弦が鳴る夜に眠れ〜禁酒法時代を生きた、二つの魂の多重人格譚〜 / 創作大賞2026 / 応募作品
創作大賞2026.応募作品
〜弦が鳴る夜に眠れ〜
約9,900文字・ノワール・内面を抉る純文学
*過激な表現を含みます。
第一章 煙草と酒と硝煙の街
一九二八年、冬・ニューヨーク。
この街は煙草と酒と硝煙の匂いで出来ていた。
街角では聖書を抱えた牧師が「酒は魂を腐らせる」と叫び、その三軒隣の地下室では、警官が
密造ウイスキーを煽っていた。
「禁酒法」は酒場を消した代わりに、"スピーク
イージー"と呼ばれる秘密酒場を街中に増やした。
善人は昼に祈り、悪人は夜に稼いだ。
そして大半の人間は、その両方だった。
マイロ・ウォーカーは、そのどちらにもなれない男だった。
痩せた指。伏し目がちな目。黒いコートの袖口は擦り切れ、靴底には穴が空いている。
だが、彼がバイオリンに触れた瞬間だけ、世界は彼を貧乏人扱いしなかった。
孤児院育ちのマイロは、教会の古いバイオリンで育った。神父はよく言っていた。
「主は人に試練を与える。だが時々、音楽も
与える」。マイロは、その言葉が好きだった。
賛美歌を弾くたびに、自分がこの世界に存在していいのだという確認のようなものを感じた。
孤児とは、自分の正当性を常に誰かに問い続ける生き物だ。弓が弦を擦るあの細く長い音は、
まるで魂そのものが、細い糸の上で震えている
ようで、彼にとって祈りと演奏は、ほとんど同じものだった。
だが彼には、いつからか宿った"もう一人"の
人格がいた。
「奴」は自らをスチューと名乗った。
テーブルに置かれた一枚の汚く鋭いメモ書き。
「俺はスチュー。オマエは?」
それが「2人」のファーストコンタクトだった。
1つの体に2つの人格。
神の悪戯と呼ぶには、あまりに特異で不穏な
性質だった。
この時代、精神医学という分野はまだ揺籃期で
あった。
フロイトの精神分析が知識人層に広まりつつ
あったが、「解離した人格」など、一般市民
レベルではほぼ「気が狂った人間」「悪魔憑き」として扱われていた。
都市の裕福層がかかるようなカウンセラーの
治療を孤児であるマイロが受けれるはずもない。
マイロは耐え忍ぶしかなかった。
優しく温厚なマイロとは違い、スチューは残虐な怪物のような男だった。
酒場で喧嘩をし、娼婦を抱き、借金取りの顎を
砕く。
朝になれば血まみれのシャツで目を覚まし、
マイロは頭を抱えるのだ。
「入れ替わり」に法則はなかった。
月曜の朝、マイロは教会でバイオリンを弾いて
いた。火曜の夜、スチューが港で誰かの腕を
へし折っていた。水曜はマイロに戻り、木曜の
昼にまたスチューになった。
予告もなく、前触れもなく、まるで空が晴れたり曇ったりするように、二人は入れ替わった。
マイロにとって、それは目を覚ますたびに始まる謎解きだった。
今日は何日か。ここはどこか。ポケットの中身は何か。
財布に見知らぬ大金があれば、スチューが何かをやった夜だ。シャツに血がついていれば、誰かを殴った夜だ。知らない口紅の跡があれば・・
もう考えたくもなかった。
ある朝など、枕元に人差し指が転がっていた。
マイロは窓を開け冬の空に向かって泣き叫んだ。
「・・主よ!許したまえ!」
(声にならない叫びで・・)
それから静かに指をハンカチで包み、どこかに
捨てに行った。神に謝りながら。
なぜか警察にも捕まらない。
これもスチューの悪知恵なのか。
自首も考えた。しかし、「自分が何をしたのか」
わからないまま裁かれる事はできなかった。
自分の体のどこに、こんな残虐な力があるのか、マイロは知る事ができなかった。
ニーチェは言う。
"精神とは、肉体のおもちゃにすぎない"
一方、スチューにもマイロの記憶がほとんど
なかった。バイオリンを弾いていた感覚だけが、たまに指先に残った。
それが何なのか、スチューには分からなかった。分からないまま、弱いヤサ男を嘲り酒を煽った。
二人は同じ体に住みながら永遠に背中合わせだ。
