男の独り言は、冬の乾いた風に溶けて消えた。
その夜、蓮見は再び「まどろみ」の暖簾をくぐった。

店主は、初めてこの店を訪れた客のように振る舞う佐久間の逮捕劇など知らぬげに、ただ丁寧に真鯛の身を引いている。

「マスター。結局、彼を追い詰めたのは、彼が自分を完璧に守ろうとして閉じ込めた、自分自身の熱だったよ」

店主は、切り分けた刺身を、ラップも氷も使わず、ただ清らかな白磁の皿に並べた。

「お刺身も人間も、無理に閉じ込めれば、内側から傷んでしまいます。一番良いのは、こうしてありのままの姿で、寒さに身を委ねることかもしれません」

店主が差し出した真鯛は、凛として、一点の曇りもない輝きを放っていた。

蓮見はその一切れを口に運ぶ。

舌の上に広がるのは、もはや何にも惑わされることのない、透き通った真実の味であった。

「……美味かった。ご馳走様、マスター」

蓮見が満足げに吐息を漏らすと、店主は新しいタオルで包丁の刀身をゆっくりと拭った。

その顔には、誇るでもなく、卑下するでもない、ただ一つの仕事を終えた職人の静かな平穏が宿っていた。

「お粗末さまでした」

店主の低い声が、店内に静かに染み渡る。
外では、雲の切れ間から凍てつくような冬の星が、静かに地上を見守っていた。

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