BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSE 普遍的、文化的そして個人的な価値観
◆ダルマを選ばなかったとき何が起こるのか、何を失うのか
「人間」としての生は、自由意志を使って行いの選択ができる。人間には、自由意志があり、選択がある。選択があるときだけ、正しい/正しくない(ダルマ/アダルマ)が存在する。良い/悪いを分別する「常識的な」知識も与えられている(=サーマンニャ・ダルマ)。何が正しいか は、教育されなくても根源的に知っている。なぜなら、悪いことをしたら居心地が悪かったりずっと気にかかったり、隠そうとしたりするから。
だから、教育が必要なのは、
「ダルマを知っているはずなのに、なぜダルマを選べないのか」
「ダルマを選べなかったときに、何を失っているのか」
◆普遍的、文化的そして個人的な価値観
普遍的な価値観が存在する一方で、文化的・個人的な価値観も存在する。「選択が存在する」文化。西洋では個人的な選択が前提となっている。たとえば、モーニングはパンの種類や卵料理を選べたりする。日本も同じく。一方、インドは違う。メニューの選択が無かったり、お茶の時間にはチャイ一択。
上記の「選択が存在する」文化は、個人の好き嫌いに基づく。ここで話題にするのはその類ではなく、サーマンニャ・ダルマという普遍的な価値構造。どの国であろうとどのような場所で生きていようと、如何なる人も持ち合わせているもの。お金・権力・名声や影響力は、普遍的な価値観ではない。それらを安心材料として求めるのも人間。でも、そのために何かを貶めたり犠牲にすることはダルマではない。

◆価値観は絶対的ではない
同情や愛そして慈悲は普遍的な価値観ではあるけども、絶対的ではない。普遍的とは、絶対的ではなく、相対的ということ。常に相対的であるからこそ、普遍的な価値に沿っているか反しているか。ダルマなのかアダルマなのか、という分別がある。私たちには全員、共通の感覚・考えを持って生まれてくる。「すでに在る普遍的な考え」が「道徳」であり、ダルマということ。「普遍的な価値」が、根源的な尺度である。
例えば、お金や名誉・名声そのものは、普遍的ではない。かといって、それを追い求めるのがアダルマということではない。私たちは「安全」を求めるので、それを形として得ようとしたときにそれらを追い求める。問題は、その手段がアダルマだった場合。その追求はアダルマになる。アダルマとは、普遍的な価値観に合致しない・逆らっているケースである。
「普遍的な価値」、つまりダルマを無視し、適切ではない手段を選択すると、何を失っているのか。
なぜアダルマな選択をしてしまうのか、といえば、それによって何を失っているかを理解していないから。だから、教育が必要になる。「普遍的価値」に合致しないアダルマな選択によって私が何を失うのか。その理解が、内的成長である。その理解が無ければ、目の前の利益(たとえば5000円)のために嘘をつく。5000円が得られても、そのアダルマな行為によって失っているものを、その人は気づいていない。
お金や権力・地位を得るために普遍的価値に反する選択をすることによって、莫大なものを失っている。それに気づかない・理解をしていないから、その人はアダルマな選択をしていっても平気。あるかどうかわからない地獄を考えるよりも、いま、この人生で得をしたいから。逆に、得るものよりもはるかに多くのものを失うと理解している人は、内的成長・人としての成熟がある。