まるでコインの表と裏が、互いの顔を見られないように。
だが、その"怪物"のおかげで、マイロは生き
延びてもいた。皮肉にも。
第二章 出会いと「終わり」の始まり
マイロが"ダッチ"と出会ったのは、秋の雨の
夜だった。
路地裏に男が倒れていた。コートに血。
片目を押さえ、荒い息をついている。
マイロは立ち止まった。
関わるべきではない、と頭のどこかが言った。
だが足は動いた。
孤児院で育った人間というのは、困っている
人間を前にすると、妙に足が正直になる。
「・・追われているのですか」
男は片目でマイロを見た。値踏みするような
目だった。しかし、すぐに観念したように、
その手を取った。
マイロは男を近くの廃倉庫に匿った。
チンピラ同士のいざこざ。この街では、誰もが
知る日常の出来事。そう思っていた。
不安ながらも、マイロは自分のボロいコートを
脱いで男にかけた。
男が何者かは聞かなかった。聞く必要もないと
思った。困っている人間を助けるのに、理由は
いらない。神父がそう言っていたから。
しかし、三十分も経たないうちに、外が騒がしく
なった。
複数の足音。怒鳴り声。扉を蹴破る轟音。
武装した男たちが、四人。
マイロは恐怖に凍りついた。
バイオリンを抱えるために育てたような細い
指が、情けないほど、ガタガタと震えた。
しかし・・次の瞬間、「マイロはいなかった。」
後から聞いた話によると、四人のうち三人は
病院送りになり、もう一人は二度とこの街に
現れなかったらしい。
マイロが目を覚ますと、廃倉庫の床に血が飛び
散っていた。シャツが破れていた。そして、
男が、静かに葉巻に火をつけながら座っていた。
「ん?・・・覚めたか?」
「・・・あの、ぼくは・・」
「お前じゃない」と男は言った。
「さっきまでここにいたのは、別の誰かだ」
マイロは頭を抱えた。また・・スチューだ。
男は名乗った。ヴィンセント・ハームス。
通称ダッチ。マイロはその名前を、後になって
知ることになる。ギャング組織の参謀だと。
「お前、うちに来い」
「え?」
「断る理由があるか?」
他には、選択肢がなかった。
懐には金もなく、帰る家もなく、そして今夜
また、自分の知らない自分が、自分の知らない
「何か」をやらかしたのだから。
神父や孤児院にも、きっと危険が及ぶ・・
利口な優しさから、ダッチについていく事を
マイロはしかたなく決めた。
ギャング組織"ブラック・ドッグス"。
酒の密輸、賭博、港湾労働組合への脅迫。
典型的な時代の悪党たちだった。
その参謀役を務めるダッチだけが、マイロの
秘密を知っていた。
ヴィンセント・"ダッチ"・ハームスは五十がらみの落ち着いた男で、片目に古傷を持ち、いつも
高級葉巻を噛んでいた。本棚にはフロイトの
著作が並んでおり、こんな男がなぜギャングに
いるのかは誰も聞かなかった。
聞けば、「人間を研究するには、一番面白い
場所だからだ」と答えるのがオチだった。
「お前は二人いる」
そう言われた夜、マイロは初めて自分の理解者に出会えた気がした。
「安心しろ。俺だって昔ゃ二人いた。酒飲む前の俺と、飲んだ後の俺さ」
「・・笑えませんよ」
「そうか? 俺の好きなジョークだがね」
ダッチは葉巻の煙を吐き出しながら続けた。
「聖書にはこうある。『柔和な者は幸いである、彼らは地を受け継ぐであろう』_____
お前がいるから、あの暴れ馬は今日まで
生きているのさ。そして、スチューがいたから
俺も今日まで死なずに済んでいる。
持ちつ持たれつだ。神様も案外、面白い配役を
なさったもんさ」
ダッチは、禁酒法時代を心底愛していた。
「法律ってのは最高だ。禁止された瞬間、人間は倍欲しがる」。そう言って葉巻を鳴らすのだ。
それからというもの、ダッチはこの異質な
「コンビ」を上手く使い分けた。
抗争や締め上げ、取り立てにはスチューを。
帳簿管理、書記にはマイロを。
その手腕で、組織ブラック・ドッグスは
その勢力を静かに、確実に拡大していった。
第三章 赤毛の娘と弦の声
