「リアルも推しも、壊れてる。」【推しの子】感想考察 〇映画編~星に夢に
全てひっくるめてファイナルチャプターと言ってもいい内容。ルビーの決断、アクアの復讐の決着、そしてそのエピローグを描く。
・ゴロゴロ構成による盛り上がり不足
映画編以降、イマイチ盛り上がりが微妙に感じるのは、大きめの展開がゴロゴロ点在していることに関係する。
最終回までにキャラの問題を解決したり、けじめをつけさせたりしなきゃという、大きめのお片付けエピソードが多く、オモチャを片付けているときのようなしんみり感は出ているが、それらが1つのクライマックスにあまり向かうことはなく終わっている。
様々な因縁や伏線を一つの演劇バトル内で全て片付けるという、爽快な「スラムダンクの山王戦方式」を見せてくれた2.5次元舞台編と比べると、
「話は順調に片づいていくが、それがクライマックスの盛り上げに寄与しておらず、淡々としている」という感想を抱く。(ワンピースの最終章もこんな感じになりそう。というか、いつが最終章だよ)
そうは言っても、私の好きなガンダムは、「戦争」という方向に主要キャラ全員が顔を向けている。
しかし、推しの子は、「芸能界」を生きる人々なだけで、向いている方向は様々だ(そういう人たちのすれ違いの話でもある)。
そのため、推しの子のキャラの決着をそれぞれつけようとするならば、ある程度ゴロゴロとした構成にはなるのはしょうがないのかもしれない。
また、ルビーだけに注目してみても、役者としての展開と転生者としての展開が交互に起きているうえに、そのスキマに壱護やツクヨミの話もありわかりづらい。
転生バレ後のルビーの決意である、「ママより輝く」「私として生きる」発言は、ルビーの芝居覚醒後のかなとの会話でも同じようなことを言い、カミキを許すかどうかにもつながってくる。
しかし、この展開は、話の流れによる伏線の積み重ねというよりも、ルビーの決意の念押しという印象を受ける。その決意によってルビーがカミキを許す選択をとるのだが、あまりカタルシスは感じない。
・映画編のテーマと、描いてきた「闇と光」
芸能界編では実写ドラマ、恋リア編では恋愛リアリティーショーの闇と光を描くなど、今までテーマごとに闇と光を描写してきた。映画編では、「アイドル」がテーマであると私は思う。
そういう意味では、押しの子の「映画編」として一番大事な回は、第137話 偶像 である。アイドル活動の中で、人の醜い欲望を詰め込んだような存在、『偶像』にさせられた星野アイに言及する闇のエピソードだ。
光としては、映画編ではないが最終回ではっきりと描かれ、ドームライブで歌うルビーに、ある少女が、「ああ神様 きっと彼女は暗闇に光を照らす為に生まれてきたんですね」と心の底から感動をするシーンである。
少女が見ているものは、紛れもない『偶像』だ。彼女の言葉に星野ルビーという個人の存在はない。それでもこれは希望を表すシーンであり、『偶像』も人を救えうることを示す。
押しの子はフェアな描写が多く、闇を描いたら光を忘れない、誠実な作品だ。あの天童寺まりなですら、もし娘が思い病気でなければまともな親でいられたかもしれないという希望を残したりする。
そういう誠実な作品だからこそ、私たちの心をつかんだと思うし、読む視点としても、いろいろな角度から見てみようという気にしてくれる。
・わかりづらい許しの意味
映画編での許しとは、カミキにアイのビデオレターの内容を伝え、アイがカミキを突き放したのは愛ゆえであるということをわかってもらい、それにそった映画の演出にするということだった(ビデオレター映像の追加やルビーの演技の仕方など)。
その許しをルビーが実行したことによって、台本段階では悪意のある映画だったのが、初号では黒川が優しい笑みを浮かべて涙を流せる映画に変わった。どんな映画だよ。
なんにせよ、映画は公開される。ということは、
ルビーが許そうが許さまいが、カミキヒカルであろう人物は法でさばけない殺人鬼であるということが社会に伝わるのだ(第 話の黒川の発言より)。強いて言えば、そのニュアンスが多少変わるくらいであろうか。そのため、許しとは、カミキに同情し罪を追求しないということではなく、どちらかというと情けに近いものである。
これは私の個人的な持論の部分が大きいが、多少伏線をぶん投げようと、物語の本筋を貫き通し、それを力強く描き切れば気にならない。推しの子の本筋は、いろいろな裏テーマなどがあれど、「復讐」であると思うのだが、
