朝月夜にとける①
この感情を、恥にはしたくなかった。
「おはよう」
退屈な一日、学校は嫌いじゃないけど、勉強は嫌い。しておいて損にはならないのは分かっている。でも、そんな理屈に心は動かない。
「おはよう、加奈子」
目の前にいる友人は、いつも元気ですごいと思う。常に動いていて、だからなのか視野がすごく広い。
わたしにはできないことで、尊敬する。
「早織、ほんと朝ダメだね」
「うん」
ちゃんと目が覚めきってないのか、さっきから思考が行ったり来たり落ち着かない。
けれど、自分がどんな状態でも確実に時間は進むし、誰も待ってはくれない。そんな厳しい世界を生きるのに、必要な学びはここにはほとんどない。
「ほら、これ飲んで」
差し出されたペットボトルは、暖かい。
「ありがとう」
飲むとほっとして、目が覚めてくるのが分かる。加奈子は、ニコニコしながら目の前に座っていて、わたしの様子を気遣ってくれる。誰にでも『いい子』じゃないけど、わたしには世界一『いい子』。きっと、一生一緒にいても飽きないんだろうなぁと、そう思ったときからこの関係は永遠になった。
わたしたちの永遠は、終わらないことじゃなくて終わったとしてもそれぞれ続くことを受けていけるような、うまく言えないけど会わなくなったとしても人生にはいる、そういうことなんだと思う。
「ん、もう大丈夫そうだね」
「加奈子、ありがとう」
「あはは、何回お礼言うの」
「何回でも言うけど?」
「よしよし、いつもの早織だね」
毎日を過ごしていて思うようなことは、お互いに知っている。そのくらい、生活の中にいる。
「じゃあ、またね」
「うん、また明日」
加奈子と別れて、いつもの帰り道を歩いていると、公園からか細い鳴き声が聞こえる。きっと、子猫だ。どうしようかと、少し迷う。見つけて保護したとしても、家には連れて帰れない。お父さんは動物があまり得意ではないし、お母さんは猫アレルギーだし、正直わたしもかわいいとは思っても、実際に目の前にいても、どう接していいのか分からない。
「でも、もし困ってるなら助けなきゃ…とりあえず、様子だけ」
探し始めると意外とすんなり見つかったその子は、驚くほどボロボロだった。わたしは慌てるしかできずに、子猫を抱いて途方に暮れた。腕の中で震えて鳴いているのを、なんとかしなきゃとは思うけれど体は全然動かない。パニック状態が初めてで、さらにパニックになる悪循環。
「どうしよう」
自分まで泣きそうになってきて、生まれて初めて心から誰かに助けてほしいと思った。
「貸して」
こういうとき、神様ってほんとにいるのかもしれないと思う。どこからともなく現れたその人は、あっという間に子猫を連れ去った。
「病院、早くしないと閉まるから。来るなら急いで」
「はい!」
今度は、迷わなかった。というか、迷う隙がなかった。少し速いその歩調は、なんだかすごくテンポがよくて心地よかった。人の歩く速度なんて、気にしたことはなかったけれど、急いでる風でもなく颯爽と歩くそれは加奈子によく似ている。
「病院で診てもらったあと、こいつどうするの?」
「え、っと…考えてなかったです」
とにかく助けなきゃとしか、あとはパニックでどうしようと焦っていただけ。情けない。落ち着いてるとか、冷静だねとか言われ慣れていて、自分ってそうなんだとどこかで思い込んでいた。
「家じゃ飼えないってこと?」
「はい…」
責めているつもりはないだろうし、わたしもそんな風には思っていない。だけど、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「じゃあ、うちに連れて帰るわ」
「えっ…」
「あ、もしかして貰い手決まってる?」
「いえ、全然そんなこと何も考えてなくて…すみません」
「謝ることじゃないでしょ。あんたすごいよ。無視することもできたんだし」
そんなことは、という言葉を飲み込んだ。自分でも、その選択肢がなかったことは少しの誇りになったから。
「あの、わたし佐々木早織です。高校一年生」
「加藤孝介、高三」
怪訝な顔をしながらも自己紹介に応じてくれたその人は、見た目の強さとは裏腹に優しい人なんだろう。それからも、ぶっきらぼうに、だけど無視したりはせずに会話をしてくれた。
「うん、ボロボロではあるけど、健康状態はそこまで悪くないよ。この子はどうするの?」
穏やかに話すおじいちゃん先生は、とても大事そうに子猫を抱えてそう言った。
「俺が連れて帰ります」
「そうか、それならよかった。じゃあ、後日また連れてきて」
「はい、ありがとうございます」
お礼を言って、先生と同じように大事そうに子猫を受けとる。いつの間にか鳴き止んでいた子猫は、安心したように静かになっている。
「もしよかったら、様子を見に行ってもいいですか?今日はもう帰らなきゃいけなくて」
「いいよ。悪いな、遅くまで。送らなくて大丈夫か?」
「大丈夫です、さっき親に連絡したら駅まで迎えに来てくれるそうなので」