ある夜、マイロはダッチに連れられ、
組織の裏酒場"ブルー・スワン"へ行った。
この世の罪と欲望を1箇所に集めた退廃の箱。
マイロは今まで、「酒場」をそう思っていた。
しかし、違った。
あの娘と出会ったからだ。
"グレイス"・マクレガー
赤毛の娘だった。琥珀色の瞳。安物の香水。
けれど笑う時だけ、まるで春先の教会みたいに
柔らかかった。
スコットランド系の血が入っているのか、
その顔には北の国の風が吹いているような印象があった。
彼女は給仕をしながら言った。
「あなた、音楽を愛してる?そんな顔してる」
「・・そんな顔、あるのかい?」
「あるわ。寂しい人の顔」
マイロは赤くなった。
「そ、そういう顔と音楽に何の関係が?」
「寂しい人ほど、音に自分を預けるものよ。
音楽は嘘をつかないから」
その夜、酔っ払いが演奏者を殴り飛ばした。
店主が怒鳴る。
「誰か弾ける奴ァいねえのか!」
ダッチが、マイロの背中を軽くこずいた。
「お前、ちょうどいいだろ」
「嫌ですよ!」
「神の前では進んで弾くくせに、友達の俺の
願いは聞けねえのか?」
マイロは観念して、演奏者のバイオリンを手に
とった。
弓を弦に当てた瞬間、酒場が、静まり返った。
湿った地下室。グラスの氷。煙草の煙。
無数の疲れた目・・その全部が、彼の「音」に
耳を澄ませた。
人間の声域に最も近いと言われるその音は、
聞く者の胸の奥にある、普段は蓋をしている
部屋の扉を、そっとノックした。
彼は"アメイジング・グレイス"を弾いた。
神に見放された街で、神を探すみたいに。
演奏が終わる頃、この酒場で1番似合わない、
暖かい拍手が巻き起こった。
グレイスは、「泣いていた」・・
「・・そんな顔で弾く人、初めて見た」
「変、・・じゃなかった?」
「変じゃない」と彼女は首を振った。
「正直なの。音に全部、書いてある。あなたが
何に怯えて、何を愛して、何を失ったか。全部」
マイロは何も言えなかった。見ず知らずの女に、魂の中身を読まれた気がして、怖いような、
救われたような、妙な気持ちがした。
そこから二人は急速に近づいた。
安いホットドッグを半分こし、雨の日は高架
鉄道の下を歩き、日曜には教会へ行った。
グレイスは笑った。
「ニューヨークって最低。でも時々、綺麗」
マイロは答えた。
「ああ。綺麗だ。まるで君みたいだな」
「・・口説いてる?」
「ち、違う!」
「じゃあ減点」
第四章 もう一つの想い
何故か、スチューも彼女を気に入った。
欲望に正直で、一夜だけ楽しむ奴がなぜ?・・
ある朝、マイロが目を覚ますと、グレイスから
怒りの電話が来た。
「昨日のあなた、最低!」
「え?」
「"その脚で踏まれたい男が列を作る"って、
何よ!?」
マイロは卒倒しかけた。
鏡に向かって怒鳴った。
「スチュー!お前、ふざけるなよ!」
しかし頭の奥、どこか遠い場所から、笑い声の
ようなものが響いた気がした。
弁解も謝罪もなく、ただ愉快そうに。
マイロは歯を食いしばった。グレイスは怒り
ながらも、最後には僅かに笑っていた。
それだけが、救いのような気がした。
数日後、グレイスはまたスチューに出会う。
マイロとして現れるはずの男が、全く別の目を
している。立ち方が違う。声の低さが違う。
漂う危険な匂い。グレイスは給仕のトレイを胸に抱えたまま、じっとその男を見つめた。
「・・あなた、マイロじゃないわね」
スチューは片眉を上げた。
「へえ、気づくか。賢い女だ」
「あなたが、もう一人の人?」
「スチューだ。よろしくなベイビー」
グレイスはしばらく黙っていた。
それからゆっくりと言った。
「マイロのことを、大切にしてる?」
スチューは鼻で笑った。
「俺が? 大切に? 柄じゃねえ」
「じゃあなぜ、あなたはまだ生きてるの」
スチューは視線を逸らし、グラスのウイスキーを一気に煽った。
「・・たまたまさ」
「嘘ね」と、グレイスは静かに言った。
責めるのでなく、ただ事実として。
スチューはもう何も言わなかった。
その横顔には、怒りでも嘲笑でもない、
