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裸のわたしと溺れるぼく


*本作は事実を元にした私小説フィクション
です。大部分の体験は実話に基づきますが、
登場人物名・職業・地名等は創作です。
*本作には性的描写、精神疾患など、心理的に
過激な表現が含まれます。
繊細なテーマを含みますが、これは誰かを
傷つけるためではなく、 傷を持つ人間が、
それでも立っていることを描くための物語です。 ご自身の状態に合わせて、無理なくお読み
ください。






第一章 皮膚の嘘


浅田キョウ。三十一歳_____

ぼくには、生まれた日から着ている服がある。

脱げない。燃やせない。誰かに預けることも
できない。それは「女の身体」という名の、
精巧すぎる衣装だった。
鏡を見るたびに、奇妙な他人と目が合う。

「あなた、誰ですか」と問いかけたくなる。

けれど鏡は正直で残酷で、ぼくの問いに黙って「女」を映し続ける。笑えるよまったく。

浅田キョウ。それがぼくの名前だ。

母の名前は浅田ナツコ。ぼくが三歳の時、
父は蒸発した。「蒸発」という言葉はいつも
面白いと思う。人間が水みたいに気体になって
消えるのだから。お父さんは今頃、どこかの
雲になって、誰かの傘を濡らしているかも
しれない。ご苦労さまです。

母の親友で、子供の頃から「おじちゃん」と
呼び続けている村田ケンは、恰幅のいい初老の
男だった。ラーメン屋を営んでいて、ぼくが
泣いて行くたびにチャーシューを余分に入れて
くれた。人の優しさが食べ物に宿ることを、
ぼくはあの店で覚えた。

ぼくが自分の内側に「男」がいることに
気づいたのは、小学三年生のころだ。
体育の授業で男女に分かれる瞬間——
あの数秒に、ぼくの人生の全部が詰まっている
気がした。

容姿については正直に言う。
ぼくは世間一般が「美人」と呼ぶカテゴリに
位置していると思う。
それが便利な日もある。それが牢獄になる
夜もある。誰とでも仲良くなれた。
笑顔を作るのは得意だった。
ただ仲良くなればなるほど、ぼくの内側の
「ぼく」が、どんどん遠くへ行くような
気がした。
二重の嘘つき。身体が嘘をついて、
その上にぼくがもう一枚嘘を塗り重ねる。

これが「隠すこと」の技術だ、とぼくは思う。
人生という舞台の上で、ぼくはずっと名優を
演じてきた。誰にも台本を見せないまま。
拍手を受けながら、幕の裏で独り、ヘドを
吐くような。そういう舞台を。

性的指向についても正直に言う。
ぼくは男も女も好きになる。
心が男で、身体が女で、好きになる相手が
男女どちらでもいい。属性の福袋だ。
こんなに盛り沢山なのに、神様は追加料金を
請求しなかった。大サービスである。



第二章 火が咲いた日

高校二年に上がった春。
ぼくの人生に最初の傷が刻まれた。

幼馴染の山本タカシは、小学校の頃から
友達だった。背が高く、サッカーが得意で、
笑うと歯茎が見えるタイプ。いつも登下校は
一緒。仲の良さは周りからも「相変わらず」な
間柄で見られていた。信頼していた。
ともに思春期を過ごした仲だ。
好きだった。親友として。
悪い奴ではなかった、と今でも思う。

ただ、あの日だけは、ちょっと悪かった。

ぼくは通っていたバトミントンの部室で
掃除と片付けをしていた。この後、着替えて
帰宅する。普通のことのはずだった。

タカシが入ってきた。気がつくと、ぼくの
身体は床に押し倒されてた。

「好きだ。好きだたんだ。ずっ、ずと。」
・・・噛んでやがる。

言葉が言い訳のように宙に漂っていた。

一緒に育ってきたはずなのに、タカシは
強く、大きくなり、ぼくは小柄な女のまま。
凄い力だった。
押し倒された床はコンクリートで、
その冷たさが、背骨を一本ずつ数える
みたいに伝わってきた。
ゴリッ・・ゴリッて。
苦しいとか痛いとかじゃなかった。
ただ、自分の身体が自分のものじゃなくなって
いく感覚、そんな感覚があった。

