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秋月耕三(父親)の日誌④。-1944年,〈次兄〉の行方不明。

 私の次兄の名前が書かれている部分は、〈次兄〉と記す。父親の次兄のことではない。
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 秋月耕三が遺した<文書第一>、昭和19年(1944年)の項。
 「十九年秋か、〈次兄〉が行方不明になった事がある。親愛幼稚園に通っていた頃である。
 夕方になっても帰って来ないし、昼頃より付近では遊んでいなかったらしいので、先ず付近を探し、次に道後の両親宅に行って見たが居ない。それより前、三歳位の時、堀端方面にゆき警察からの通知で連れに行った事があったので、巡査派出所に届けたが、別に迷子の届出もないという。心配となり、町内会の人々が手分けして探してくれる。福島印刷所の人など特に熱心にやってくれた。幼稚園の先生も、心配して来てくれたりした。道後の父も夕方から来た。夜に入り、城山登山道を探して歩く。此時、手提電灯をいろはやの玩具店より借る。
 午後九時頃か、松山駅へ行った人(福島印刷所の人)が連れて帰って来たが、その話では、国鉄の汽車にのり、香川県本山付近まで行った時、車掌が気づき、下り列車に乗せて、帰らせたらしい。平常市内電車に独りで乗る経験から何の気もなく、乗って行ったらしい。〈次兄〉は此外にも一度湯山行バスに乗り、終点まで行き、引返した事もあった。とにかく無事に帰って安心はしたが、町内の人々に対して体裁は悪いし、当分の間は目が離せなかった。
 (左側空白行に追記)此の御礼の意味で大街道二丁目町内会へいくらかの寄付をしたいと町内会長岸田時計店主迄申出たが、その必要なしとて、結局お礼もしなかった。薄給のサラリーマンとして、却って先方も気の毒と思ったのであろう。昭和三十二年秋、古川ウメ子さん(右の件当時同組内に住む)に合うと、『迷い子になった坊ちゃんはお元気ですか』と早速云われ、又この事を思出す。」
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 掲載者注記/
 この時期に松山市の中心部に住んでいた、ということは間違いない。
 それは、「大街道二丁目町内会」の区域内だっただろう。しかし、この辺りの住居表示はその後変遷しているので、現在の「大街道(おおかいどう)二丁目」と同じでない、と思われる。もっとも、町内会にあったとされる「いろはや文具店」の「登記官による廃止」情報(経済産業省Web)でのその「所在地」は「大街道2-6-4」とされている。
 次兄はこのとき「親愛幼稚園」に通っていたようだ(80年以上を経た現在でもある!)。翌1945年が就学期で、父親文書の1945年の項には、「〈次兄〉道後小一年〜二年」の文字がある。1945年7月の松山空襲のとき「道後」にいた(その日昼には父親と〈長兄〉とともに「岩堰」(いわぜき)にいた)ことも考慮すると、1945年4月に最初から道後小学校に入学した可能性が高い。
 〈長兄〉は1944年は、市内最中心部の「番町小学校」生徒で、翌年に「道後小学校」(いずれも「国民学校」)に転校したのだろう。但し、「番町小学校」に新一年生から入学したのだったかどうかは、両親家族が北海道・根室から離れたあとで「道後」の祖父母の家(母屋)で暮らした期間の長さによるので、疑わしい。そして、父親文書の「昭和17年」の項には、「〈長兄〉道後小一年〜二年」と明記されている。小学校について道後→番町→道後という変遷があり、中学は(〈次兄〉と同じく)入学から卒業まで「御幸(みゆき)中学校」(現・東中学校)だった、ということになる。
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