名前のつけにくい何かが浮かんでいた。
グレイスはそれを見て、静かに微笑んだ。
それ以来、スチューはグレイスに乱暴な言葉を
使わなかった。組織の舎弟たちは首を傾げた。
「兄貴、あの赤毛の給仕に随分と優しいですね」
「うるせえ。俺が優しくして何が悪い」
そう言ったくせに、その夜だけは珍しく素面
だった。
第五章 二つの魂が知り合う頃
やがてグレイスは、二つの存在を静かに
受け入れた。あのダッチのように。
「人間なんて皆、複数の顔を持ってるわ」と
彼女は言った。
「あなたたちは、それが少し極端なだけ」
ダッチもまた、二人を無理に否定しなかった。
葉巻を噛みながら言う。
「いいか、坊主。人間ってのはな、"自分を嫌う
自分"と一生付き合う生き物だ。それを統合する
のに、人は一生涯かけることもある。お前たちは
ただ、その格闘が少し賑やかなだけだ」
その頃から、奇妙な変化が起きた。
スチューが少しだけバイオリンを聴くように
なった。
弾くことは叶わなかったが、酒場で弦楽器の
音が流れると、以前のように怒鳴って止めさせることをしなくなった。
ある夜、舎弟の一人が「ボス、あの音、嫌いじゃないんですか」と聞いた。
スチューは低く唸った。「うるさいジャズより、
静かな音楽の方が次の作戦を考えやすい。
それだけだ。」
誰も信じなかったが、誰も笑わなかった。
一方マイロは、震える手でリボルバーを持ち
ながら言った。「・・安全装置って、どれ?」
ダッチは腹を抱えた。
「神よ、この街を救いたまえ!」
二人はまだ、直接言葉を交わしたことが
なかった。頭の奥で気配だけを感じながら、
一つの体の中で、背中合わせに生きていた。
そう。コインの表と裏が、永遠に互いの顔を
見られないように。
しかし、どこか歩み寄る距離感のようなものが
生まれた。生まれたようだった。
第六章 戦いという名の業火
だが、時代は彼らを待たなかった。
敵対組織"レッド・ヴァイパーズ"との抗争が激化する。密造酒のルート。港。警官への賄賂。
全てが、血の値段だった。
スチューは戦場で無双した。
トミーガンを片手で乱射しながら笑い、敵を
殴り倒し、ナイフを突き立てる。
「地獄で会おうぜ!」
夜の街に銃声が響き、閃光が走る。その場所に、いつもスチューはいた。
まるで、今まで受けてきた「不公平」に対する
復讐のように。
自分だけではなく、「もう1人」の誰かの分まで。
湧き上がる力は留まる事がなかった。
【圧倒的な暴力】・・それだけが自分を自由に
すると、彼は心底信じていた。
「神など、いない。」
次第に、マイロは心を削られていった。
スチューの脅威的な強さのおかげで組織は力を
拡大し、ダッチとともにブラック・ドッグスの
中心的存在へと成り上がった。称賛が集まった。金が集まった。恐怖も集まった。
しかしマイロは、スチューが人を殺めるたびに、何か大切なものが少しずつ失われていく感覚が
あった。
音楽の持つ温度のようなものが、血の匂いに
よって上書きされていく感覚。
バイオリンを弾いても、以前のように祈りの
気持ちになれない夜が増えていった。
第七章 雪と血と、赤
そして・・「あの冬」の夜が来た。
グレイスとマイロが帰路についた時だった。
石畳に薄く雪が積もり、街灯がその白さに
滲んでいた。
マイロがグレイスといる時、スチューは
邪魔をしなくなっていた。不思議なくらいに・・
グレイスもまた、「1人」を見ていたのかも
しれない。
住み慣れたこの街のこの景色が、彼女は好き
だった。
隣には、街で1番危険な、心優しい男・・
グレイスが、「・・綺麗ね」と言いかけた・・
その瞬間だった。
背後から銃声。乾いた破裂音。
マイロは凍りついた。
しかし、本能的にグレイスの体を抱きしめ、
庇おうとした。
だが、グレイスは、渾身の力を込めて彼を突き
飛ばした。
グレイスの胸に、・・・赤が咲いた・・・
「・・グレイス!」
彼女は・・・苦しそうに、笑った。
「・・ほん・と・・に・・鈍いんだ・から・・」