「やめろよ」と言った。確かに言った。
何度も。でも声は小さかった。
なぜ小さかったのか、今でも答えを探している。

——ここから先を、ぼくは長い間、誰にも
話せなかった。
静かに事実だけを記す。その日、浅田キョウは
十七歳で、望まない形で性と出会った。
そして——これが彼女をその後何年も苦しめる
ことになるのだが——その経験の中に、
砂粒ほどの「快感の欠片」が紛れ込んでいた。
それが、呪いの種だった。
身体は正直すぎる。身体はぼくの意志など
聞かない。神経は勝手に反応する。
「それは違う、これは嫌だ」とどれだけ
叫んでも、刻まれた感覚は消えない。
その事実がぼくを長い年月、苦しめ続けた。
「快感を感じた自分」を糾弾することで、
ぼくは自分自身の検察官になった。

タカシとはその後、ぎこちなく普通の幼馴染に
戻った。人間関係というのは、時に驚くほど
器用に「なかったこと」を飲み込む。
ぼくたちはそうした。しかし、こともあろうに
ぼくたちは、それからも何度か秘密の関係を
続けてしまった。「なかった事」はぼくと
タカシにとって、「バレずにある事」に
なったのだ。ぼくはあの日のことに、ずっと
名前をつけないままにしておいた。

高校を卒業し、十九歳から専門学校へ進んだ。
ビジネス実務系の学科で、簿記や医療事務の
資格を取る、ごくありきたりな二年間。
二十一歳の春、地元の中小企業に事務職として
就職した。平凡でいい。平凡が一番安全だと、
そう信じていた。タカシは他県の大学に進学。
次第に連絡も途絶え、会わなくなっていった。

その頃のぼくはまだ、水面に浮かんでいた。




第三章 溺れるということ

溺れ始めたのは、就職してしばらく経った
頃からだった。

ぼくは誰とでも仲良くなれた。
美人だとよく言われたし、愛想がよかったし、
話すのが上手かった。
職場の飲み会でも、SNSでも、街でも。
気づけば毎晩誰かといた。男でも、女でも。
身体が求めているのか、心が叫んでいるのか、
もう区別がつかなかった。
それを「楽しい生活」だと思っていた。
一時期は本当にそう信じていた。
でも実際には、ぼくは溺れていた。

最初は「寂しさを埋めるため」だと思っていた。誰かと肌を重ねると、一瞬だけ、ぼくの輪郭が
はっきりする気がした。
鏡の中の他人が、ほんの少しだけ「ぼく」に
見える気がした。だから繰り返した。
繰り返すほどに、必要な量が増えた。
薬と同じだ。効かなくなると量を増やす。

黒川ユウという男が現れたのは、二十二歳の夏。

整った顔をしていた。詐欺師というのは、
なぜいつも整った顔をしているのだろう。
神様のキャスティングセンスを疑う。

「お前みたいな子、初めて見た」と言った。
ぼくは笑った。正直、その台詞、ぼくで
何人目だろうと思いながら、それでも笑った。
人間は、聞きたい言葉を聞かせてくれる人間に
弱い。それだけのことだ。

ユウはぼくの衝動を、最初から知っていた。
いや、正確には——嗅いでいた。
傷口の匂いを嗅ぎ分ける能力において、彼は
天才だった。食べ頃の果実を見分けるような
目で、ぼくを見ていた。腐りかけが一番甘い、
ということを彼はよく知っていた。

関係は最初から歪だった。
歪なのに、心地よかった。それがまた歪だった。

ユウはぼくの欲望を、道具として使った。
「会いたい」と言えば来る女。
「愛してる」と言えば財布を開く女。
彼にとってぼくは、コンビニATMと愛人の
中間あたりに位置する存在だったと思う。
便利で、手数料がかからない。

性行為は、多い時は一日に何度もあった。
ぼくの渇望とユウの算盤が、完璧に噛み合って
いた。これを「相性がよかった」と呼んで
いいのかどうか、今でもおかしく思う。

金は静かに消えた。

財布の中身が減るのを、ぼくはしばらく
気づかなかった。いや——気づいていたの
かもしれない。ただ気づきたくなかった。
人間の自己欺瞞能力は、時に驚くほど高性能だ。

カードローンを初めて使った夜のことを
覚えている。ATMの画面が、ぼくに静かに
問いかけてきた。
「ご利用額をご確認ください」。確認した。
なるほど、と思った。それだけだった。
金銭感覚というものは、溺れている最中には
正常に機能しない。これは仕様だ。