それを描くにあたっての映画周り(アイの残したDVDも含めて)のわかりづらさは、結構作品にダメージを与えていたように感じる。
・アクアの死
アクアは死ぬべき人間であった、それは映画との向き合い方を見れば明らかである。
アクアの目的は、映画という巨大事業を使い、法でさばけない殺人鬼を社会的に殺すことであった。世の中には、例えば、「脳外科医 竹田くん」のような、被害者の親族の方が、WEB漫画という手段を用いて、病院の医療事故に対するの個人や組織の問題、そして被害者の苦しみを風化させず、問題提起し続けるための作品がある。
しかし、アクアは、自分の誕生理由や、アイが殺されるにあたっての芸能界、そして社会の闇を知りながらも、
あくまで自分の復讐、カミキの社会的な死のために映画を作っている。
脚本を見た段階で、「悪意を感じる」という演者が続出しているのは、作品の骨組みからその意図があふれでているからであり、それは、
自分の目的のために人を扇動して殺人をさせたカミキと何が違うのだろう。
また、第142話で、アクアは吉祥寺先生に、「自分だけ安全圏なんて絶対に許されない」「物語って言うのはね 人を殺すことすらできるものなの」「だからこそ 物語を描くものにはその一文字一文字に相応の責任が求められる」という。
アクアには、作品を人殺しの手段として使うなら、責任をとってお前も死ね。という言葉にしかきこえないだろう。そういうことがわかっているのだったら、吉祥寺先生には、アクアをぶん殴ってでも映画を止めてほしかったものである。
最期、アクアは目ん玉をバッキバキにさせながら死に、死後も自分の行動に自信が持てない。また、残された人々にも大きな傷を残す。キャラがかっこよく死ねる時代は80年代がギリギリであり、どちらかというと、
それを背負わねばならない人々や「そんな上手いこと死ねるかよ。」というところに焦点が当たることが多い(またはすぐに生き返ったり)。推しの子もその作品の一つである。
・星野アイとは何だったのか。
先にまとめてしまうと、星野アイは、アイドルの才能と多少サイコパスな一面を持ちながらも、誰かを愛したいからその人が喜びそうなことをして、傷つきそうになったらキャラで自分を守り、人を思い愛ゆえに嘘をつくという、どこにでもいる女性だ。
アイの噓には3つの種類がある。1つ目は、愛する対象を見つけるための「攻めの噓」である。アイドルとなり、ファンなどに愛しているという嘘を振りまくことで、それが本当になることを願っていた。そして、その噓こそが私なりの愛、つまり、だれかを愛したいがための嘘そのものが愛なのだというところに行きついていたのだ。
2つ目は、弱い自分を覆い隠すための「守りの嘘」である。どこにでも居る繊細な少女の一面もあるアイが、芸能界で生きていくため、アイドルの才能やキャラクター、そして、人の醜い欲望を詰め込んだ、アイドルとして完璧な(都合のいい)要素を使って、星野アイという個人の存在を覆い隠すということをしてきたのだ。
3つ目は、カミキだけにおこなった、「思いやりの嘘」である。これは1、2つ目の噓と違い、たとえ相手や自分の意に反しようとも、その人のために噓をついたのだ。この噓は、上2つのものと比べると、とても不器用さは感じるがありふれたものであり、第154話で語られる真相は、サスペンスドラマでありがちな男女のすれ違い程度の印象しかない。しかし、愛の対象を求めていたアイが、不器用な愛をカミキに注いでしまうことに意味があると感じる。
そう考えると、カミキとアイの、サイコパスな若者らしいグロテスクな恋愛をもう少し描いてほしかった。2人のセックスが全く想像できないのは、背景を考えるうえでかなりの問題である。
「クズの本懐」というエロい漫画を横槍メンゴ先生は描くことができたのだから、何とかならなかったのかなあ。それでいうと、恋リア編の鷲見ゆきは、メンゴ先生ぽくてよかった。
・カミキとは何か。
「わからない男」というのが結論の1つだろう。
なにが原因かはっきりわからない。性虐待を受けたためか、自分がきっかけで上原一家が心中したためか、アイとの依存関係がそのトラウマをえぐるような形で終わってしまったためか、もともとの人間性か、もしくはこのすべてか。
とにかく、様々な原因のせいで、
「自分の中にめちゃくちゃな理があり、それを走らせ何人も人に殺しをさせる災害のような男」を作ってしまったかもしれない、というところにのキャラの意味があるのだ。
アクアは、そんな不条理な現実達に対して反撃をするしかなく、それは現実の私たちも同様である。