「なぜだ!撃たれるのは僕でよかった・・」
「だって」と彼女は細い声で言った。
「あなたの弦の音を・・もう少し・・・
『誰かさん』に聞かせたかったから」
血が雪を染める。赤と白が混ざり合い、それは
まるで、世界で一番、残酷な絵のようだった。
マイロは泣き叫んだ。バイオリンを抱えるために育てた細い指で、彼女の手を握った。
温度が、ゆっくりと逃げていった・・・
第八章 悪魔と虚無
その夜から、スチューは本物の悪魔になった。
報復。拷問。処刑。川に浮かぶ死体。
レッド・ヴァイパーズの最後の残党は1週間で
壊滅した。
誰もスチューに逆らえなくなった。
ダッチですら言った。
「お前が、もうボスだな」
だが、スチューは笑わなかった。
マイロがほとんど現れなくなったからだ。
常に葛藤し、時に足を引っ張り、鏡の前で怒鳴りつけてきたあの男が、もういない。
頭の奥が、静かだった。ただ、うるさいほどに、静かだった。
夜になると、スチューは酒を飲んだ。飲んで、
飲んで・・それでも眠れなかった。
金はある。権力もある。「畏怖」もある。
手に入れたかった「全て」が、ここにある。
だが何かが、決定的に欠けていた。
それが何かを、スチューは言葉にできなかった。言葉にする習慣を、彼は持っていなかったから。
ダッチは黙って傍にいた。余計なことを言わない賢さを、彼は持っていた。
しかしマイロは本当に消えたわけではなかった。
ただ、深く、深く、沈んでいた。
石が川底に沈むように。
グレイスを失った夜から、彼はずっと考え続けていた。一つのことを。静かに、しかし、確かに。
このまま続けるわけにはいかない。
スチューは止まらない。止められない。
ならば、僕にできることは一つだ。
それは、決意と呼ぶには静かすぎた。
祈りと呼ぶには重すぎた。ただ、マイロの中で、何かがゆっくりと固まっていった。
バイオリンの弦が最後の一音を出し切る前に、
静かに張り詰めるように。
第九章 弦の声が呼ぶもの
世界はもはや"彼"のものだった。
誰も逆らうものなどいない。逆らえない。
圧倒的な力の元、抗争や争いも静かに減り、
この街は「怠惰な平穏」に溢れていた。
ある夜、スチューはふらりと見知らぬ酒場へ
立ち寄った。薄暗いスピークイージー。
安酒。煤けたランプ。そして・・・
懐かしい音色・・
舞台の隅で、痩せた老人がバイオリンを奏でて
いる。
"アメイジング・グレイス"
スチューは呆然と立ち尽くした。
その旋律を、彼は知っていた。体が知っていた。
「骨」が知っていた。
胸の奥の、まだ名前のついていない部屋が、
静かに知っていた。
それは、かつてマイロが弾いていた曲だった。
マイロが、赤毛のグレイスのために、あの夜、
初めて"ブルー・スワン"で奏でた曲だった。
スチューは気づかぬうちに、目に涙を浮かべて
しまっていた。
「あぁ?なんだよ・・くそ」
グレイスの笑顔が浮かんだ。琥珀色の瞳。
(あなた、音楽を愛してる?)
(寂しい人ほど、音に自分を預けるものよ。)
そして、マイロの震える細い指が浮かんだ。
弓を弦に当てる、あの静かな所作が浮かんだ。
その全てが・・胸に刺さる。
頭の奥の、沈んだ場所へ向けて、スチューは
声に出さずに思った。
(随分と静かになったな。お前がいないと、俺は
ただの乱暴者だ。それは、知ってたけどよ・・)
返事は来なかった。
その時だった。
背後の暗がりから、男たちが現れた。
レッド・ヴァイパーズの生き残り。
顔に憎悪を貼り付けた、最後の刺客たちだった。
僅かな硝煙の匂いで危機を察知し、スチューは
我にかえった。
弾かれたように動き、テーブルを蹴り倒した。
女たちが悲鳴を上げる。
目にも止まらぬ速さで懐から銃を抜いた。
狙いを定める。引き金に指をかけた。
その瞬間、体が・・・・・・止まった・・
スチューの意志とは無関係に、腕が下がる。
指が、動かない。
引き金を引こうとしても、まるで誰かが内側から手首を掴んでいるように、びくともしなかった。
(・・・お前か!?)