ユウが消えたのは、ある火曜日の朝だった。

火曜日というのがまたいい。劇的な別れなら、
せめて嵐の夜とか、桜が散る日とかにして
ほしい。よりにもよって火曜日の何でもない
朝に、彼のLINEは既読がつかなくなった。
電話は繋がらなかった。部屋を訪ねたら、
もぬけの殻だった。

郵便受けに、領収書が一枚だけ残っていた。
ぼくが払った飲食代の、古い領収書だ。
おそらく、ポケットから落ちたのだろう。
置き土産にしては、センスがなさすぎる。

カードローンの返済額は、当時のぼくの月収の
六倍になっていた。

笑えるでしょ。笑えないけど、笑うしかない。
さすがは蒸発の家系かと、ぼくは父のことを
ふいに思い出した。なぜかぼくの周りの男は、
水になって消える。ぼくが人間磁石なら、
引き寄せるのは常に「蒸発体質」だ。

そして二十三歳の冬、ぼくは初めて精神科の
病棟に入院した。

診断名は「強迫的性行動症」。衝動制御の
障害だ。意志の弱さでも道徳の欠如でもない——脳の報酬系が歪み、性行為に対して薬物依存と
酷似したサイクルが生じる。
渇望、行動、一時的な安堵、そして深まる空虚。また渇望。この回転木馬には、一人では降りる
出口がなかった。

入院、退院、再燃、再入院。
その繰り返しの中で、田中リョウと出会った。

二十四歳の夏のことだ。リョウは真剣だった。
本当に。ぼくのジェンダーも、過去も、全部を
知ろうとしてくれた。
ただ一つ、病気だけを理解できなかった。

「また、誰かと寝たの」

問いではなかった。断定だった。
そしてそれは正しかった。正しい断定ほど、
人を傷つけるものはない。リョウはある夜、
「もう無理だ」と言ってアパートのドアを
閉めた。その音は今でも耳の奥にある。
静かで、最終的な音だった。

松田サクラとの別れは、もっと静かで、
もっと残酷だった。

二十五歳の頃に出会ったサクラは、女だった。
ぼくと同じ、どこか乾いた目をしていた。
同類の匂いがした——傷の種類は違っても、
傷がある、ということの匂いが。

二人でいる時間は、ぼくが「ぼく」でいられる、数少ない時間だった。ジェンダーも、過去も、
病気も全部を話した。サクラは黙って聞いた。

「そっか」と言った。

その二文字が、ぼくには海のように広かった。

身体を重ねる時、サクラとの間には独特の
引力があった。それは男とのそれとは、
まったく違う種類のものだった。
男との行為が「渇望の充填」だとすれば、
サクラとのそれは——言葉にするのが難しい——「存在の確認」に近かった。お互いの輪郭を、
触れることで確かめ合うような。

しかしぼくの病気は、そんな美しい心と
関係さえも道具にした。

衝動が来ると、ぼくはサクラ以外の人間とも
身体を重ねた。病気とはそういうものだ。
サクラへの愛情が嘘だったわけではない。
ただ衝動は、愛情の優先順位を書き換える。
感情の回路を迂回して、直接、行動へと繋がる。

サクラはそのたびに、ぼくを許した。

許して、また求めて、また傷ついて、
また許した。二人の間には、歪で官能的な
ラリーが繰り返されていた。傷と許しが何度も
ネットを越えて行き来する、終わりの見えない
ラリー。
どちらも打ち返すことをやめられなかった。
やめ方を知らなかった。
ラケットを置いたのは、サクラの方だった。

「あなたを救えない」と彼女は言った。
泣いていた。その涙を見て、ぼくは二つの
ことを同時に思った。
ひとつは「救ってくれなんて頼んでいない」。
もうひとつは、
「救われたかったのかもしれない」。
この二つは矛盾しているが、人間の感情と
いうのは、いつも矛盾を平気で同居させる。

サクラが去った夜、部屋は静かだった。
静かすぎて、ぼくは自分の呼吸の音が聞こえた。吸って、吐いて。まだ生きている。
当たり前のことが、当たり前でない夜があった。

そしてまたすぐに誰かを探して歩いた。
そんな病気だった。


その後、
産婦人科の白い天井を見つめることになる——



第四章 底の底から

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