BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSE GITA DHYANAM 8番目の詩
◆7番目の詩 IN PRAISE OF THE MAHABHARATA マハーバーラタを讃える
『マハーバーラタ』という叙事詩は蓮の花であるという、美しい例え。ギーターは人々から楽しまれ、人々はギーターのエッセンスをいただいている。まるで、蓮の花から蜜を呑むミツバチ。
マハーバーラタは、蓮の花に例えられる。
言葉の水から生まれてくるもの。汚れのない花。
ギーターの意味として、甘く強い香りを持つ。

◆8番目の詩 THE LORD'S GRACE 神の慈悲
मूकं करोति वाचालं
पङ्गुं लङ्घायते गिरिम्
यत्कृपा तमहं वन्दे
परमानन्दमाधवम्
mūkaṃ karoti vācālaṃ
paṅguṃ laṅghāyate girim
yatkṛpā tamahaṃ vande
paramānandamādhavam
I salute that Maadhava, the source of supreme bliss, whose grace makes the dumb man eloquent and the cripple cross mountains.
満ちていることの本質(ラクシュミー)の、統括神としてのクリシュナ神。その慈悲(クルパー)は、話の出来ないひとを雄弁にし、足の不自由なひとを山に登らせる。私は、彼に敬意を表します。
慈悲とは、”行いが実った結果”。行いの結果のことを、カルマ-パラという。ドリシュタ-パラ(目に見える結果)とアドリシュタ-パラ(目には見えない結果)。結果は、選べない・もたらされるものを受け取る。行いは、選べる。自由意志をもって行いを選択できるのが人間。ただ、いま起きているもの・叶っているものは、自分の、いつ・どの行いの結果かはわからない。複数の行い(カルマ)の複合的な結果が、秩序(ダルマ)に沿って、還ってきている。
行いには、3つのレベルがある。
・からだを使う行い
・ことばを使う行い
・考えを使う行い
祈りは、考えによる行い。自由意志を使って選択をする行為が含まれているから。考えが彷徨っているときは、自分に横切る様々な情報に持っていかれている。一方、祈りは、祈る対象を自分で選んで、考えをそこに留める。動物は祈りという行為が出来ないから、祈りは、もっとも人間らしい行為とも言われる。
祈りには、心理学的な恩恵もある。わたしが祈れること自体が、過去からの恩恵。過去の行いの恩恵を受け取っている側面。過去の行いの調和が実って、祈れる。考え・価値観が整い、客観的に物事が観られる状態に到達できているということ。その結果として、祈れる私が存在している。
個人とは、誰でも限界を持っている。けれども、祈る対象は「限りの無いもの」として尊敬することができる。自分の無力さや限界を知っているから、「自分が生かされている」と知っているから、「祈り」を選択することができる。ヴェーダーンタでは、イーシュワラを知っているから祈ることができる、とされる。
私たちは、安心・安全を求め続けて、何かを得ようとし何かになろうとし続ける。でも、そこに辿り着いた途端に、それを失う不安が生まれて。終わりない繰り返し。私たちが究極追い求めている安心・安全も、私たちの知識にも、限りがある。対照的に、限りが無い・全知全能な存在を知ることができるのも、恩恵。その存在と繋がれる行為が、祈りや瞑想である。
誰しも、ダルマ・アダルマの両方を併せ持ち、双方を揺れ動く。それでも、ダルマを積むこと、祈ることで、中和していく。その結果がいつ還ってくるか、どのようになるのかは、私たちにはわからない。
