蒲桜を巡る旅その2 我が願い叶いなば、汝地に生きよ 吾妻鏡の今風景84
石薬師寺の蒲桜を見に行く前に、三重県在住のアストロロジャー仲間のA氏にメールした。
「私、桜を見に鈴鹿に行きます。三重県川曲(かわの)というところの石薬師寺にあるそうです。駅からめちゃ歩くのですが、頑張る。そのあと、亀山に立ち寄れそうです、久々にお会いしましょう!」
すると「本当に川曲(かわの)にいらっしゃるのですか? では、車を出します、石薬師寺をご案内しましょう。」とお返事が!

当日、川曲(かわの)駅で待ち合わせ。
「ゴッホの桜ですよね、でももう散ってしまっているでしょう?」と。
いや、ゴッホではないで~す、ゴッホは鈴鹿には来てないでしょう? 範頼さま!範頼さまの桜!
「範頼さまって源範頼?」
石薬師寺の桜は、広重の「五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら範頼の祠」に描かれており、そして、その広重の浮世絵が、ゴッホの絵の背景に描かれているのだそう。A氏はてっきり、私がゴッホ好きで石薬師寺を訪ねてきた、と思ったらしい。広重の浮世絵のコピーをご持参いただきました。地元にお詳しいA氏に、東海道と伊勢街道について解説いただきながら宿場巡り、ありがとうございました!
そのあとは共通のテーマである「宿曜経」の話で盛り上がり。A氏は、名古屋で「宿曜経」の講座も開催されています。私は、セファリエル(神智学協会の)について、最近調べた考察を誰かに聞いてもらいたくてしょうがなかったところ、コーヒーおかわりしながらの長談議になりました。
さて。ここでおさらいですが、蒲冠者源範頼が平家追討のため西へ向かう途中、石薬師寺に詣でて武運を祈願。戦運を占うため、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿し、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と唱える。のちに生長したのがこの蒲桜であるという。そして広重の浮世絵に描かれ、その浮世絵をゴッホが描いたという。日本、桜、浮世絵! ゴッホは範頼さまのエピソードまでは知らなかったと思うけど。



寿永三年/元暦元年(1184年)八月八日(グレゴリオ暦の9/13頃)、範頼は九州進軍の任を与えられ、西へと旅立つ。その前夜には頼朝が酒宴をひらき、秘蔵の馬と鎧を授けたとある。そして当時、馬の鞭に使われていたのは桜の枝。
蒲御厨の神明宮の記載では、その桜の枝は蒲桜であったということになる。(石戸宿、蒲御厨、石薬師寺の桜が、すべて同じ蒲桜である、という前提で。)
しかし、調べてみたら、石薬師寺の蒲桜は、ヤマザクラの変異種だという。
石戸宿の蒲桜は、ヤマザクラとヒガンザクラのF1。
つまり。石戸宿の蒲桜と、石薬師寺の蒲桜は、違う桜。石戸宿の蒲桜≠石薬師寺の蒲桜。
石戸宿の蒲桜の枝が、石薬師寺に根付いたというわけではなかった。
では、石薬師寺の桜は、どこの桜なのか。

ケース1
蒲御厨に立ち寄って手折った桜の枝を、鈴鹿の石薬師寺で挿したという可能性。。
蒲御厨から鈴鹿まで10日間ぐらいなので、挿し木できる可能性は高い。
となると、蒲御厨=鈴鹿の石薬師寺、しかし、鈴鹿の石薬師寺≠石戸宿の蒲桜、∴蒲御厨≠石戸宿の蒲桜。
その後。石戸宿にあった桜の根元に、正治二年に範頼さまの墓が作られたのではないだろうか。
ケース2
『元暦元年(1184)八月大八日甲子。晴。參河守範頼爲平家追討使赴西海。午尅進發。』(吾妻鏡)
鎌倉の八幡宮を出たのが八月八日の午の刻。八幡宮で青々と葉を茂らせていた山桜を手折って鞭にしたのではないか。
旧暦八月八日に鎌倉を建ち、旧暦九月一日には入京。となると、鈴鹿を通過したのは八月二十五日頃? 鎌倉から鈴鹿まで半月以上かかっているので、桜の枝は萎れてしまうが、挿し木できる可能性がまったくないというわけではない。(ただし、根付く可能性は低い。)
ケース3
東海道を西へと走りながら、どこかで手折った桜の枝を馬の鞭とし、その桜を石薬師寺に挿した可能性。可能性が高いのは熱田神宮周辺の桜ではないだろうか。
この当時、七里の渡しはなく、範頼軍は木曽三川(墨俣川)を越えて鈴鹿へ到達したので、熱田神宮→墨俣川野営地→鈴鹿の石薬師寺、2~3日間の日程なので、手折った桜の枝を挿し木して根付く可能性はかなり高い。
ケース4
墨俣川の桜の可能性もあるのではないだろうか。一度も会うことのなかった異母兄弟の義円を偲んで墨俣川で手折った桜を、石薬師寺に挿したということも考えられなくはない。
(注・墨俣川合戦場については、別に書きます。)
石薬師寺の桜は山桜の変種なので、花の咲く時期には、やや茶色がかった葉が同時に出る。
(石薬師寺の写真は撮っていません。写真を見る限りでは、一般的な山桜の葉の色、花弁のピンク色が濃いのかな?)
石戸宿の蒲桜は、咲き始めの花弁は白く、花のすぐあとから緑の葉が出る。山桜の葉の色ではなく緑色の葉、葉の色を見るなら、この2つの桜はまったく別の種類である。
そして、蒲御厨の桜がどんな桜だったのかについては、今はもう知ることはできません。




