「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」。-日本共産党批判。
一 ロシア革命にかんする英語著の翻訳を始めたころ、早々に入手したのは、つぎの書物だった。中古書でも、安価ではなかった。
稲子恒夫編・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。
本文から事項索引まで、計1069頁。別に、はしがき・目次で計15頁。「編」となっているが、稲子以外の執筆者はいない。
稲子恒夫(1927~2011)は名古屋大学法学部教授、同大学名誉教授。
この稲子恒夫が、日本共産党系の社会主義法(ソ連法)の研究者だくらいの知識は、私にもあった。
講座・マルクス主義法学(1976〜, 日本評論社/編集担当・林克行)でも重要な役割を果たしていた、「マルクス主義法学者」だった。
二 日本共産党の名古屋(・愛知)地区の幹部だったらしき宮地健一は、その<宮地健一のHP>の中で、「稲子恒夫」について、こう叙述した。二部分に分けて、引用する。太字化は、秋月瑛二による。
1. 「稲子恒夫名古屋大学法学部教授は、著名なソ連法学研究者で学者党員だった。
ソ連崩壊前、彼は、ソ連体制・レーニン賛美党員で有名だった。
しかし、ソ連崩壊後、『レーニン秘密資料』などに直接接し、愕然とした。
彼は、ある時、水田洋名古屋大学名誉教授に会って、『私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた』、と告白した。
その会話内容を私(宮地)は、水田教授からじかに聞いた。
その後、稲子名誉教授は、脳梗塞の後遺症にもかかわらず、1991年ソ連崩壊後に発掘・公表された大量の極秘資料を収集・分析し、下記『ロシアの20世紀』(東洋書房、2007年4月、1069頁)を、70歳・1998年から80歳・2007年にわたり、10年間掛けて完成させた。」
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2. 「ちなみに、稲子教授に関するエピソードを一つ書く。
1969年、全国の大学封鎖運動と同時期に、新左翼・革マルが、名古屋大学の文学部・教養部を封鎖し、立てこもった。
名大の共産党3支部-(1)教職員支部・(2)院生支部・(3)学生支部は、封鎖対策問題でグループ会議を初めて開いた。
私(宮地)は、共産党愛知県委員会の代表で参加した。
私は当時、(3)学生党委員会と(2)院生支部も担当していた。
3支部からトップが2人ずつ参加した。
(3)学生党委員会は、共産党員400人・民青1000人を抱え、全学部だけでなく、文化部ほとんどにも共産党グループを配置していた。
(2) 院生支部も全学部にできていた。
場所は、稲子宅だった。
稲子教授は、(1)教職員支部のトップだった。
テーマは、封鎖解除をどうするか、だった。
稲子教授の提案で、圧倒的多数の共産党・民青組織は、封鎖を包囲し、ビラ・立看板などの宣伝行動をするだけで、武力解除方針を採らないという結論で合意した。
その時点、広松渉は、名古屋大学文学部教授で、ドイツ語・哲学を教えていた。
彼は、封鎖学生の理論的指導者として、毎日、自由に封鎖学部を出入りしていた。双方に暴力的出来事もなく、新左翼・革マルはまもなく自ら封鎖を解除した。」
三 稲子恒夫は、実質的に、名古屋大学の日本共産党の総支部長だったことがあったようだ(形式的には、学生支部・院生支部を除く)。
そして、ソ連崩壊の翌年1992年に名古屋大学を退職した、と見られる。つづいて、数年あとに執筆を始め、10年間をかけて、上記書物を完成させ、そして84歳で亡くなった。
この人は、ソ連崩壊まで、自らの名古屋大学の現役教授時代を、どのように振り返ったのだろうか。もちろん、この人の人生の過半を占める。
四 間接情報ではあるが、上記のような経歴のある稲子恒夫が、「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」と発言したことには、相当の重みがある。
日本共産党一般諸氏は、これをどのような想いで聞くのだろうか。
日本共産党の幹部諸氏に、「感性」は少しはあるのだろうか。
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