BHAGAVADGITA HOME-STUDY-COURSE 道徳的な秩序との摩擦
◆ヨギーという生き方
自分の中に分裂を観るときとは、ダルマに反した行いを選んだり嘘をついたり不誠実な対応をしたとき。分裂を抱えた私は、たとえお金や地位・名誉を付け足したとしても、自分自身を見下げてしまう、自分を小さく見積もることになる。なぜなら、「すべき選択をできていない人間」だと自分自身が知っているから。楽しんだり得をした気に、束の間なれるかもしれない。でも、その奥には「受け入れられない自分」が居て、埋めようのない分裂がある。
モークシャをゴールとして目指す生き方を選んだ人を、ヨギーという。ヨギーにとっては、自身の情緒的な成長が一番の喜びとなる。それによって、好き嫌い・機嫌の良い悪いから自由になる。成功や失敗という区別がなくなる。いずれの場合も、自分の成長があるから。ダルマを都度選び取り、摩擦を減らし分裂が起きないように、外側ではなく自分の内側の成長を喜びにしていくことが、ヨギーの生き方。

相手を想っての嘘・真実を言わないこと、それはダルマか?アダルマか?
私たちが見えている範囲で判断しようとするから、「グレーゾーン」に感じられる。世界を包括する秩序・法則。それは行いと結果が明瞭に結びついていて、グレーゾーンは存在しない。でも、私たちは身体を持って存在することでこの空間を占領していて、必ずしも完璧なダルマを為すことはできない。
相手を想って相手を守ろうとして良かれと選んだ行為が、結果として相手を傷つけたり、思いがけない展開になることもある。ただ、その「結果」は、私の行為による直接的な結果に見えても、複合的な要因・見えないものが作用しているかもしれない。それはもう、私にも当人にもわからない。過去のどの行いが作用したのか?と分析するよりも、今ひとつうひとつの行いを丁寧に選んでいくことが大切。

◆道徳的な秩序(ダルマ)との摩擦
摩擦とは、何か逆らっている際に起こる。調和しているときは、摩擦は起こらない。秩序(ダルマの法則)に調和してるときには、その人に自由がある。摩擦したら摩擦し返されるというわかりやすい事象。ダルマに反した行いは、自分に還ってくる。
嘘や不誠実な行為によって、行ない手である私とそれを観ている私とが不一致となる。その分裂が大きくなっていくと、保身に走ったり、さらに嘘を重ねたりしてしまう。そうした秩序に反した行いで、どれほど多くのものを失うか。自分自身への評価にそのまま反映される。分裂したままの私は、行い手である私のことを評価できないから、自分で自分のことを認められなくなっていく。それは、人生最大の損失である。
自分の嘘や不誠実が誰にも判明されていないと思っていても誰も観ていないとしても、自分の名誉や実績が他者に評価されていたとしても、他ならぬ自分自身が「そうではない」と知っている分裂を抱えていたなら、自分で自分を評価できない。人間が生まれてきた最大の目的・恵みは、モークシャ=自己受容(自分で自分を受け入れられること)であるはずなのに、そこからどんどん離れていってしまう。
一般的には、お金によって体験やものを得ることによって、自分を楽しませたり自分を満足させる。分裂していない私であれば、お金が必要なアクティビティは要らないし、何かを付け足す必要はない。なぜなら、自分自身の成長を楽しむことが出来るから。成功も失敗も同じに観ることができる。いずれにしても自分の成長があるから。カルマ・ヨギーという生き方。
何が良いか悪いかは、生来知っている。教育が必要なのは、「悪いこと」をすることで何を失うのか、を理解すること。切羽詰まっているときほど、ヴェーダンタの教えを後回しにしてしまいがち。。余裕がないときこそ、少しでも距離をおいて観ていくことが必要(痛切・・)。