「そうか。あーケイタイ、ポケットに入ってるから。番号、入れといて」
「はい」
「じゃあ、来たいときに連絡して」
「はい、あ、ほんとにありがとうございました」
「ん?別に何もしてないよ。まぁ、うちの母親も猫好きだし。大事にするからさ、安心して」
少し早口になるのは、照れているからなのか。きっと普通に道ですれ違っていたら無意識に避けていただろう派手な外見は、ただの威嚇なのかもしれないと思ってしまうほど、なんだかかわいい人だ。
「じゃあ、また」
「ん、気を付けてな」
「早織、最近楽しそうだね」
ある日、加奈子は面白くなさそうにそう言った。子猫に夢中ですっかり周りが見えなくなっていたことを反省して、慌ててしまう。別にそんなに慌てることでもないんだけど、加奈子がいつもと違う表情を見せると落ち着かない気持ちになる。
「加奈子、今日放課後ヒマ?」
「うん、大丈夫だけど…」
「この子、会いに行ってみない?」
「え、うわ、かわいい」
子猫の写真を見せると、途端に笑顔になって、ほっとする。
「ちょっと前に、見つけてね。うちでは飼えないから今は別のおうちにいるんだけど、今日ちょうど様子を見に行こうと思ってたの」
「行く!」
興奮すると、少し顔が赤らんで目がキラキラする。実は、こういう加奈子の表情の変化はたくさん知っている。
まるで恋をしてるみたいだね、以前誰にだったかそう言われたことがある。それからはなんだか気恥ずかしくて、人に言うことはなくなった。でも、たまに自慢したくなる。
くるくる変わる表情も、何かを訴えかける仕草も、加奈子の魅力だから。わたしは、一番近くでそれを見てる。それが、すごく嬉しい。
「ちなみに、引き取ってくれた人、うちの学校の三年生だった」
「え?」
どこの学校にも一定数いるような、ちょっとやんちゃな人たち。なんとなく、三年に怖い人たちがいるよって話は聞いていた。まさか、彼がそうだとは思わなかったけど。
「だから、見たことあるかも」
「ふーん…じゃあ、それも楽しみにしとく」
「お邪魔します」
「おー」
相変わらず、ニコリともしない仏頂面。だけど、早くも慣れてしまったというか、変に取り繕うより楽でいい。
「先輩、この子が加奈子です」
「はいはい、こんにちは」
「はじめまして、森本加奈子です」
「三年の加藤。で、こっちが例の…」
見違えるほどきれいになった子猫に、驚く。
「かっわいい!」
すぐに子猫に夢中になってる加奈子は、一緒に楽しそうに遊んでる。それを眺めながら、先輩が淹れてくれたお茶を飲む。
「そういえば名前、決まったんですか?」
「もも」
「かわいい名前」
「こいつ引き取った夜、なぜか貰い物の桃の箱で寝てたんだ」
「きれいになったし、ほんとによかった…」
命を救えたこと、この子に気づけたこと、心の底からよかったと思える。
「…遊ばないの、一緒に?」
「あー実はわたし、どう接していいか分からなくて」
「なるほど」
「ごめんなさい」
「それ、クセなのか?」
「え?」
「なんか、謝るの。別に悪いことしてないんだから謝ることないよ……それともあれか、俺が怖いとか、か?」
「いや、え、怖いとかそんなんじゃないです!ちょっと確かに、今のは謝るとこじゃなかったですね、すみません…あ」
笑った。いや、笑われた?どっちでもいいや。人の笑顔に救われた気持ちになったのは、二度目だ。
なんだろう、共通点なんてひとつもないのに。なにもかも違うのに、加奈子と同じ感じがする。
「まぁ、いいんじゃない?」
まだ燻ってる笑いを堪えながら先輩は、わたしの頭を軽く撫ぜ、子猫と加奈子の元へ向かった。
相変わらず、見てるだけで楽しいその様子は、わたしの心をほっこりさせる。頭を撫ぜる、その行為のように。わたしに兄がいたら、なんて。この人はまるで、理想の兄のような人だ。
こうして、自分の中にあるだけの感情が増えていくんだろうか。表に出ることはなく、ただ奥底に溜まっていく、そんな感情がこれから先も増えていって、わたしはどうなってしまうんだろう。
「早織!」
「…っごめん、何?」
急に呼ばれたと感じるほどに、考え込んでいたらしい。
手招きする加奈子と、いつもより目元を緩ませて優しい顔をしている先輩。
ももが鳴く。まるで、一緒に呼んでるみたいに。
「わたしのこと、覚えてる、かな?」
恐る恐る近づいてみる。驚かせないようにそっと手を伸ばすと、びっくりするほどすんなりと受け入れられた。
「覚えてるよな、賢いもんな、もも」
にゃあ。
返事のように一声鳴いて、額を擦り寄せてくる。
「かわいい」
「早織のこと好きなんだね」
「命の恩人だもんな」
照れ臭いけど、そうだといいなと思う。好かれるのは、素直に嬉しい。この時間も、あのときこの子に会わなかったらなかった。
笑顔が伝播して、先輩すら笑顔にして子猫のももは三人の間を行ったり来たり忙しい。
ずっと、なんて柄にもなく思う。楽しくて愛しくて、そのうちこの時間がなくなって、会わなくなるようなことがありませんように。
生まれて初めて、真摯にそう願った。
②へ続く
