「右傾化」ではなく「成熟」である── 日本の安全保障認識はなぜ変わったのか
はじめに ── 変化を認めない言説
近年、日本社会における安全保障認識の変化に対し、一部のメディアや政治勢力は強い違和感を示し続けている。朝日新聞、毎日新聞、東京新聞といった新聞、TBS「サンデーモーニング」のような番組、そして共産党・社民党・れいわ新選組などに見られる論調は、その典型である。
彼らは、防衛力の整備や抑止力の必要性を語る動きをしばしば「右傾化」と位置づける。しかし、この評価は本当に現実を捉えているのだろうか。
本稿の結論を先に述べれば、日本社会に起きているのは「右傾化」ではない。それは、戦後の特殊環境の中で形成された思考様式から脱し、国際政治の現実に立脚した認識へと回帰する過程である。
第一章 ── 戦後日本という「温室」
戦後日本は、日米同盟という枠組みのもと、特異な安全保障環境に置かれてきた。いわば外部の脅威から一定程度守られた「温室」の中で、独自の平和観が育まれたのである。
その中で広がったのが、「こちらが戦争の意思を示さなければ戦争は起きない」という観念的平和主義であった。この考えは倫理的には理解できる。しかし、それは国際政治の現実とは必ずしも整合しない。
国家間関係は、意思だけでなく能力と構造によって規定される。相手の行動は、こちらの善意とは無関係に決定されることがある。この基本的な前提が、日本では長く十分に共有されてこなかった。
言い換えれば、戦後日本は安全保障に関する厳しい現実を、ある意味で外部化できる時代を生きてきたのである。その環境は日本人の生活を安定させた一方で、安全保障を自らの問題として考える感覚を鈍らせる側面も持っていた。
第二章 ── 現実の到来
その前提を揺るがしたのが、東アジアにおける力の変化である。
中国の軍事的台頭と海洋進出の活発化は、日本周辺の安全保障環境を一変させた。さらに、北朝鮮の核・ミサイル開発は、直接的な脅威として現実に存在している。
そして決定的だったのは、ロシアによるウクライナ侵攻である。「力による現状変更」は過去の遺物ではなく、現在進行形の現実であることが、誰の目にも明らかになった。
これらの事象は、日本人に一つの事実を突きつけた。
平和は、願うだけでは維持されない。
こちらに戦争の意思がなくとも、相手が現状変更の意思と能力を持てば、危機は現実化する。日本社会はようやく、この単純だが重い事実を直視し始めたのである。
その結果、多くの人々は理解し始めた。「平和を望むこと」と「平和を守るために備えること」は、決して矛盾しないということを。
第三章 ── 「右傾化」という誤読
こうした認識の変化に対し、「右傾化」という言葉が繰り返し用いられている。しかし、この言葉は現象を説明するどころか、むしろ覆い隠している。
実際に起きているのは、思想の極端化ではない。理想先行の思考から、現実に即した思考への移行である。言い換えれば、現実主義の回復である。
それにもかかわらず、防衛力強化や抑止の必要性を語ること自体に対して、「軍国主義」「危険思想」といったレッテルが貼られる場面がある。これは議論の内容に向き合うのではなく、印象によって相手を排除する態度であり、建設的な議論を阻害する。
しかも厄介なのは、この種の言説がしばしば自らを「理性」と「道徳」の側に置きたがる点である。しかし、現実を見ずに理念の優位に固執し、異論を道徳的に断罪する態度は、理性的というより硬直的である。
思考停止した平和の叫びは、もはや理性ではない。それは現実から目を背けることで、責任を回避しているに過ぎないのではないか。
第四章 ── 本当の理性とは何か
ここで問われるべきは、「理性」とは何かという問題である。
従来の言説は、自らを理性と道徳の側に置き、現実的な安全保障論を情緒的・危険なものとして描く傾向があった。しかし、本当に理性的なのはどちらなのか。
本当の知性とは、見たくない現実を直視し、その上で最悪の事態を避けるための算段を立てる力である。
抑止とは、戦うための準備ではない。戦わせないための準備である。その意味で、防衛力の整備を語ることは、むしろ極めて合理的であり、冷静な判断の産物である。
平和を愛する者こそ、抑止を軽視してはならない。備えを持たない平和主義は、美しい理念にはなっても、現実の危機の前では社会を守れないからである。
第五章 ── 平和主義の成熟と政治的帰結
日本社会が経験しているのは、平和主義の放棄ではない。それは平和主義の成熟である。
かつての平和主義は、「戦争をしない」という意思に重点を置いていた。しかし現在は、「戦争を起こさせない」ための条件整備へと視点が移りつつある。
これは理念の後退ではない。理念を現実の中で機能させるための進化である。
言い換えれば、受動的平和主義から、能動的平和主義への転換である。
そして、この変化は世論の空気にとどまらず、政治の側にも反映されている。現に高市早苗氏が首相として在職し、第2次高市内閣が2026年2月18日に発足している事実は、日本社会の相当部分において、現実主義的な安全保障観が政治的選択のレベルでも受容されていることを示す象徴的現象と見ることができる。
もちろん、これは特定の政治家を無条件に称揚することを意味しない。重要なのは個人崇拝ではなく、こうした政権が成立し得る社会的土壌そのものが、すでに形成されているという点である。
むすびに ── 現実を引き受けるということ
日本は、戦後の「温室」から外へ出つつある。そこには不確実性と緊張が存在する。しかし、それは本来の国際社会の姿でもある。
この変化を「右傾化」として拒絶することは容易である。しかし、それは現実から目を背けることに他ならない。
平和を守るとは、現実を引き受けることである。そしてその現実の中で、最も合理的で持続可能な選択を積み重ねていくことである。
日本社会はいま、その段階に立っている。
大切なのは、備えを語る者を安易に「危険」と決めつけることではない。むしろ、戦争を避けたいからこそ備えるのだ、という当たり前の認識を、社会全体で共有していくことである。
それは右でも左でもない。現実を生きる国家としての、成熟である。
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