答えは言葉ではなかった。ただ、確かな意志と
して、体の奥から伝わってきた。
(もう終わりにしよう。スチュー)
・・一秒・二秒・・
敵の銃口が、こちらを向いた。
スチューは動けなかった。いや、動かなかった。
聞き慣れたトミーガンの乱射音が、酒場中に
響いた。
・・・熱い鉛が、体中を貫いた。
スチューは床に倒れた。・・・血が、広がる。
煤けたランプが揺れる。
悲鳴が消えた後、老人のバイオリンも当たり前の
ように、もう鳴っていなかった。
静寂だけがあった。
意識が、ゆっくりと、遠ざかっていく・・
第十章 最初で最後の言葉
暗闇の中で、初めて「声」が聞こえた。
はっきりと。近くに。
今まで一度も聞いたことのない距離で。
「・・ごめん。スチュー」
それはマイロの声だった。
スチューは薄く目を開けた。血の味がした。
ランプが遠い。自分がどこにいるのか、もう
よくわからなかった。
「お前が・・止めたのか・・マイロ」
「・・止めた」
「・・・・」
「もう、誰も死なせたくなかった」
それだけだった。
それ以上の説明は、二人の間には必要なかった。
スチューは薄く笑った。
「・・お前らしいな、マイロ」
意識が、波が引くように遠ざかっていく。
「スチュー」
「何だ」
「お前のバイオリン・・聴こえてるか」
・・(俺のじゃない。お前のだろ。)
そう言いたかったが、声が出なかった。
代わりに耳を澄ませた。
静寂の中に、確かに何かが鳴っていた。
細く、温かく、どこからともなく。
「・・聴こえる」
「なら、よかった。」
しばらく、二人とも黙っていた。
やがてスチューは、今まで誰にも言ったことの
ない言葉を、ほとんど息だけで言った。
「すまねえな。マイロ・・」
この痛みは・
・・俺が、俺だけが・・
持っ
て、
いく・・
お前は・・・
・・もう
ゆっくり休め・・
マイロの声が震える。
「・・スチュー」
・・もう、返事はなかった。
「 1人で 」
・・・ 「 逝くなよ 」
ぼくを、
・ ・・ 置いていくな・・
バイオリンが、どこかで鳴っていた気がした。
・・誰かが泣いていた。
それが誰の涙か、もう分からなかった_____
終章 曇り空の下で
曇り空の墓地。
葉の落ちた木々の間を、冬の風が抜けていく・・
ダッチが一人、花を供えていた。
花の名前など彼は知らない。
ただ、白い花を一輪そっとそこに置いた。
帽子を胸に当て、しばらく動かなかった。
葉巻に火をつける。煙が、冬の空に溶けていく。
「ったく。最後まで面倒な奴らだ」
墓石にはこう刻まれていた。
「スチューとマイロ、ここに眠る」
ダッチは長い間、その文字を見つめていた。
「一つの石に、二人分の名前か。
保険会社も神父も、頭を抱えただろうな」
そう言ってから、もう少し真面目な顔になった。
「スチュー。お前は最後に、一番らしくない
死に方をした。誰かに手を止められて、銃も
撃てずに逝った。みっともないと思うか?
俺は思わない。お前が生まれて初めて、誰かの
意志を受け入れた瞬間だったからだ」
葉巻の煙が流れる。
「マイロ。お前は最後に、一番勇敢なことを
した。弦より細い意志の糸で、あの暴れ馬を
止めた。大したもんだ。本当に、大したもんだ」
風が吹いた。木の枝が細い音を立てた。
ダッチは聖書を取り出し、一節を読んだ。
声に出さずに、唇だけで。
それから静かに・・・閉じた。
「悪くねえ人生だったろ? 二人とも」
彼は帽子をかぶり直し、コートの襟を立てた。
去り際に、もう一度だけ振り返る。
「安らかに眠れ。俺は・・お前達に救われた
この命をもう少し楽しむさ。また会おうぜ」
曇り空の下、墓地はひっそりと静かだった。
遠くの通りから、かすかにバイオリンの音色が
流れてくるような気がした。
"アメイジング・グレイス"の旋律が、冬の風に
乗って、霧の街を漂っていく。
それが生きている誰かの演奏なのか、それとも
別の何かなのか、ダッチには分からなかった。
分からなくてもいい、と彼は思った。
禁酒法の時代は、まだ続いていた。
人々は相変わらず、地下で酒を飲み、笑い、
泣いた。善人は昼に祈り、悪人は夜に稼いだ。
そして大半の人間は、その両方だった。
ただ、一つの体に二つの魂を宿した男だけが、
街から消えた。それだけなのだ。
しかし・・
スチューとマイロは、ついに1つとなった。
長いようで、短い旅路の果てに・・・
どちらが勝ったのでも、どちらが負けたのでも
なく、二人は同じ場所に辿り着いた。
マイロが、最後に手を止めた。
スチューが、最後に耳を澄ませた。
それで、それだけで・・
_______________十分だった。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
イザヤ書 四十三章 四節
end
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