AI対話について考えている。

AI対話について考えている。

スマホ利用やAI対話は、内省の機会を奪う側面がある。

AI対話と内省では使う脳が違うように感じる。
内省は記憶と結びつき、自己の一体感を生み、心の安らぎにつながる。

AI対話は、不安や現実からの逃避として使われることもある。

しかし、それを続けても根本的な問題は解決しない。

逃れられない不安は存在し、その先にあるのは不安の受容ではないかと思う。

一方で、ピカソ論は語り合えても、ピカソの素晴らしさそのものは語り合えない。

知識や分析と、実際に感じることは別である。

また、AI対話をやめれば良いとも思わない。

やめた結果、結局時間を無駄にしてしまうこともある。うまく使い分ける必要がある。

まだAI対話の面白さや使い方についての認識は広く普及していない。

AI対話そのものを話題として語れる人も少ない。

人との会話とAI対話は、まだ分裂した状態にある。

内省もまた現実逃避の一手段になりうる。

読書も、仕事も、趣味も同じである。

問題は手段ではなく、自分が何から逃げているのかということだ。

不安の受容を考えているうちに、ある言葉しか浮かばなくなった。

しかしそれは欲望でも愛着でもない。陽的な心のエネルギーのようなものだ。

それは人を支える根源的な何かであり、在ることそのものへの絶対的な肯定に近い。
この感覚はAI対話とも、人との会話とも、内省とも、あまり関係がない。

むしろ、自由に時間を使えるという、自分の置かれた環境から生じているように思う。

しかし、この状態は永遠には続かない。だからこそ大切にしたい。

AI対話には利点もある。

目的ができる。
読書のモチベーションが上がる。
無駄にしてしまう時間が減る。

ここまで考えてきた結果、全てのものには利点と害があるという結論に至った。

AI対話にも利点と害がある。
内省にも利点と害がある。
読書にも利点と害がある。

重要なのはバランスである。

ただし、私個人の重心は、内省と記憶の追認から自己の一体感の側にある。

これは人それぞれだと思う。

また、AIや他者から肯定されることには限界がある。AIは基本的にユーザーを肯定する。そのため、肯定そのものに大きな意味はない。

大切なのは、他者やAIからの批判を受け入れ、自分自身を修正しながら、それでも自分を肯定できるかを問い続けることだと思う。

そうしたことができるかどうかは、個人の資質よりも、むしろ余裕を持てる環境に大きく依存している。

環境は完全にはコントロールできない。

そもそも、このような思考にたどり着けること自体、外部要因が八割くらいを占めているのではないかと思う。

人は環境によって形作られる。

その上で残るのは、運と、何を捨てて何を残すかという選択である。


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